第四十一話 北へ吹く風
本日1話目の投稿です。
白銀の風が、一行を北へと導いていた。
森を抜ける道は、先ほどまでよりも冷たく感じられた。空はまだ青く、陽射しも柔らかいはずなのに、北から吹き下ろす風だけが季節を間違えたように頬を撫でていく。ユキはその風を受けるたびに少しだけ表情を曇らせ、遠い故郷の気配を確かめるように北の空へ視線を向けていた。
レオンはその横顔を見る。
助けを求めに来た少女は、まだ小さな体に大きすぎる役目を背負っている。けれど先ほどまでのように一人で耐えようとしている顔ではなかった。ミアが隣でそっと歩幅を合わせ、アカネが肩の上から時々声を掛けるたび、ユキの表情は少しずつ柔らかくなっていく。
「ユキさん、疲れていませんか?」
ミアが優しく声を掛ける。
ユキは慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です。白銀の大地までは慣れた道ですから」
そう言いながらも、外套の裾を握る指には力が入っていた。きっと体の疲れより、心の張り詰めの方が大きいのだろう。レオンは急がせすぎないように歩幅を少し落とし、肩のライもそれに気付いたのか、珍しく何も言わずに前方を見つめていた。
「慣れた道って言っても、一人でここまで来たんだろ?」
アカネがミアの肩から身を乗り出す。
「はい。結界の外へ出るのは初めてでしたけど……どうしても、行かなければならなかったので」
ユキの声は小さかったが、その奥には確かな強さがあった。人見知りで、涙もろくて、どこか危なっかしい。それでも彼女は一人で白銀の大地を出て、猫王を探しに来たのだ。その事実だけで、ユキがただ守られるだけの少女ではないことが分かる。
「へっ、根性あるじゃねぇか」
ライが笑う。
「一人で知らねぇ場所まで来るなんて、なかなかできることじゃねぇぞ。なあ、王?」
「うん。本当にすごいと思う」
レオンが頷くと、ユキは驚いたように目を見開いた。
褒められることに慣れていないのだろう。頬が少し赤くなり、視線が落ち着かないように揺れる。けれどその表情には、ほんのわずかに嬉しさも混じっていた。長い間、役目だから当然だと言われ続けてきた少女にとって、その言葉は思っていた以上に温かかったのかもしれない。
「そ、そんな……私はただ、巫女としての役目を……」
「役目でも何でも、やったのはユキだろ」
アカネが即座に言う。
「だったらすげぇよ。胸張れ!」
その言い方は相変わらずぶっきらぼうだった。けれど、真っ直ぐで分かりやすい。ユキは一瞬だけ戸惑い、やがて小さく笑って頷いた。アカネは満足そうに鼻を鳴らし、ミアの肩の上で尻尾を大きく揺らした。
クロは少し前を歩いていた。
黒い毛並みは森の影へ溶け込み、足音一つ立てずに道の先を探っている。時折立ち止まって耳を動かし、風の匂いを確かめるように鼻を鳴らす。その姿に気付いたユキは、不思議そうに目を細めた。
「クロさんは……いつもああして先を見ているんですか?」
「はい。クロさんは偵察が得意なんです」
ミアが答える。
「危険がある時は、誰よりも早く気付いてくれます」
その言葉に、クロは振り返ることなく尻尾だけを軽く揺らした。照れているのか、返事のつもりなのかは分からない。だがそれだけで仲間たちには十分伝わったらしく、ライが肩の上でにやりと笑う。
「クロは口数少ねぇけど、頼りになるからな。俺ほどじゃねぇが!」
「最後の一言が余計です」
フェリスが静かに言う。
「へっ! 事実だろ?」
「その自信だけは本当に見習うべきかもしれませんね」
「だろ!」
「褒めているとは言っていません」
ライがきょとんとした顔をし、アカネが吹き出した。
ユキもつられるように口元を緩める。最初は一行の賑やかさに戸惑っていた彼女も、少しずつその空気に慣れてきたようだった。白銀の大地で背負っていた重さが、完全に消えたわけではない。それでも、隣に誰かがいるだけで歩き方は少し変わるのだと、レオンはユキの横顔を見て思った。
道はやがて緩やかな上り坂へ変わっていった。
木々の背丈は少しずつ低くなり、葉の色もどこか薄くなっていく。足元の土は湿り気を帯び、草の先には小さな霜のようなものがついていた。まだ白銀の大地までは遠いはずなのに、世界は確実に北の気配を濃くし始めていた。
「ここから先は、少し寒くなります」
ユキが立ち止まる。
「白銀の大地に近付くほど、結界の影響が外へ漏れています。本来なら、この辺りまで冷気が来ることはありません」
フェリスは足元の草へ視線を落とした。
薄く白くなった草葉に触れると、指先に細かな氷が砕ける感触が伝わる。単なる霜なら珍しいものではない。だが、その冷たさは自然のものとはどこか違っていた。空気そのものが、静かに命を奪おうとしているような嫌な重さを含んでいた。
