第四十三話 雪原の足跡
本日3話目の投稿です。
鈴の音が響いた方角へ、一行は足を進めていた。
森の中に降り始めた雪は、歩くほどに少しずつ量を増していく。枝葉に積もった白はまだ薄く、地面を覆うほどではない。それでも北から吹く風は明らかに冷たくなり、頬へ触れるたびに、白銀の大地が近付いていることを静かに告げていた。
レオンの肩では、ライが前方を睨むように目を細めている。
「さっきの鈴、まだ聞こえるか?」
「今は聞こえません。でも……気配は残っています」
ユキは胸元を押さえながら答えた。
その指先は白くなるほど強く外套を握っている。怖がっているのは明らかだったが、それでも足は止まらない。聖域の巫女としてではなく、故郷を救いたい一人の少女として、必死に前へ進もうとしていた。
「無理はしないでくださいね」
ミアが隣から声を掛ける。
「はい。ありがとうございます」
ユキは小さく頷く。
その表情にはまだ緊張が残っていたが、先ほどまでのような孤独はなかった。ミアが歩幅を合わせ、アカネが肩の上から様子を覗き込み、レオンたちがすぐそばにいる。その事実だけで、ユキの足取りは少しずつ安定していた。
「おい、ユキ。寒いならちゃんと言えよ」
ミアの肩に乗ったアカネが、ぶっきらぼうに言う。
「え?」
「倒れたら困るだろ。だから寒いなら寒いって言え」
その言葉にユキは一瞬驚き、やがて小さく笑った。
「はい。分かりました」
「よし」
アカネは満足そうに鼻を鳴らした。
そのやり取りを見て、ライがレオンの肩で笑う。
「へっ、アカネもたまにはいいこと言うじゃねぇか」
「たまにはってなんだ!」
「褒めてるんだよ」
「絶対違うだろ!」
二匹の声が雪の森に響く。
それは場違いなくらい賑やかだった。けれど、その明るさが冷たい森の空気を少しだけ和らげていた。ユキも戸惑いながら口元を緩め、レオンはそんな仲間たちを見て、胸の奥に温かいものが灯るのを感じた。
少し前方では、クロが足跡を残さず雪の上を歩いていた。
黒い毛並みは白い景色の中でよく目立つはずなのに、不思議と気配は薄い。木の影から影へ滑るように進み、時折立ち止まって耳を動かす。その姿はいつもと変わらず冷静で、雪の森という慣れない場所でも、斥候としての役目を確かに果たしていた。
「……近い」
クロが短く呟く。
一行の足が止まる。
フェリスはレオンの隣で静かに目を細めた。
「鈴の音ですか?」
「違う。匂い」
クロは前方の雪道を見つめたまま答える。
その声は低かった。
「血の匂いがする」
ユキの顔色が変わった。
レオンもすぐに前を見る。森の奥へ続く道は白く静かで、一見すると何も異変はない。けれどクロがそう言う以上、何かがあるのは間違いなかった。
「行こう」
レオンが言うと、ライが肩の上で低く唸る。
「へっ、任せとけ、王。何か出ても俺が吹っ飛ばす」
「無茶はしないでください」
フェリスが静かに釘を刺す。
「分かってるって」
ライはそう言ったが、尻尾にはすでに雷のような淡い光が走っていた。
一行は慎重に森の奥へ進む。
雪はさらに深くなり、足を踏み出すたびに小さく沈み込んだ。木々の間は薄暗く、枝に積もった雪が時折落ちて静かな音を立てる。白い景色の中に混じる冷たい静寂が、少しずつ胸を締め付けていった。
やがてクロが立ち止まる。
その先に、小さな赤い跡があった。
雪の上に落ちた血だった。
真っ白な雪に点々と続く赤は、あまりにもはっきりと目立っていた。血の跡は森の奥からこちらへ向かって続き、途中で大きく乱れている。何かが傷付きながら逃げてきたのだと、誰に言われなくても分かった。
「これは……」
ミアが息を呑む。
ユキは震える足で一歩前へ出た。
「白猫族の外套の布です」
