第二十九話 黒竜の心
本日3話目です。割と勢いでごまかして投稿ペースを一日3話にしてます。
黒竜の真紅の瞳が、亀裂の向こうからこちらを見つめていた。
その視線が向けられた瞬間、白い世界が大きく揺れる。空に走っていた亀裂はさらに広がり、その向こうから赤黒い光が溢れ出していた。穏やかだった空気は再び張り詰め始め、この世界そのものが限界を迎えつつあることを告げていた。
「時間がないみたいだね」
猫神が静かに言う。
その声に焦りはない。だが、その表情はこれまでになく真剣だった。
「災厄の核は崩壊を始めている。あの子の願いが解放されたことで均衡が崩れたんだ。このままなら核そのものが消滅する」
レオンは空を見上げた。
巨大な瞳は今もこちらを見ている。その奥には怒りも憎しみもなかった。ただ苦しみだけが残っている。あの日聞いた助けを求める声が、今も胸の奥で響いていた。
『助けて』
忘れられるはずがなかった。
黒竜は最初から敵ではなかったのだ。
災厄に侵され、誰にも救われず、千五百年もの間苦しみ続けてきた被害者だった。
「行きます」
レオンは迷わず言った。
ユウが小さく笑う。
「そう言うと思った」
その表情はどこか誇らしそうだった。かつて自分が救えなかった存在へ、今度こそ手を伸ばそうとしている。その姿に、ユウは自分の願いを重ねているのかもしれない。
「黒竜の心は核の最深部にある」
ユウは真っ直ぐレオンを見る。
「だが簡単じゃない。あいつは長い間苦しみ続けた。自分自身すら信じられなくなっている可能性がある」
レオンは頷いた。
それでも行かなければならない。
助けを求める声を聞いてしまったのだから。
その時、エルがレオンの服の裾をそっと掴んだ。
レオンが振り返る。
エルは何かを迷うように俯いていたが、やがて小さく息を吸った。
『お願いがあるの』
その声は少し震えていた。
『あの子を助けて』
レオンは黙って耳を傾ける。
エルの瞳には涙が残っていた。だがそこには悲しみだけではなく、強い決意も宿っている。
『私、ずっと見てたの』
エルは空の向こうを見つめた。
『苦しんでるところも、泣いてるところも、全部』
長い沈黙が落ちる。
千五百年。
エルもまた黒竜を見続けてきたのだ。
自分と同じように閉じ込められ、自分と同じように苦しみ続けてきた存在を。
『だから終わらせてあげて』
その言葉は願いだった。
救済を求める祈りだった。
レオンは静かに頷く。
「約束します」
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
エルは少しだけ笑う。
その笑顔には、もう以前のような絶望はなかった。
レオンは再び空を見上げる。
広がり続ける亀裂の向こうで、黒竜の瞳が揺れていた。助けを求めるように。あるいは何かを恐れるように。その巨大な存在は今も孤独の中で苦しみ続けている。
「どうすれば行けるんですか?」
レオンの問いに、猫神は空へ視線を向けた。
白い世界の中心では、少女が消えた場所から光の柱が立ち昇っている。その光は空の亀裂へ繋がり、まるで道を作るように伸びていた。
「あの道を進むんだ」
猫神が言う。
「黒竜の心へ続く最後の道だよ」
レオンは光の柱へ歩き出す。
その背中を、ユウが呼び止めた。
「レオン」
振り返る。
ユウは少しだけ笑っていた。
「ありがとう」
レオンは目を瞬かせる。
ユウは空を見上げた。
その視線の先には黒竜がいる。
千五百年前、救えなかった存在がいる。
「私は最後まで逃げた」
ユウは静かに言った。
「世界を守ることはできた。だが、あいつを救うことはできなかった」
その声に後悔が滲む。
千五百年抱え続けた傷だった。
「だから今度は頼む」
レオンは頷く。
「任せてください」
ユウは何も言わなかった。
だが、その表情はどこか救われたように見えた。
光の柱へ足を踏み入れた瞬間、世界が大きく揺れた。
視界が白く染まる。
体が浮き上がる感覚が走り、景色が一気に遠ざかっていく。白い世界も、ユウも、エルも、猫神も光の向こうへ消えていった。
やがて光が収まる。
レオンはゆっくりと目を開いた。
そこは巨大な空間だった。
天井も果ても見えない闇の中に、赤黒い結晶が無数に浮かんでいる。その一つ一つが鼓動のように脈打ち、不気味な光を放っていた。空間全体が巨大な生き物の体内のようで、息を吸うだけでも胸が圧迫されるような感覚がある。
レオンは思わず息を呑んだ。
ここが黒竜の心。
千五百年分の苦しみと絶望が閉じ込められた場所だった。
その時だった。
空間の奥で何かが動く。
赤黒い結晶の海が波打つように揺れ、その中心から巨大な影がゆっくりと姿を現した。圧倒的な存在感が空間全体を支配し、レオンは思わず足を止める。
現れたのは巨大な竜だった。
黒い鱗は鈍く光り、広げられた翼は空間そのものを覆い隠しそうなほど大きい。その体躯は山のように巨大で、ただ立っているだけで周囲の空気が震えているようだった。間違いなく黒竜だった。
だが、その姿はあまりにも痛々しかった。
全身の鱗は所々砕け、翼は裂けている。さらに黒い鎖が幾重にも巻き付き、その一本一本が肉へ深く食い込んでいた。まるで永遠に逃がさないための呪いのように、黒竜を縛り続けている。
レオンの胸が強く痛んだ。
千五百年。
この姿のまま苦しみ続けてきたのだ。
誰にも助けられず。
誰にも届かず。
ただ一人で。
黒竜はゆっくりと顔を上げた。
真紅の瞳がレオンを捉える。その視線に敵意はない。そこにあったのは長い年月の中で積み重なった悲しみと、全てを手放してしまった者だけが持つ深い諦めだった。
『……なぜ来た』
低い声が響く。
その声には力がなかった。
怒りも威圧もない。
長い苦しみの果てに、全てを諦めてしまった者の声だった。
『放っておけばよかった』
黒竜は静かに目を閉じる。
その仕草には、自分自身への諦めが滲んでいた。助かりたいと願うことすらやめてしまったのだろう。期待すれば裏切られる。希望を持てば苦しむ。その繰り返しの果てに辿り着いた絶望だった。
『私はもう救われない』
黒竜がそう呟いた瞬間、空間全体で赤黒い結晶が脈打った。全身へ絡み付いた鎖が不気味な音を立てながら軋み、その度に黒竜の表情が苦しそうに歪む。その光景は、絶望そのものが黒竜を縛り付けているようだった。
レオンはその姿を見つめる。
胸の奥が痛かった。
苦しかった。
だが、それ以上に放っておけなかった。
目の前にいるのは災厄ではない。
助けを求め続けていた一人の存在なのだ。
レオンはゆっくりと一歩前へ出る。
そして真っ直ぐ黒竜を見上げた。
「それは違います」
静かな声だった。
だが、その言葉に込められた意思は揺るがなかった。
真紅の瞳が僅かに揺れる。
長い絶望の中で閉ざされていた黒竜の心が、初めて小さく反応を示したのだった。
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