第八十六話 最初の異変
黒い霧は静かに草原を這い始めた。風もないのに揺らめきながら広がり、触れた草花は次々と色を失っていく。その光景は炎に焼かれるよりも静かで、だからこそ底知れない恐ろしさを感じさせた。
青年は七匹の猫たちを一度見渡すと、ゆっくりと前へ歩き出す。七匹も何も言われずともその後へ続き、それぞれ自然な間隔を保ちながら周囲を警戒していた。影神猫は木々の影へ溶け込むように姿を消し、雷神猫は青年の少し前へ出る。炎神猫は周囲を落ち着きなく見回しながらも、決して青年の傍を離れようとはしなかった。
「様子がおかしいね」
ミアが小さく呟く。
「うん」
レオンも頷く。
「戦いに慣れてるんじゃない」
「何が起きても守れるように動いてる」
その動きには無駄がなかった。何度も共に戦ってきた者だけが持つ信頼があり、それぞれが互いの役割を理解していることが、言葉を交わさなくても伝わってくる。
その時、草むらの奥から一匹の白い兎が姿を現した。
青年はほっとしたように表情を緩める。
「大丈夫だ」
「まだ生き物も逃げ切れて──」
言葉は最後まで続かなかった。
兎の身体が突然大きく震え、その白い毛並みが黒く染まり始める。苦しげな鳴き声を上げながら倒れた兎は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳に宿っていた優しさは消えている。
深く濁った黒い瞳だけが、青年たちを見つめていた。
「……っ」
レオンは思わず息を呑む。
ミアも胸を押さえ、小さく顔をしかめる。
「あの子……苦しんでる」
青年は静かに目を閉じた。
「やっぱり命そのものを蝕む力か」
その言葉を聞いた七匹の猫たちの表情が変わる。
雷神猫は低く唸り、炎神猫は毛を逆立てる。風神猫は青年の周囲を素早く駆け、氷神猫は静かに一歩前へ出た。そして影神猫はいつの間にか兎の背後へ回り込み、その動きを見極めるように身を低くする。
「……来る」
影神猫が小さく告げる。
次の瞬間、黒く染まった兎は地面を蹴り、悲鳴のような鳴き声を上げながら青年へ飛びかかった。
しかし、その身体が青年へ届くことはなかった。
影から伸びた黒い爪が一瞬で兎の前へ走り、その進路を静かに逸らす。
続いて雷神猫が駆け抜ける。
激しい雷鳴ではない。
兎を傷つけないよう力を抑えた一撃が、その身体を優しく弾き飛ばした。
青年は静かに頷く。
「倒さないで」
「助けよう」
その一言に、七匹の猫たちは迷うことなく動き始めた。
その姿を見つめるレオンの胸には、不思議な確信が芽生えていた。
千五百年前の猫王もまた、自分と同じように、命を救うことを何より大切にしていたのだ。
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