第四十二話 白銀の巫女
本日2話目の投稿です。ストックだいぶ貯めました。しばらく安心です。
「猫王様。どうか、白銀の大地へ来てください。私たちの故郷を……どうか、救ってください」
その願いは冷たい北風に乗り、一行の胸へ静かに届いた。
森には再び静けさが戻っていた。枝葉を揺らす風だけが小さく音を立て、その風はユキの白銀の髪をゆっくりと揺らしていく。不安そうに伏せられた白い猫耳は小さく震え、外套の裾を握り締める指先には今も力が入ったままだった。それでも蒼い瞳だけは、一度もレオンから逸れることなく、希望を手放すまいとする強い意志を宿していた。
レオンはすぐには答えなかった。助けたいという気持ちは、もう胸の奥で決まっている。けれど、目の前の少女がどれほどの覚悟でここまで来たのかを思うと、軽く頷くことはできなかった。白銀の大地という名前も、猫王の聖域という言葉も、まだ分からないことばかりだからこそ、まずはユキの言葉を最後まで聞かなければならないと思った。
「ユキさん。何があったのか、教えてくれますか?」
レオンが穏やかに問い掛けると、ユキは小さく頷いた。
「はい。白銀の大地で……結界が弱くなっています」
その一言に、フェリスの瞳が細められる。
「結界、ですか」
フェリスはレオンの隣で静かに口を開いた。その声は穏やかだったが、すでに状況を分析し始めている鋭さがある。少し前を歩いていたクロも音もなく戻り、森の影へ半分身を溶かしたままユキへ耳を向けていた。ライはレオンの肩の上で尻尾を揺らしながら身を乗り出し、アカネもミアの肩で前のめりになっている。
ユキは胸の前で両手を握った。言葉を探すように視線を落とし、それから北の方角へ目を向ける。その横顔には、遠く離れた故郷を思い出しているような痛みが浮かんでいた。冷たい風が森を抜けるたび、ユキの外套の裾が小さく揺れ、その白い姿は今にも雪の中へ消えてしまいそうに見えた。
「白銀の大地は、昔から外の世界と隔てられていました。雪と氷に閉ざされた土地ですが、本当に守っていたのは寒さではありません。猫王様の聖域を隠すための結界です」
北から吹く風が少し強くなる。その冷たさはただの気温ではなく、どこか遠い場所から運ばれてきた警告のようだった。レオンの胸元で猫王の紋章がかすかに脈打ち、ユキの言葉に反応するように淡い光を灯す。ユキはその光を見つめ、張り詰めていた表情をほんの少しだけ和らげた。
「私たち白猫族は、その結界を守る一族です。猫王様がいつか聖域へ戻る日まで、ずっと守り続けるよう言い伝えられてきました」
「ずっとって、どれくらいだ?」
ライがレオンの肩から問い掛ける。
その声にはいつもの大きさがあったが、茶化すような軽さはなかった。豪快で真っ直ぐな口調の奥に、ユキが背負ってきたものを正面から受け止めようとする真剣さがある。レオンは肩の上のライを横目で見て、こういう時のライはやっぱり頼りになると思った。
ユキは少しだけ目を伏せる。
「少なくとも、千年以上です」
森の空気が重く沈んだ。
千年以上。災厄の真実で聞いた千五百年という時間が、レオンの胸の奥に静かによみがえる。この世界には、自分が知らないところで長い役目を背負い続けてきた者たちがいる。ユウも、エルも、黒竜も、そして今目の前にいるユキも、その長い時間の上に立っているのだ。
「なんだそれ! 千年も待ってたのかよ!」
アカネが目を丸くする。
ミアの肩の上で思いきり前のめりになり、尻尾をぴんと立てていた。ぶっきらぼうな言い方だったが、そこに悪気はない。信じられないものを聞いて、考えるより先に言葉が飛び出しただけなのだと、ユキにも伝わったのだろう。
ユキは少し困ったように笑った。
「はい。ですが、私は十五年だけです」
「いや、それでも長いだろ! 十五年って、ずっとじゃねぇか!」
アカネが即座に言い返す。
その勢いにユキは一瞬目を丸くし、次に小さく笑った。アカネは自分が笑わせたことに気付くと、少し得意げに鼻を鳴らす。レオンはそのやり取りを見て、ユキの緊張が少しずつ解けていることに気付いた。
「それで、その結界が弱くなっているんですね」
ミアが優しく話を戻す。
ユキは表情を引き締めた。少しだけ緩んだ空気が、再び冷たい風に包まれていく。彼女の蒼い瞳は北の方角を見つめ、そこに今も残してきた故郷の景色を映しているようだった。細い指が外套の胸元を握り、言葉を続ける前に小さく息を吸う。
「はい。最初は、小さなひびだけでした。聖域の周囲にある氷の柱が一本だけ濁って、森の奥から変な音が聞こえるようになったんです。けれど日が経つにつれてひびは広がり、今では白銀の大地全体に影響が出始めています」
「具体的には、何が起きているのですか?」
フェリスが静かに尋ねる。
ユキの喉が小さく動いた。
「雪が黒く染まっています」
その言葉に、全員が表情を変えた。
雪が黒く染まる。それはただの異常気象ではない。災厄の核で見た黒い霧や、命を蝕む赤黒い結晶の記憶が、レオンの脳裏へよみがえる。白銀の大地で何かが起きている。その異変は、災厄が終わったからといって放っておけるものではなかった。
「黒い雪……」
レオンは小さく呟く。
「それで、人は?」
ユキの肩が震えた。
その反応だけで、答えは分かってしまった。森の冷気が一段と強まり、彼女の白い耳が伏せられる。ユキは少しだけ唇を噛み、今にも崩れそうな表情を必死に整えながら、声を絞り出した。
