第六十話 白猫族の長老
本日1話目の投稿です。58話の修正前と修正後のものが混ざって59話として投稿されてしまっていました。申し訳ありません。
「……もう時間がないか」
長老の呟きが洞穴の前に落ちた直後、山を揺らしていた轟音はゆっくりと遠ざかっていった。白銀の番人は山頂を見つめたまま低く唸り、全身の毛を逆立てている。冷たい風が洞穴の入口を抜け、黒い雪がひらひらと舞い込んだ。その一片が床へ落ちる前に、番人の吐息が白く広がり、静かに消していった。
「長老、あれは……?」
ユキの声には不安が滲んでいた。長老はすぐには答えず、黒い光が噴き上がった山頂をじっと見つめている。その横顔には、長い時間この地を守ってきた者だけが持つ重さがあった。
「ここでは話せん。まずは中へ入りなさい」
洞穴の奥は、外の寒さが嘘のように暖かかった。壁には青白く光る鉱石が埋め込まれ、焚き火の代わりに柔らかな光を放っている。奥には古びた書物や石板が並び、白猫族が長い年月をかけて守ってきた祈りの気配が満ちていた。レオンは足を踏み入れた瞬間、ここがただの隠れ家ではないことを感じ取った。
「ここは……?」
「祈りの間じゃ。白猫族の長だけが守る場所でもある」
長老はそう言いながら、洞穴の奥へゆっくり歩いていく。白銀の番人は入口の前に腰を下ろし、皆を守るように大きな身体で外を塞いだ。先ほどまで黒い雪に侵されていた姿とは違い、今の番人は静かで穏やかだった。ユキはその姿を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「本当に……戻ってくれたんですね」
番人はユキの声に反応するように、小さく喉を鳴らした。その音は低く、けれど優しい。ユキの瞳には涙が浮かんでいたが、今度は悲しみではなかった。
「可愛いところもあるんだな」
ライがレオンの肩で笑う。
「さっきまで本気で殴り合ってた相手とは思えねぇ」
「ライも楽しそうだったじゃん」
アカネがにやりと笑う。
「違ぇよ。俺は王を守ってただけだ」
「はいはい、そういうことにしとく」
「おい!」
二匹のやり取りに、洞穴の空気が少しだけ和らぐ。クロは壁際へ静かに腰を下ろし、目を閉じたまま耳だけを動かしていた。その様子を見た長老は、懐かしそうに目を細める。
「昔もそうじゃった」
全員の視線が長老へ集まる。長老は光る鉱石に照らされながら、遠い記憶を辿るように静かに息を吐いた。
「猫王様の旅も、いつも賑やかじゃった」
「ユウさんのことですか?」
レオンが思わず身を乗り出す。長老はゆっくりと頷き、奥の石椅子へ腰を下ろした。
「そうじゃ。わしがまだ幼い頃、一度だけ猫王様を見たことがある。多くの仲間に囲まれ、笑いながら旅をしておった」
レオンは言葉を失った。ユウのことは災厄の核で聞いた。千五百年前から続く想いも、猫王という存在の重さも知ったつもりだった。けれど、誰かの記憶の中に生きているユウの姿を聞くと、その存在が急に近く感じられた。
「今のお前さんに、少し似ておる」
「僕が……?」
「強さではない。人を惹きつける心がじゃ」
レオンは照れくさそうに視線を落とした。ライは得意げに胸を張り、アカネは嬉しそうに尻尾を揺らしている。クロは何も言わなかったが、目を閉じたまま少しだけ口元を緩めていた。
「王はそういうやつだ」
ライが笑う。
「本人は全然分かってねぇけどな」
「ライまで……」
レオンが困ったように笑うと、ミアも柔らかく微笑んだ。その笑顔を見た長老の視線が、静かにミアへ向く。先ほどまでユウの記憶を見ていた瞳に、今度は別の驚きと確信が浮かんでいた。
「お嬢さん」
「……はい」
「先ほど外で、小さな花を咲かせたじゃろう」
洞穴の空気が静まり返った。ミアは目を丸くし、思わず自分の手を見つめる。あれは自分が意識して起こしたものではない。ただ、助けたいと思った。まだ生きていると感じた。それだけだった。
「見えていたんですか?」
「見えておった。いや……正しくは、あの花が教えてくれた」
「花が……?」
ミアは小さく呟き、戸惑ったまま視線を落とす。フェリスは静かに目を閉じ、雪原で見た光景を思い返していた。番人を包んだ優しい光、黒い雪の中で咲いた白い花、若木が再び息吹を取り戻した瞬間。それらは偶然ではなく、確かに一つの力として繋がっていた。
「長老」
フェリスが一歩前へ出る。
「あなたは、この力をご存じなのですか?」
長老はすぐには答えなかった。静かに立ち上がり、洞穴のさらに奥へ歩いていく。全員がその背中を追うと、最奥には一つの石碑が祀られていた。白い石で造られた古い石碑の中央には、一輪の花を優しく抱く白猫の姿が彫られている。
「これは……」
ユキが小さく息を呑む。
「初めて見ます」
「白猫族でも、この石碑を見ることを許される者は多くはない」
長老は石碑の前で立ち止まり、そっと表面へ手を添えた。石碑には雪の冷たさではなく、どこか温かな気配が宿っている。ミアはその前に立った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ熱くなるのを感じた。まるで誰かが、遠くから優しく呼び掛けているようだった。
「ずいぶん大層なもんなんだな」
ライが腕を組む。
「それだけじゃない」
クロが石碑を見つめたまま、小さく呟く。
「……何かいる」
その一言で空気が張り詰めた。アカネから笑顔が消え、無意識にレオンの前へ半歩出る。レオンも剣の柄へ手を添えたが、石碑から漂う気配は敵意ではなかった。それでも胸の鼓動だけが、少しずつ速くなっていく。
「慌てるでない」
長老は静かに目を閉じた。
「これは、この地に残された記憶じゃ」
長老が小さく祈りを捧げると、洞穴は深い静寂に包まれた。鉱石の青白い光が弱まり、代わりに石碑の白猫の瞳へ淡い光が宿る。最初は小さな灯火のようだった光が、ゆっくりと石碑全体へ広がっていく。ミアは胸へ手を当て、言葉にならない懐かしさに目を見開いた。
「光った!」
アカネが思わず声を上げる。
「おいおい……こいつは普通じゃねぇな」
ライも珍しく真面目な顔になる。
「来る」
クロの短い声が響いた瞬間、石碑の光が一気に強くなった。白い輝きは洞穴の壁を照らし、古びた石板や書物の影を長く伸ばしていく。レオンは目を細めながらも、ミアの隣から離れなかった。ミアの胸の奥では、鼓動が光に合わせるように速くなっていた。
「……え?」
ミアは小さく声を漏らす。誰かが自分だけを呼んでいる。そんな感覚が、光の向こうから確かに届いていた。長老は石碑から手を離し、静かに頭を下げる。ユキも息を呑み、フェリスはその光の性質を見極めようと瞳を細めた。
次の瞬間、石碑全体が眩い白い光を放つ。
誰も目を開けていられないほどの輝きが、洞穴を一瞬で包み込んだ。冷たかった空気が春の朝のように温かくなり、足元には見えない花の香りがふわりと広がる。ミアは胸元を押さえたまま、その光の中心を見つめていた。
そして、光の中から優しく、どこか懐かしい声が響く。
『ようやく……会えましたね』
洞穴にいた全員が、一斉に顔を上げた。
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