第三十二話 崩れゆく核
本日3話目の投稿です。
黒竜の背後にあった巨大な赤黒い結晶が、不気味な音を立てて割れ始めた。
亀裂は一つでは終わらなかった。中心から蜘蛛の巣のように広がり、結晶全体を覆っていく。赤黒い光は激しく明滅し、そのたびに空間全体が大きく揺れた。まるで千五百年もの間、この場所に閉じ込められていた苦しみが、一気に形を失おうとしているようだった。
「これは……」
レオンは思わず息を呑む。
黒竜の鎖は砕けた。心も確かに届き始めている。だが、その代償のように空間そのものが崩壊を始めていた。
『核が壊れる』
黒竜が低く呟く。
その声には先ほどまでの諦めだけではなく、はっきりとした焦りが混じっていた。巨大な体を包んでいた金色の光はまだ弱く、完全に自由を取り戻したわけではない。傷だらけの翼も、砕けた鱗も、そのまま痛々しく残っている。
「壊れたらどうなるんですか?」
レオンが尋ねる。
黒竜は視線を上げた。
『この心の世界が消える。私も、お前も、核の中に残っている全ての記憶も、崩壊に巻き込まれるだろう』
その言葉に、レオンの背筋を冷たいものが走る。
だが不思議と恐怖だけではなかった。ここまで来て、黒竜の心に触れられた。鎖を壊せた。なのに最後の最後で何もできず消えるなど、絶対に受け入れたくなかった。
「外へ出る方法はありますか?」
『ある』
黒竜は答えた。
だが、その表情は険しい。
『核の外へ抜ける道は開いているはずだ。だが私はまだ動けない。長く縛られすぎた。心が戻り始めても、体が自由に応えてくれない』
黒竜の足元で赤黒い結晶が砕ける。破片は宙へ舞い上がり、黒い塵となって消えていった。崩壊は確実に近付いている。空間の奥からは、巨大な壁が壊れるような重い音が響き続けていた。
レオンは黒竜を見上げる。
山のように大きな体。傷付いた翼。砕けた鱗。千五百年もの苦しみを背負った存在が、今ようやく救われようとしている。それなのに、ここで置いていく選択肢などあるはずがなかった。
「じゃあ、僕が支えます」
黒竜の瞳が揺れる。
『無理だ』
即答だった。
『私の体は巨大すぎる。お前一人でどうにかできるものではない』
「一人じゃありません」
レオンは静かに言った。
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
猫王の力が反応していた。
これまで神猫たちと繋がってきた感覚。誰かを助けたいと願った時に、胸の奥から溢れてきた温かな力。それが今、今までにないほど強く脈打っている。
「僕は一人でここまで来たわけじゃないです」
レオンは黒竜を見上げる。
「ミアさんも、ライも、アカネも、クロも、フェリスも、ユウも、エルも、猫神様も。みんなが繋いでくれたからここにいます」
その言葉と共に、レオンの足元から金色の光が広がり始めた。
光は赤黒い空間をゆっくりと照らしていく。砕けていく結晶の間を流れ、黒竜の足元へ届き、残っていた鎖の欠片を包み込んだ。冷たかった空気が少しだけ温かくなる。
黒竜はその光を見つめていた。
真紅だった瞳の奥で、金色の輝きが少しずつ強くなっていく。
『これは……』
「猫王の力です」
レオンは少しだけ笑う。
「たぶん、誰かを支配する力じゃありません。誰かと繋がる力なんだと思います」
黒竜は何も言わなかった。
だが、その表情は確かに変わっていた。長い絶望の中で忘れてしまっていた何かを、もう一度思い出そうとしているようだった。
その時、空間の上部が大きく裂けた。
赤黒い闇の向こうに、白い光が見える。おそらく外へ続く道だろう。だが同時に、崩壊した結晶の破片が嵐のように降り注ぎ始めた。
レオンは反射的に身を屈める。
鋭い破片が頬を掠め、熱い痛みが走った。だが立ち止まっている暇はない。黒竜の巨体を包む金色の光はまだ弱く、このままでは崩壊に飲み込まれてしまう。
「黒竜!」
レオンが叫ぶ。
「僕の声を聞いてください。あなたはもう一人じゃありません」
