第八十四話 忍び寄る災い
丘を吹き抜ける風はどこまでも穏やかだった。草花は優しく揺れ、小川のせせらぎが静かに耳へ届く。七匹の猫たちは青年の周りを駆け回り、時にはじゃれ合い、時には青年へ甘えるように身体を擦り寄せていた。その何気ない日常は、千五百年後のレオンたちが思わず笑みを浮かべてしまうほど、温かく穏やかな時間だった。
「本当に仲がいいんだね」
ミアが目を細める。
「うん。誰かが従わせてるんじゃない」
「みんな、自分の意思で一緒にいるんだ」
レオンも穏やかに頷いた。
青年は笑いながら七匹を見守る。その眼差しには揺るぎない信頼が宿り、七匹もまた安心しきった表情で思い思いに過ごしていた。雷神猫は勢いよく丘を駆け上がると、大岩へ飛び乗って誇らしげに胸を張る。その姿を見た炎神猫は負けじと飛びかかり、二匹は草原を転がりながら楽しそうにじゃれ合った。
「ははっ!」
ライの口から自然と笑い声が漏れる。
「あいつ、昔っから変わらねぇな……」
言葉を口にした瞬間、ライは自分で目を見開いた。初めて見るはずの光景なのに、「昔から」という言葉があまりにも自然に出てきたのだ。胸の奥がじんわりと熱くなり、理由の分からない懐かしさが込み上げてくる。
「どうしたの?」
ミアが首を傾げる。
「いや……何でもねぇ」
そう答えながらも、ライの視線は雷神猫から離れなかった。
少し離れた木陰では、影神猫が静かに仲間たちを見守っていた。遊んでいるように見えても、その耳は絶えず風の音を拾い、瞳は一瞬たりとも仲間から逸れない。雷神猫が岩場で足を滑らせかけると、その姿は影へ溶けるように消え、次の瞬間には岩の下へ現れて背中で受け止めていた。雷神猫は照れくさそうに鼻先を擦り寄せ、影神猫は何も言わず小さく喉を鳴らすだけだった。
クロはその光景から目を離せなかった。
「クロ?」
レオンが声を掛ける。
クロはゆっくりと瞬きを繰り返し、影神猫を見つめたまま小さく息を吐く。
「……」
言葉にならない。
何かを思い出せそうで思い出せない。胸の奥で引っ掛かっている何かへ手を伸ばしても、指先から零れ落ちていくような感覚だけが残る。
「……何でもない」
静かな声はいつもと変わらない。それでも小さく揺れる尻尾だけが、心の奥の戸惑いを隠し切れていなかった。
「変なの」
アカネは炎神猫を見つめながら笑う。
「初めて見てるはずなのに、一緒に遊びたくなっちゃう」
そう言って一歩踏み出しかけ、不思議そうに足を止める。どこを走ればいいのか、どんなふうに飛びつけばいいのか、身体が自然と知っているような気がした。懐かしいという感情だけが胸いっぱいに広がり、その理由だけがどうしても思い出せなかった。
風が止んだ。鳥たちのさえずりが途切れ、小川のせせらぎだけが静かに響く。それまで楽しそうに遊んでいた七匹の猫は一斉に顔を上げ、影神猫の耳が鋭く動いた。その視線は青く澄み渡る空の一点を真っ直ぐ見据えている。
「……来る」
隣でクロが小さく呟く。
ほとんど同じ瞬間だった。
丘の上の影神猫も、青年だけへ届くほどの静かな声で告げる。
「……来る」
レオンは思わず息を呑んだ。
聞き間違いではない。短く言葉を切る癖も、落ち着いた声色も、わずかな間の取り方まで、隣にいるクロとあまりにもよく似ていた。
青年は静かに頷く。その仕草だけで七匹は遊ぶのをやめ、それぞれの定位置へ自然と集まっていく。誰も慌てず、誰も怯えない。ただ来るべき時が来たことを受け入れるように、静かに空を見上げていた。
レオンもその視線を追う。
青く澄んでいた空の彼方に、小さな黒い亀裂がゆっくりと口を開いていた。風はもう吹いていない。まるで世界そのものが、これから始まる運命を前に息を潜めているかのようだった。
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