春風が吹く
練習初日は、リュクスが一度楽譜を暗譜してくるので、本格指導を次の日からにしてほしいと言われ、早めに解散することとなった。
「(リュクス様、随分と真剣な顔をされていたわね。夜会まであと2週間あるから、絶対間に合うのに……心配性なのかしら。でも、あのリュクス様が暗譜を一晩でされるとおっしゃったからには、きっと仕上がってるんでしょうね。)」
ぼんやり考えながら荷物をまとめてしまう。
リュクスが迎えに来る前に教室のドア付近にいることで、目立つのを最小限にする作戦だ。
「ノクチリカ嬢。」
仕事ができる人間は、行動が早いとは知ってはいたが、まさか、ここまで早いとは。
「リュクス様。わざわざありがとうございます。」
「いいや、気にしないでくれ。迎えにきたくて、ここまで足を運んでるからね。」
クラスメイトの好奇の目がグサグサと刺さるのを感じながら、どうにか微笑む。
「さぁ、行こうか。」
そう差し出された手を、恐る恐る握る。
背後のざわめきはいつまで続くのか……この1週間で周りがなれることを祈って、リュクスとともに防音室まで向かった。
「ノクチリカ嬢。昨日は素晴らしい演奏をありがとう。
君に感化されて、久しぶりに本気で練習して暗譜してきたんだ。細かい表現は全くだが、迷いなく指は動かせる。
だから、改めて指導を頼む。」
「……本当に暗譜してきたんですの?一晩で?」
「あぁ。お恥ずかしながら、今日はあまり寝ていない。出来るようになるまでやり続けてしまって……。」
そう言って少し照れたようにリュクスは笑い、ピアノを顕現させる。
相変わらず、美しいピアノである。
透き通るクリスタルのようなピアノを前にリュクスは座った。
ピアノはリュクスの奏でる音ともに魔力を帯びて優しく光る。
「(優しい、優しい春だ。穏やかさだけが横たわる、美しい春。)」
暗譜してきたと言っていた通り、指は滑らかに動き、音は正確に響いている。
指が攣りそうなほどの高速なのに、きちんと優雅さを感じる動き。
一晩しか練習してないとは思えないほどミスも少ない。
きちんと楽譜にある音の全てを拾えている。
「(でも、春に焦がれてはいない。春は、冬が明けて暖かくなる、生命が動き出す季節。冬の氷の下で眠っていた生命が、春に焦がれて動き出す、そんな情景は浮かばない。)」
両手を使って激しく、一音も逃さずに弾いていく。
流石ノート家と言わざるを得ない指捌きと、正確さ安定感だ。
穏やかな青空と微風、そして揺れる草花がリュクスの周りに広がっていた。
心地の良い音楽だ。お昼寝するには素敵な季節だと、そう感じる穏やかな音楽。
「(でも、ダメ。私は彼に我儘を教えるために、春を教えている。次に来る夏では苛烈すぎる、春らしい我儘を。全部取りこぼしたく無いの、春の全てをこの音楽で表現する、という気持ちが、演奏が足りない。)」
静かに、穏やかに最後の1音が響く。
美しい春空だった。
「(随分と過不足のない演奏だった。きっと、この世界の正解はこれでいいのだと思う。でも、正しくなきゃダメなのかしら。むしろ、正しかったらダメなこともきっと、ある。)」
リュクスは弾き終わり、脱力していた腕をそのままに、ノクチリカを見る。
「どうだったかな、ノクチリカ嬢。
俺としては、足りないと思ったんだ。
君の演奏より、俺は正しく楽譜の音を拾えてるかもしれない。
純粋なピアノの技術なら、もしかしたら俺が上だ。
でも、足りないんだ。
魔力が織りなす景色も正直だ。
君が弾けば、春はそこにあったのに。俺が弾いても、春風しかない。」
「君と、俺では何が違う?」
迷子の子供のような顔で、ただこちらを見ていた。