血の跡の近くに、白い布切れが落ちていた。雪と同じ色で分かりづらいが、端には細かな刺繍が施されている。ユキはそれを拾い上げると、両手で包み込むように握った。その表情は今にも崩れそうだった。
「知っている人のものですか?」
レオンが静かに尋ねる。
ユキは少しだけ唇を噛む。
「分かりません。でも、この刺繍は白猫族のものです。聖域から外へ出る者は、必ずこの模様を外套に縫います」
「つまり、誰かがここまで来たってことか」
ライの声が低くなる。
先ほどまでの明るさは消えていた。
豪快だが、仲間や弱い者が傷付くことには誰よりも敏感なのだろう。レオンの肩の上で身を低くし、森の奥を睨む瞳には、雷神猫としての鋭さが宿っていた。
その時、遠くで枝が折れる音がした。
全員が一斉に反応する。
クロは音もなく前へ出て、フェリスはレオンの隣で静かに身構えた。ミアはユキを守るように半歩前へ出て、アカネはミアの肩の上で牙を見せる。雪の森に、張り詰めた空気が戻ってきた。
「誰かいる」
クロが言う。
その直後、森の奥から、人影が雪の中へ倒れ込む。
白い外套は破れ、肩口には黒い染みが広がっていた。まだ十歳ほどにしか見えない少年は雪へ膝をつくと、そのまま力尽きるように倒れる。ユキはその姿を見た瞬間、大きく目を見開いた。
「ミル!」
ユキが叫んだ。
その声には、初めて聞くほどの必死さがあった。
白い猫はユキの姿を見ると、安心したように力を抜いた。そのまま雪の上へ倒れ込み、細い体が小さく震える。ユキは駆け寄ろうとしたが、フェリスが素早く前へ出て視線で制した。
「待ってください。周囲にまだ気配があります」
その言葉と同時に、森の奥から低い唸り声が響いた。
雪の向こうで、何かが動いている。
白い木々の間から現れたのは、黒い雪を纏った獣だった。狼に似た体をしているが、毛並みはところどころ凍り付き、目は濁った灰色に光っている。口元からこぼれる息は黒く、足跡の周囲では白い雪がじわじわと灰色に染まっていった。
「黒い雪……」
ユキの声が震える。
レオンは胸元へ手を添えた。
猫王の紋章が熱を帯びている。目の前の獣から感じる気配は、災厄そのものとは違う。けれど命を冷たく蝕むような嫌な感覚は、確かに黒い雪と同じものだった。
「王、下がってろ」
ライが低く言う。
その声にはいつもの軽さがなかった。
「こいつは俺が見る」
「僕も戦う」
「へっ、分かってる。けど最初は俺に任せろ。雷神猫ライの力、久しぶりに見せてやる」
ライの体から、淡い雷光が走る。
レオンの肩にいた小さな猫の姿が、眩い光に包まれた。雪の森を照らす金色の雷が弾け、その小さな影が一気に大きくなっていく。白い雪が舞い上がり、冷たい空気を裂くように、七神猫第三席の力が解き放たれた。
雷光の中から現れたのは、巨大な雷の神猫だった。
鋭い瞳。
金色に輝く毛並み。
背中を走る雷の紋様。
その姿は普段レオンの肩に乗っている猫とはまるで違っていた。けれど豪快に笑うその声だけは、いつものライそのものだった。
『へっ! 来いよ、黒い雪の獣。王の前に立つなら、俺を越えてからにしな!』
黒い獣が咆哮する。
雪の森が震えた。
そして次の瞬間、雷と黒い雪が正面からぶつかった。
雷光の中から現れた巨大な神猫は、黒い雪が舞う森を見下ろすように立っていた。
黄金に輝く毛並みは降り積もる雪さえ照らし、四肢へ走る雷紋は鼓動に合わせて淡く脈打っている。その巨体から放たれる圧倒的な存在感に、黒い雪を纏った獣でさえ一瞬だけ足を止めた。森を満たしていた冷気が、雷の熱で押し返されるように揺らいでいく。
『へっ! どうした! さっきまでの威勢はその程度か!』
ライが豪快に笑う。