黒竜の瞳がレオンを見る。
結晶の破片が降り注ぐ中、その視線だけは揺れなかった。
「僕が引っ張ります。だからあなたも、もう一度だけ自分で進んでください」
『自分で……』
黒竜が呟く。
その声には戸惑いがあった。
千五百年もの間、縛られ、閉じ込められ、諦めることだけを覚えてきた心だ。自分から進むことなど、きっとずっと忘れていたのだろう。
レオンは手を伸ばす。
届くはずのない距離だった。
黒竜の顔は遥か高く、レオンの手など届くわけがない。それでも伸ばした。届かなくても構わない。手を伸ばすことそのものが、今の黒竜には必要なのだと思った。
「大丈夫です」
レオンは言った。
「今度は一緒に行きましょう」
その言葉が届いた瞬間、黒竜の胸元から強い金色の光が溢れ出した。
砕けた鎖の跡が光に包まれ、裂けた翼がゆっくりと広がっていく。痛みに耐えるように黒竜の表情が歪むが、その瞳にはもう諦めだけではなかった。恐怖もある。迷いもある。それでも前へ進もうとする意思が、確かに宿っていた。
『……行く』
黒竜は低く答えた。
その声はまだ弱かった。
だが、さっきまでとは違う。
自分で選んだ声だった。
黒竜が一歩を踏み出した瞬間、空間全体が悲鳴を上げるように崩れ始めた。
赤黒い結晶が一斉に砕け、闇の天井が崩落する。足元の大地も割れ、巨大な裂け目から黒い霧が噴き上がった。だが黒竜は止まらない。重い体を引きずるように、それでも確かに光の方へ進んでいく。
レオンも走り出す。
金色の光は二人を繋ぐ一本の糸のように伸びていた。黒竜の心とレオンの力が繋がり、崩れゆく世界の中で細い道を作っている。少しでも気を抜けば途切れてしまいそうな頼りない光だったが、それでも確かに外へ向かっていた。
あと少し。
光の裂け目が近付く。
だがその直前、背後の闇から巨大な黒い腕が伸びた。
それは崩壊する核の残滓だった。救われることを拒む絶望そのものが最後に形を取ったような、歪な腕だった。黒い腕は黒竜の尾へ絡み付き、再び闇の奥へ引きずり戻そうとする。
黒竜の体が大きく傾く。
レオンの胸に繋がった光が激しく揺れた。
「離せ……!」
レオンは叫ぶ。
だが黒い腕は離れない。黒竜の体へ絡み付き、砕けた鎖の残骸のように食い込んでいく。まるで千五百年分の絶望が、最後の最後まで黒竜を逃がすまいとしているようだった。
その時だった。
レオンの背後から、柔らかな光が広がる。
振り返る間もなく、聞き慣れた声が響いた。
「だから言っただろう。お前は一人じゃない」
ユウの声だった。
次の瞬間、白い光の中から無数の猫の足音が聞こえた。軽やかで、力強くて、不思議と安心する音だった。光の向こうから現れたのは、ユウと猫神、そして神猫たちの影だった。
アカネの炎が黒い腕を焼く。
ライの雷が闇を裂く。
クロの影が黒竜の体を支える。
フェリスの光がレオンと黒竜を包み込む。
そして猫神の黄金の瞳が、崩れゆく核の奥を静かに見据えていた。
「行きなさい、レオン」
猫神の声が響く。
「黒竜を連れて、外へ」
レオンの胸が熱くなる。
もう迷いはなかった。
「はい!」
レオンは強く頷き、黒竜へ向けてもう一度手を伸ばす。
金色の光が一気に強くなった。
黒い腕が弾け飛び、崩壊する空間の中に白い道が開かれる。黒竜はその道を見上げ、翼を広げた。裂けた翼は完全ではない。それでも確かに空気を掴み、巨大な体を光の方へ押し上げていく。
レオンも光へ向かって走る。
背後では核の世界が崩れていく。赤黒い結晶は砕け、黒い霧は金色の光に飲み込まれ、千五百年もの間続いた悪夢が終わりへ向かっていた。
そして最後の瞬間、黒竜の巨大な翼がレオンを包み込む。
温かかった。
あれほど恐ろしく見えた黒い翼が、今は誰かを守るためのものに見えた。
レオンはその中で、黒竜の低い声を聞く。
『ありがとう』
その言葉が響いた瞬間、世界は眩い光に包まれた。
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