第八十七話 救うための力
黒く染まった兎は苦しげな声を上げながら暴れ続けていた。身体は自分の意思とは関係なく動かされているようで、何度も立ち上がろうとし、そのたびに黒い霧が全身を這い回る。その姿を見つめる青年の表情は、敵を見るものではなく、傷ついた命を案じるものだった。
「苦しいよね」
青年はゆっくりと兎へ歩み寄る。
七匹の猫たちもすぐに動き出す。雷神猫は逃げ場を塞ぐように前へ立ち、影神猫は背後へ静かに回り込む。炎神猫は飛び出したくて仕方がない様子だったが、青年の言葉を信じてじっと踏みとどまっていた。それぞれが役割を果たしながらも、誰一人として兎を傷つけようとはしない。
「この戦い方……」
レオンは思わず呟く。
「僕たちと同じだ」
ミアも静かに頷く。
「うん。最初から命を助けることしか考えてない」
その時、兎の身体から黒い霧が大きく噴き上がる。苦しみから逃れるように何度も地面を転がり、悲鳴にも似た鳴き声が草原へ響いた。その姿に炎神猫が思わず一歩踏み出すが、青年は小さく首を横へ振る。
「待って」
その一言だけで炎神猫は足を止める。
青年はゆっくりと膝をつき、怯える兎と同じ目線まで身体を下ろした。
「大丈夫」
「もう終わるから」
優しく語りかける声に応えるように、暴れていた兎の動きがほんの少しだけ鈍る。黒い瞳の奥で、小さな光が揺らいだようにレオンには見えた。
「今だ」
青年が静かに頷く。
その瞬間、氷神猫が一歩前へ出る。白銀の光が足元から静かに広がり、暴れる兎を優しく包み込んだ。凍らせるためではない。苦しむ身体を落ち着かせるように、穏やかな冷気が黒い霧の勢いを少しずつ弱めていく。
続いて光神猫が兎へ近づく。
柔らかな光が降り注ぐと、黒い霧は嫌がるように小さく揺れ始めた。影神猫はその様子を見逃さず、音もなく霧の動きを追い続ける。雷神猫と炎神猫も飛び出したい気持ちを抑えながら、青年の指示を待っていた。
「災厄は命そのものじゃない」
青年は七匹へ語りかける。
「命へ寄生し、その心を蝕む力だ」
「だから命まで奪ってはいけない」
七匹は静かに頷く。
その言葉は、教えというよりも、これから共に歩むための約束だった。
やがて光に包まれた兎の身体から、一筋の黒い霧がゆっくりと浮かび上がる。それは蛇のように身をくねらせながら空中へ逃れようとした。
「……そこ」
影神猫が静かに動く。
影から伸びた鋭い爪が黒い霧だけを切り裂くと、霧は甲高い悲鳴を上げて霧散した。
その瞬間、兎は力なくその場へ座り込み、小さく震えながら青年へ身体を寄せる。
青年は安心したように微笑み、そっと兎を抱き上げた。
「よく頑張ったね」
その穏やかな笑顔を見つめるレオンの胸に、再び温かな感情が広がる。
強いから救うのではない。
救いたいから強くなる。
それが、この時代の猫王だった。
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