「結界が外へ漏れているというより、何かが内側から滲み出しているようですね」
フェリスが言う。
ユキの表情が強張る。
「やはり……そうなのですね」
「断定はできません。ただ、聖域を守る力が弱まっただけなら、ここまで不自然な冷気にはならないはずです」
その言葉に、レオンは胸元へ手を添えた。
猫王の紋章は微かに温かい。冷気に反応しているのか、それともこの先で待つ何かに呼ばれているのかは分からない。けれど、鼓動のような小さな脈動は確かに北へ向かうほど強くなっていた。
「シラユキさんは、どんな神獣なんですか?」
レオンが尋ねる。
ユキは少しだけ目を伏せ、それから大切なものを思い出すように微笑んだ。
「とても優しい方です。白銀の大地の雪を守り、迷った人を導き、弱った命を温めてくださる神獣様です。姿は大きな白い猫に似ていますが、尾は雪雲のようにふわふわで、歩いた場所には小さな光の花が咲くと言われています」
その声には、深い敬愛が込められていた。
ユキにとってシラユキはただの守護者ではないのだろう。幼い頃から見上げ、祈り、信じ続けてきた存在。その神獣が姿を消した不安は、故郷の危機と同じくらい彼女の心を締め付けているように見えた。
「光の花か。なんかすげぇな!」
アカネが目を輝かせる。
「見たい!」
「見られると、いいですね」
ユキは少し寂しそうに笑う。
その笑顔を見て、アカネは一瞬言葉を止めた。考えるより先に口が動く彼女でも、その寂しさには気付いたのだろう。ミアの肩の上から身を乗り出し、ユキへ向かって勢いよく言った。
「大丈夫だ! 見られる! レオンが行くし、ライもいるし、私もいる!」
「俺を二番目に出したのは分かってるじゃねぇか」
ライが満足そうに頷く。
「いや、そこかよ!」
アカネが即座に振り返る。
その勢いにユキが目を丸くし、次の瞬間には小さく笑っていた。まだ不安は消えていない。けれど、その笑顔は先ほどより少しだけ自然だった。レオンはそれを見て、仲間たちの明るさがユキを支えていることを感じた。
しばらく進むと、森の空気がさらに冷たくなった。
風に混じって、小さな白い粒が舞い始める。最初は花びらのように見えたそれは、手のひらに落ちた瞬間、冷たい水となって消えた。雪だった。季節外れの雪が、北へ続く街道へ静かに降り始めていた。
「雪だ」
ミアが空を見上げる。
「この辺りで降るのは、本来ならあり得ません」
ユキの声が震える。
「結界の崩れが、思ったより早く広がっています」
その言葉に、一行の表情が引き締まった。
雪はまだ白い。だが、空気の奥には何か重い気配がある。黒い雪の話を聞いたばかりだからこそ、レオンは舞い落ちる白い粒を美しいだけのものとして見ることができなかった。
クロが前方で立ち止まる。
「……匂いが変わった」
短い一言だった。
だが、その場の全員が足を止めるには十分だった。クロは森の奥へ鋭い視線を向けている。低く伏せた体勢は、いつでも動けるように整えられていた。
「敵か?」
ライがレオンの肩で身構える。
「分からない。ただ、普通じゃない」
クロの声は低い。
その時、北の森の奥から、かすかな音が聞こえた。
鈴のような音だった。
澄んでいて、冷たくて、どこか悲しい音。その音が風に乗って一度だけ響いた瞬間、ユキの顔色が変わった。
「今の音……」
「知っているんですか?」
レオンが尋ねる。
ユキは震える手で胸元を押さえた。
「シラユキ様の鈴です。聖域でしか鳴らないはずの鈴が、どうしてこんな場所で……」
雪が少しずつ強くなる。
白い粒がレオンたちの髪や肩に落ち、森の道を薄く染めていく。猫王の紋章が胸元で静かに光り、北からの風がまるで道を示すように一方向へ流れていた。レオンはその風の先へ視線を向ける。
森の奥。
雪の向こう。
そこに、何かがいる。
「行こう」
レオンは静かに言った。
ライが肩の上で笑う。
「へっ、任せとけ、王!」
アカネもミアの肩で身を乗り出す。
「よし、行くぞ!」
クロはすでに先へ進み、フェリスはレオンの隣で静かに頷いた。ミアはユキの手を握り、ユキは不安を押し込めるように小さく息を吸った。雪の降る森の中、一行は鈴の音が響いた方角へ歩き出す。
その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。
けれど、白銀の大地はもう遠い伝承の中の場所ではなかった。
冷たい雪と鈴の音が、確かに彼らを呼んでいた。
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