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神獣使いではなく猫使いです  作者: 猫屋敷 春人
第四章 千五百年の約束

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第三十一話 折れた鎖

本日2話目の投稿です。

黒竜の胸元に巻き付いていた最も太い鎖へ、大きな亀裂が走った。


その音は、赤黒い空間の奥深くまで響いた。結晶の海が揺れ、天井も地面もない世界全体が軋む。千五百年もの間、黒竜を縛り続けていた絶望が、初めて明確に壊れようとしていた。


『やめろ……』


黒竜が低く呟く。


その声には怒りではなく怯えが滲んでいた。救われることを拒んでいるのではない。救われることを信じるのが怖いのだと、レオンには分かった。長い時間の中で希望を持つたびに傷付いてきた心は、もう一度手を伸ばすことすら恐れている。


「やめません」


レオンは静かに答えた。


黒竜の真紅の瞳が揺れる。


「あなたが本当に嫌だと言うなら止まります。でも、そうじゃないですよね」


赤黒い結晶が強く脈打つ。黒竜の体に巻き付いた鎖が不気味な音を立て、まるでレオンの言葉を遮ろうとしているようだった。それでも黒竜は目を逸らせない。巨大な竜の瞳には、否定しきれない迷いが浮かんでいた。


『私は……』


黒竜は言葉を詰まらせる。


その一言だけで、レオンには十分だった。黒竜はまだ終わっていない。諦めきれていない。心の奥底では、今も救われたいと願っている。


「大丈夫です」


レオンは一歩前へ出る。


足元で結晶が軋み、赤黒い光が靴元を照らす。黒竜に近付くほど胸を圧迫するような重苦しさが増していくが、レオンは立ち止まらなかった。その苦しさすら、黒竜が背負ってきた痛みのほんの一部なのだと思えた。


「あなたが弱かったから苦しんだんじゃありません」


黒竜の瞳が僅かに開かれる。


「ずっと一人だったから苦しかったんです」


その言葉が届いた瞬間、空間が大きく震えた。


赤黒い結晶が次々と明滅し、鎖に走った亀裂がさらに広がっていく。黒竜は苦しそうに身をよじるが、その瞳からレオンを外そうとはしなかった。痛みの奥にある何かが、少しずつ表へ出ようとしているようだった。


『一人……』


黒竜はゆっくりと繰り返す。


その声はかすれていた。


『私は、ずっと……』


言葉が途切れる。


けれど、その沈黙は否定ではなかった。黒竜自身がようやく気付き始めているのだ。自分が本当に恐れていたものが、裏切りでも敗北でもなく、誰にも届かない孤独だったのだと。


「はい」


レオンは頷く。


「ずっと一人で耐えてきたんですよね」


黒竜の巨体が震えた。


それは災厄に侵された苦しみとは違う震えだった。心の奥に隠していた感情が、壊れた鎖の隙間から溢れ出している。黒竜は何かを堪えるように歯を食いしばり、真紅の瞳を細めた。


『私は守りたかった』


低い声が響く。


『ただ、それだけだった』


その言葉と共に、周囲の結晶に過去の光景が映り始める。


青空の下で人々を見守る黒竜。子供たちの笑い声。豊かな村。災厄の獣から人々を庇う巨大な翼。どの記憶にも、黒竜の願いは同じように宿っていた。誰かを支配したかったわけではない。ただ守りたかっただけなのだ。


『怖がられても、石を投げられても、それでも守りたかった』


黒竜の声が震える。


その記憶はあまりにも痛々しかった。守りたい相手に拒絶されても、それでも背を向けられない。傷付きながらも前へ出る。そんな黒竜の姿が結晶に映るたび、レオンの胸は強く締め付けられた。


『だが、最後には分からなくなった。誰を守ればいいのか。何のために戦っているのか。私は本当に守れているのか』


黒竜は目を伏せる。


赤黒い光がその横顔を照らす。巨大な竜の姿は恐ろしいほど大きいのに、今のレオンには迷子になった子供のように見えた。正しいことをしているはずなのに誰にも認められず、信じていたものすら見失ってしまった存在だった。


