14.家族の再生
王への報告を終えた後も、メリルの日々は目まぐるしく過ぎていった。
ウィルダーバーン公爵令嬢として国王に認められたからといって、何かが急に身につくわけではない。むしろ、その日を境に、マリアの指導はいっそう厳しさを増した。
「違います。もう一度。」
マリアの静かな声が、広い応接室に響く。
「違います。」
マリアは扇子を閉じた。
「今の返答では会話が終わってしまいます。」
まっすぐメリルを見据え、マリアは顎を少し上げる。
「公爵令嬢は話すだけではありません。相手に心地よく話していただくことも役目です。」
「はい。」
「感情を顔に出してはいけません。困った時ほど扇子を使いなさい。」
「はい。」
何度目かもわからないやり直しに、メリルの指先が震える。それでもメリルは唇を結び、扇子を持ち直した。
ソフィアが育てたおかげで、メリルには貴族令嬢としての基礎があった。歩き方、言葉遣い、食事の作法、淑女の礼。モーティス家で自然と身についたものも多い。けれど、ウィルダーバーン公爵家の嫡女として社交界に立つには、それだけでは足りなかった。
覚えることは山ほどある。家格ごとの挨拶、扇子の扱い、視線の配り方、会話の切り上げ方、相手の言葉に潜む意図の読み取り方。どれも一つ間違えば、公爵家の名に傷をつけることになる。
メリルはその重みを理解していた。だからこそ、弱音を吐くことはできなかった。
夕刻、執務を終えたエドワードは、応接室の前で足を止めた。中から聞こえるマリアの声は相変わらず厳しく、時折メリルの小さな返事が続く。
しばらく耳を澄ませていたエドワードは、眉を下げて小さく息を吐いた。
「母上、少し厳しすぎませんか。」
稽古が一段落したところで、エドワードはそう口を挟んだ。
マリアはエドワードへと向き直り、視線を向ける。
「いいえ。ウィルダーバーン家の嫡女として、恥ずかしくないよう鍛えねばなりません。ひいてはメリルのためですよ。」
「それはわかっています。ですが、あまり追い詰めないでやってください。」
エドワードの声には、父親としての心配が滲んでいた。
マリアは少しだけ目を細めると、改めてメリルを見た。背筋を伸ばし、緊張を隠しながらも真っ直ぐ立っている少女。その姿に、わずかな満足が宿る。
「あの子なら大丈夫です。」
「母上。」
「私の孫ですよ?」
当然のように告げられたその言葉に、エドワードは一瞬目を見開いた。
それから、ふっと表情を緩める。
「……はは、そうかもしれません。」
マリアはそれ以上何も言わなかった。ただ、扇子の先でテーブルを軽く叩くと、メリルへ向き直る。
「今日はここまでにしましょう。」
「ありがとうございました。」
メリルが深く頭を下げると、マリアは静かに頷いた。
「昨日よりはよくなりました。」
その一言だけで、メリルの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます、お祖母様。」
お祖母様。そう呼ばれたマリアの睫毛が、ほんのわずかに揺れた。けれど表情は崩さず、「明日も同じ時間です」とだけ告げて部屋を出て行った。
残されたエドワードは、嬉しそうに微笑むメリルを見つめる。
「よく頑張っているな。」
「まだまだです。お祖母様に教えていただけるのは、ありがたいことですから。」
「……君は本当に強い子だ。」
エドワードはそう言って、メリルの頭を撫でようと手を伸ばしかけ、途中で止めた。もう幼子ではない娘に、どこまで触れていいものか迷ったのだ。
その逡巡に気づいたメリルは、少しだけ恥ずかしそうにしながら、自分から一歩近づいた。
「お父様?」
呼ばれた瞬間、エドワードの胸に温かなものが広がる。
「いや、何でもない。」
今度こそ、そっと頭を撫でた。
その日以来、エドワードはマリアが厳しくする分、自分はメリルを甘やかそうと決めた。
メリルが夕食の席で「この菓子は美味しいですね」と何気なく言えば、翌日にはその菓子を作った菓子職人が屋敷へ呼ばれていた。
「お父様、これは……?」
「気に入ったのだろう?」
「ですが、わざわざ職人の方を呼ぶなんて。」
「何も問題あるまい。」
あまりにも当然のように言われ、メリルは困ったように笑った。
またある日は、王都で見かけたという淡い青のリボンを土産に渡され、別の日には書店から珍しい地誌や詩集が届いた。さらに天気の良い午後には、「少し息抜きをしよう」と庭園へ連れ出されることもあった。
最初は遠慮していたメリルも、少しずつその優しさを受け取れるようになっていく。
マリアの指導は厳しい。けれど、その厳しさの奥には、公爵家の娘としてメリルを守ろうとする意志がある。エドワードは不器用なほど甘い。けれど、その甘さは十六年分の空白を少しでも埋めたいという愛情だった。
ソフィアはそんな二人とメリルを、温かく見守っていた。
日々は少しずつ変わっていく。
メリルが廊下ですれ違う使用人たちに自然と微笑みかけるようになり、使用人たちもまた、緊張ではなく親しみを込めて頭を下げるようになった。
食卓では、エドワードがメリルの好きな本を尋ね、ソフィアが昔の話をし、マリアが時折厳しい指摘を入れる。けれど、その声に以前のような冷たさはなかった。
三ヶ月が過ぎる頃には、マリアの「違います」は少しずつ減っていた。
「よろしい。」
ある日の茶会の練習で、マリアはそう言った。
メリルは思わず瞬きをする。
「本当ですか?」
「ええ。少なくとも、客前に出しても恥ずかしくない程度にはなりました。」
「ありがとうございます。」
メリルは胸に手を当て、深く礼をした。
マリアはその所作を見届け、静かに頷く。
「ただし、慢心は禁物です。社交界では、所作だけでなく言葉も視線も試されます。」
「はい。肝に銘じます。」
その返事を聞いたマリアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その頃、ジョシュアとエレナの婚礼が近づいていた。
モーティス家から届いた招待状を手にしたメリルは、心がふわりと温かくなるのを感じた。懐かしい筆跡。懐かしい家名。そこには、かつて自分が育った家の空気が詰まっているようだった。
「久しぶりにモーティスへ行くのね。」
ソフィアも招待状を見つめ、懐かしげに目を細める。
「はい。」
メリルは嬉しさを隠しきれず、招待状を胸に押し当てた。
出発の前日、エドワードはメリルを呼び止めた。
「メリル。」
「はい、お父様。」
「久しぶりにモーティス家へ行くが、あそこは今でも君の大切な家だ。遠慮する必要はない。」
思いがけない言葉に、メリルは目を瞬かせた。
「……ありがとうございます。」
「アルバート殿とセディ夫人には、私も感謝している。君とソフィアを守ってくれた家だ。」
エドワードの声は穏やかだった。
「だから、公爵令嬢としてだけではなく、メリルとして行っておいで。」
その言葉に、目の奥がじんわりと熱くなる。
「はい……!」
父の優しさに触れ、メリルの心に新たな感情が芽生えた。
——お父様がお父様でよかった。