「倒れる人が増えています。最初は寒さに負けただけだと思っていました。でも違いました。黒い雪に触れ続けた人は、体が冷たくなって、眠ったまま目を覚まさなくなるんです」
森が静まり返る。
ミアは口元へ手を当て、ライはレオンの肩で静かに目を細めた。クロは周囲の気配を探るように森の奥へ視線を向け、フェリスはユキの言葉を噛み締めるように沈黙している。アカネだけは悔しそうに歯を食いしばり、ミアの肩の上で尻尾を大きく振った。
「なんだそれ。そんなの、放っておけるわけないだろ」
短い言葉だった。
だが、アカネらしい真っ直ぐな怒りがあった。難しい理由はいらない。苦しんでいる者がいるなら助ける。その単純さは時に乱暴にも見えるが、今のユキには何よりも心強く響いたのだろう。
ユキはその言葉に目を見開く。
「怖く、ないんですか?」
「怖いに決まってるだろ。でも、困ってるやつがいるなら行くぞ」
アカネは即答する。
その迷いのなさに、ユキは言葉を失った。白銀の大地では、外の世界の者に助けを求めること自体が半ば禁じられていたのだろう。だからこそ、こんなにもあっさり「行く」と言われたことが信じられないのかもしれない。
ライはレオンの肩の上で大きく頷いた。
「へっ! アカネの言う通りだ! 王が行くなら俺も行く。雪だろうが何だろうが関係ねぇ、俺たちに任せとけ!」
その声は森の中によく響いた。
豪快で、自信に満ちていて、それでいて不思議と温かい。ユキはその声に驚いたように瞬きをし、それから少しだけ肩の力を抜いた。長い間一人で抱えてきた不安を、誰かが当たり前のように分け持ってくれる。それがどれほど救いになるのか、レオンはユキの横顔を見て感じ取っていた。
「では、防寒具の準備は必要ですね」
フェリスが落ち着いて言う。
「そこは必要なのかよ!」
「必要です」
「へっ、分かってる! 準備してから突っ込むのが強いやつってもんだ!」
ライは少しだけ得意げに胸を張った。
そのやり取りに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ柔らかくなる。ユキはまた小さく笑いかけたが、すぐに表情を曇らせた。まだ全てを話していない。そんな重さが、その顔に残っていた。
「でも……問題は、それだけではありません」
ユキの声が低くなる。
北からの風が再び森を揺らした。冷たさの中に、どこか不穏な気配が混じっている。レオンの胸元の紋章が一度だけ強く脈打ち、まるで次の言葉を待っているかのように淡い光を揺らした。
「白銀の大地には、聖域を守る神獣がいます。けれど、その神獣様が……三日前から姿を消しました」
フェリスの表情がわずかに険しくなる。
クロも耳を伏せた。
神獣が姿を消した。その言葉は、白銀の大地の異変がただの結界の不調ではないことを示していた。結界を守る一族がいて、さらに神獣がいる。それでも異変を止められないのなら、その奥にあるものは決して小さくない。
「その神獣の名前は?」
レオンが尋ねる。
ユキは震える唇で答えた。
「白銀の神獣、シラユキ様です」
名前を口にした瞬間、レオンの胸元の紋章が強く光った。
淡い輝きではない。はっきりとした反応だった。森の空気が変わり、遠く北の空から雪の匂いを含んだ風が流れ込んでくる。レオンは胸を押さえながら、どこかで誰かが自分を呼んでいる感覚を確かに感じていた。
ユキはその光を見て、涙を堪えるように目を伏せた。
「やっぱり……レオン様なら、届くんですね」
その声には、希望と恐れが混じっていた。信じたい。けれど、期待して裏切られるのが怖い。その表情は、少し前に救われることを恐れていた黒竜の瞳にも似ていた。レオンは胸の奥が静かに熱くなるのを感じる。
「ユキさん」
レオンは真っ直ぐユキを見る。
「僕にできることがあるなら、行きます」
ユキが顔を上げる。
「本当に……来てくださるんですか?」
「はい」
レオンは頷いた。
その返事に迷いはなかった。まだ白銀の大地で何が待っているのかは分からない。シラユキという神獣がなぜ消えたのかも、黒い雪の正体も分からない。それでも、助けを求める声が届いた以上、背を向ける理由にはならなかった。
「白銀の大地へ行きます。ユキさんの故郷も、神獣のシラユキさんも、助けられる方法を探します」
ユキの瞳が大きく揺れる。
それでも、今度はすぐに涙を流さなかった。代わりに深く息を吸い、胸の前で両手を強く握る。泣くためではなく、前へ進むために自分を支えるような仕草だった。
「ありがとうございます、レオン様」
ユキは深く頭を下げる。
北からの風が、白銀の髪を静かに揺らした。その風の先に、白銀の大地がある。黒く染まる雪、姿を消した神獣、猫王を待ち続けていた白猫族の故郷。その全てが、これから向かう道の先でレオンたちを待っていた。
レオンは仲間たちを見回す。
ライは迷いなく笑い、アカネは今にも飛び出しそうに前のめりになっている。クロはすでに北の気配を探り、フェリスは静かに頷いた。ミアはユキへ優しく手を差し伸べ、その温かな手を見て、ユキは少し驚いたように目を見開いた。
「行こう」
レオンが言う。
その一言に、全員が頷いた。
白銀の風が、一行を北へと導いていた。
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