「それでも守っていました」


レオンは真っ直ぐ言う。


「少なくとも、僕は見ました。あなたが最後まで誰かを守ろうとしていたことを」


黒竜の瞳が揺れる。


レオンはさらに一歩近付く。黒竜の顔は近付くほど大きく、吐息だけで体が押し戻されそうになる。それでもレオンは逃げなかった。逃げれば、この言葉は届かないと思った。


「だから、もう自分を責めないでください」


その瞬間、二本目の鎖が砕け散った。


黒い破片が宙へ舞い、赤黒い結晶の光が一瞬だけ弱まる。黒竜の胸元を締め付けていた鎖の一部が消えたことで、巨大な体が少しだけ自由を取り戻したように見えた。だが同時に、奥に眠っていた痛みも溢れ出したのだろう。黒竜は苦しそうに唸り、真紅の瞳から涙を零した。


『許されるのか』


黒竜が呟く。


その声は震えていた。


『私は、まだ許されるのか』


レオンは言葉に詰まる。


簡単に許されると言っていいのか分からなかった。黒竜が背負ってきた時間はあまりにも長く、苦しみも後悔も深い。軽い言葉で済ませてはいけない気がした。


けれど、答えはあった。


「許すとか許さないとか、僕には全部決められません」


黒竜がレオンを見る。


レオンは少しだけ息を吸った。


「でも、あなたがもう苦しまなくていいとは言えます」


その言葉に、黒竜の表情が崩れた。


張り詰めていた何かが途切れるように、巨大な体から力が抜けていく。全身を縛る鎖はなお残っているが、その一本一本に細かな亀裂が走り始めていた。赤黒い結晶の光も弱まり、代わりに黒竜の胸元から淡い光が漏れ始める。


『私は……疲れた』


黒竜はようやく本音を零した。


その声はとても小さかった。


『もう、憎むのも、耐えるのも、諦めるのも疲れた』


赤黒い空間に静寂が落ちる。


レオンは黙って黒竜を見つめた。今は励ますより、受け止めるべきだと思った。千五百年もの間、誰にも言えなかった弱音なのだ。だから最後まで聞かなければならない。


『助けてほしかった』


黒竜の瞳から涙が零れる。


『本当は、ずっと……助けてほしかった』


その言葉が響いた瞬間、残っていた鎖が一斉に震えた。


黒い鎖の全てに亀裂が走り、空間を満たしていた赤黒い光が大きく乱れる。結晶の海は悲鳴を上げるように揺れ、黒竜の胸元から溢れた淡い光が鎖を内側から照らし始めた。千五百年もの間押し殺されていた本当の願いが、ようやく形を持とうとしていた。


レオンは手を伸ばす。


黒竜の顔には届かない。


それでも伸ばした。


届かないと分かっていても、伸ばさずにはいられなかった。


「助けに来ました」


その言葉は、赤黒い空間の中で静かに響いた。


黒竜の瞳が大きく見開かれる。


そして次の瞬間、胸元を縛っていた最後の鎖が音を立てて砕け散った。


黒い破片が光へ変わり、空間全体へ舞い上がっていく。赤黒かった結晶は次々と色を失い、代わりに柔らかな金色の光が黒竜の巨体を包み込んでいった。長い絶望の奥に閉じ込められていた心が、ようやく解放され始めているのだ。


黒竜はゆっくりと顔を上げる。


真紅だった瞳の奥に、わずかな金色の輝きが宿っていた。


その光を見た瞬間、レオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。


ようやく届いた。


千五百年もの間、誰にも届かなかった声に。


ようやく。


その時、黒竜の背後にあった巨大な赤黒い結晶が、不気味な音を立てて割れ始めた。


解放は終わりではない。


本当の崩壊が、今始まろうとしていた。


閲覧ありがとうございました。誤字脱字などありましたらご報告の程お願いします。

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