第八十五話 空の裂け目
丘の上へ生まれた黒い亀裂は、青く澄んだ空をゆっくりと侵食していた。墨を一滴落としたような黒は静かに広がり、不気味なほど穏やかな景色を少しずつ塗り替えていく。風は止み、鳥たちは羽ばたくことも忘れたように森の奥へ姿を隠し、草原には小川のせせらぎだけが静かに響いていた。
青年は黒い亀裂を見上げたまま、ゆっくりと息を吐く。その瞳に焦りはない。しかし、七匹を見守っていた穏やかな眼差しは消え、静かな決意だけが宿っていた。その背中を見つめるレオンは、理由もなく胸の奥が締めつけられるような感覚を覚える。
七匹の猫たちも遊ぶのをやめ、それぞれ自然と青年の周りへ集まっていく。雷神猫は一歩前へ出て空を睨み、影神猫は周囲へ静かに意識を巡らせる。炎神猫は青年のすぐ隣へ寄り添い、残る神猫たちも互いの位置を確かめるように並んだ。その動きに迷いはなく、何度も繰り返してきた日常のような自然さがあった。
「みんな」
青年は七匹をゆっくりと見渡す。
「どうやら、本当に来たみたいだ」
七匹は小さく鳴き、真っ直ぐ青年を見つめ返す。その瞳に恐れはない。ただ、この青年を信じるという強い意志だけが宿っていた。
「約束してほしい」
青年は穏やかに微笑む。
「誰か一人で背負わないこと」
その言葉に七匹は顔を見合わせ、小さく鳴きながら頷いた。青年も安心したように微笑み返し、一匹ずつ優しく見つめる。その眼差しは家族を見るように温かく、レオンにはその空気がどこか懐かしく感じられた。
「僕も約束する」
「必ず、みんなで帰ろう」
レオンの胸が強く脈打つ。
その約束を聞いた瞬間、理由も分からない悲しみが込み上げてきた。まだ何も起きていないはずなのに、この約束が簡単には果たされなかったことだけは、胸の奥が知っているような気がした。
「レオン?」
ミアが心配そうに顔を覗き込む。
「……大丈夫」
レオンは小さく頷く。
それでも青年から目を離すことはできなかった。その背中には、自分が目指したいと思う優しさと覚悟が、確かに重なって見えていた。
やがて黒い亀裂の奥から、ゆっくりと黒い霧が溢れ始める。霧は音もなく空を漂い、大地へ降り注ぐと、一輪の花へ静かに触れた。鮮やかに咲いていた花は一瞬で色を失い、そのまま崩れるように枯れ落ちる。続いて草木は黒く染まり、小川の水面にも静かな波紋が広がっていった。
「命が……」
ミアが息を呑む。
「消えていく」
生命の共鳴を持つミアには分かってしまう。ただ枯れているのではない。生きようとする力そのものが、黒い霧に奪われていた。
青年は静かに拳を握る。
「始まったか」
短いその言葉に応えるように、七匹の神猫はそれぞれ一歩前へ踏み出した。
世界を守るための戦いは、この穏やかな草原から静かに始まろうとしていた。
閲覧ありがとうございました。誤字脱字などありましたらご報告の程お願いします。




