第五十六話 命の声
体調がすぐれないので本日1話のみとなります。明日からは通常通り投稿予定です。
「やはり……」
フェリスの小さな呟きは、黒い霧にかき消されそうなほど静かだった。
だが、その瞳だけははっきりとミアを見ていた。白い花が放った微かな光は、普通の浄化とは違う。黒い雪を無理やり消すのではなく、凍り付いた命を内側から温めるような優しい光だった。フェリスはその感覚を確かめるように、指先で雪をそっと払った。
白銀の番人が再び咆哮を上げる。
黒い霧が渦を巻き、鋭い刃のように雪原へ広がった。ライはレオンの前へ飛び出し、雷を纏った前足で霧を打ち払う。しかし霧は砕けてもすぐに集まり直し、番人の体へ刺さった黒い結晶へ吸い込まれていった。
「面倒くせぇな!」
ライが牙を剥く。
「砕いても戻るなら、根っこから引っこ抜くしかねぇ!」
「その根っこを探します」
フェリスは即座に答える。
「クロさん、結晶の位置を」
「三つ」
クロはすでに番人の周囲を走っていた。
「肩、胸、後ろ脚」
短い言葉だけで、十分だった。
レオンはすぐに頷く。
「ライは正面を抑えて! アカネは後ろ脚、クロは肩! 僕は胸を狙う!」
「任せろ、王!」
「行くぞ!」
ライとアカネが同時に飛び出す。
雷と炎が白銀の雪原を駆け抜けた。ライは真正面から番人の前足を受け止め、アカネは炎の残像を残しながら後ろ脚へ回り込む。クロは影のように雪煙へ紛れ、番人の肩へ音もなく飛び乗った。三匹の動きが重なった瞬間、番人の巨体が初めて大きく揺らいだ。
「今!」
レオンは雪を蹴る。
胸元の黒い結晶へ向けて剣を構えた。だが、その瞬間、番人の瞳が赤く光る。黒い霧が胸元へ集まり、盾のようにレオンの前を塞いだ。
「くっ……!」
剣は霧を裂いたが、結晶には届かない。
押し返されたレオンの体を、ミアが後ろから支えた。
「レオンさん!」
「ありがとう。大丈夫」
レオンは息を整える。
そのすぐそばで、ミアは番人を見つめたまま動けなくなっていた。黒い霧の奥から、またあの感覚が届く。痛い。寒い。苦しい。それは声ではないのに、胸の奥へ直接響いてくるようだった。
「ミア?」
レオンが呼ぶ。
ミアはゆっくり首を振った。
「この子……怒っているんじゃありません」
その言葉に、ユキが息を呑む。
「分かるのですか?」
「分かる、というより……聞こえる気がするんです」
ミアは胸元に手を当てる。
「助けてって」
番人が苦しげに唸る。
その声に合わせるように、足元の白い花が淡く光った。黒い雪はその光へ触れると、ゆっくりと水のように溶けていく。ミアはその小さな花を見つめ、何かに導かれるように一歩前へ出た。
「ミアさん、危険です!」
ユキが叫ぶ。
それでもミアは止まらなかった。
「大丈夫」
声は震えていた。
それでも瞳は真っ直ぐだった。
「この子は、まだ生きています」
その言葉が雪原へ落ちた瞬間、白い花がもう一輪咲いた。
小さな光が広がる。
番人の足元の黒い雪がわずかに薄れた。フェリスは目を見開き、レオンはミアの背中を見つめる。ミア自身も、自分に何が起きているのか分かっていない。ただ、目の前の命を助けたいという願いだけが、静かに光となって雪原へ広がっていた。
「……なるほど」
フェリスが小さく息を吐く。
「これは浄化ではありません」
「じゃあ何なんだ?」
ライが番人を押さえ込みながら叫ぶ。
「命そのものを呼び戻しているんです」
その言葉に、ユキの瞳が揺れた。
遠い伝承の一節が、胸の奥で蘇る。命を慈しむ者が現れた時、大地は再び息吹を取り戻す。ユキはミアを見つめながら、震える唇でその言葉を飲み込んだ。
番人の動きがわずかに鈍る。
黒い霧の勢いも弱まっていた。
「今なら届く!」
レオンが叫ぶ。
「クロ!」
「任せろ」
クロの影が肩へ走る。
鋭い爪が黒い結晶へ突き刺さり、亀裂が走った。アカネは後ろ脚へ飛び込み、炎を纏った蹴りを結晶へ叩き込む。ライは正面から番人の巨体を押さえ込み、雷を地面へ走らせて動きを封じた。
三つの結晶が同時に震える。
レオンは胸の結晶へ向かって走った。
黒い霧がまた集まろうとする。だが、その霧はミアの足元から広がる白い花の光に触れ、わずかに薄れた。道が開く。レオンはその一瞬を逃さず、剣を真っ直ぐ振り抜いた。
白銀の光が胸の結晶を貫く。
高い音が雪原へ響いた。
黒い結晶に亀裂が走る。肩の結晶も、後ろ脚の結晶も同時に砕け始めた。番人は大きく身体を震わせ、苦しげな声を上げる。だがその声には、先ほどまでの狂気はもうなかった。
「もう少し……!」
ミアが両手を握り締める。
足元に白い花が咲いていく。
一輪。
また一輪。
黒い雪に覆われていた雪原へ、小さな命の色が戻っていく。白銀の番人の瞳から赤い光が薄れ、代わりに淡い青の光が揺らめいた。
そして、最後の結晶が砕けた。
黒い霧が空へ昇る。
番人の巨体がゆっくりと崩れ落ちる。レオンは剣を構えたまま身構えたが、番人はもう襲ってこなかった。大きな身体を雪の上へ横たえ、荒い息を吐きながら、静かにミアの方を見つめている。
「……ありがとう」
ミアは小さく呟いた。
なぜその言葉が出たのか、自分でも分からなかった。けれど、番人の瞳がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。雪原に咲いた白い花が風に揺れ、その小さな光が番人の体を優しく包み込んでいく。
フェリスはその光景を見つめていた。
驚きはもう消えている。
代わりに、確信だけが残っていた。
「ミアさん」
フェリスは静かに口を開く。
「あなたのその力は、ただの魔法ではありません」
ミアは振り返る。
白い花が足元で揺れていた。
「おそらく、それは……命と共鳴する力です」
その言葉が、雪原へ静かに落ちた。
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