その声は森中へ響き渡り、レオンの胸に自然と安心感が広がった。普段は肩へ乗って騒いでいるライも、本来は七神猫第三席――雷神猫。その実力は誰よりも頼もしく、背中を預けられる仲間だった。
黒い獣が低く唸る。
灰色に濁った瞳がライを捉え、黒い息が地面へ流れ落ちた。その息が触れた雪は、白から灰色へとゆっくり色を変え、小さな音を立てながら凍り付いていく。まるで雪そのものが命を失っていくような、不気味な光景だった。
「普通の魔物じゃありませんね……。」
フェリスが静かに呟く。
「ええ。」
レオンも頷く。
災厄の魔物とも違う。
魔力の質が違う。
けれど、胸の奥がざわつく嫌な感覚だけは、あの災厄の核で感じたものとよく似ていた。
「レオン様……。」
ユキが震える声を漏らす。
腕の中では白猫族の少年――ミルが苦しそうに息をしていた。浅い呼吸を繰り返しながらも、必死にライたちの方を見つめている。その瞳には恐怖だけではなく、「逃げて」という必死の願いも浮かんでいた。
『逃げる必要なんざねぇよ。』
ライが口元を吊り上げる。
『王も仲間も、俺が守る。だから安心して見てろ!』
その言葉と同時に、大地を蹴った。
轟音。
雷鳴。
雪煙が一気に舞い上がる。
巨大な体からは想像できないほどの速度でライは黒い獣との間合いを詰め、その前足へ雷光を纏わせたまま振り抜く。黄金の稲妻が一直線に走り、黒い獣は咄嗟に飛び退いたが、その肩をかすめた瞬間、黒い霧が弾けるように散った。
『当たれば終わりだ!』
ライは笑う。
その笑顔は戦いを楽しんでいるようにも見えた。
黒い獣は怒り狂ったように咆哮し、森全体を震わせた。口を大きく開き、黒い霧を塊のように吐き出す。その霧は空中で幾本もの槍へ姿を変え、一斉にライへ降り注いだ。
「ライ!」
レオンが叫ぶ。
しかしライは慌てない。
『甘ぇ!』
巨大な尻尾が空を薙ぐ。
雷が爆ぜ、槍は触れた瞬間に次々と砕け散った。砕けた黒い霧は雪へ落ち、じゅっと嫌な音を立てながら地面を黒く染めていく。
「雪が……。」
ミアが息を呑む。
白かった雪が、墨を流したようにゆっくりと色を失っていく。その広がり方は生き物のようで、見ているだけで胸が締め付けられた。
フェリスは目を細める。
「あれは魔法ではありません。雪そのものを侵食しています。」
「侵食……?」
「はい。生命力を奪う呪いに近い。」
ユキの肩が震える。
「白銀の大地も……同じです。」
その一言が、森の空気をさらに重くした。
ライは獣を睨み付ける。
『そんなもん撒き散らしやがって……気に入らねぇな。』
豪快な笑みが消える。
代わりに浮かんだのは、仲間を傷付ける者への怒りだった。
『王の行く道を汚すんじゃねぇ!』
雷鳴が轟く。
巨大な雷柱が空から一直線に落ち、黒い獣を包み込んだ。
閃光。
轟音。
衝撃で雪が吹き飛び、森中の木々が大きく揺れる。
やがて光が消えると、黒い獣は苦しそうに膝をついていた。
しかし――。
「まだ立つのか……。」
レオンは思わず呟く。
黒い霧が獣の傷口へ集まり始める。
裂けた毛皮がゆっくりと塞がり、折れた牙までも元へ戻っていく。その異様な再生力に、フェリスの表情が険しくなった。
「再生しています……。」
「そんな!」
ユキの顔から血の気が引く。
ライも鼻を鳴らした。
『へっ、しぶてぇ野郎だな。』
それでも一歩も引かない。
巨大な神猫は堂々と胸を張り、雷を纏った前足を再び地面へ構える。
その姿を見上げながら、レオンは胸元の猫王の紋章がこれまで以上に強く脈打つのを感じていた。
まるで――。
**「まだ終わっていない。」**
そう告げるように。
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