第43話 刻まれた竜言語
意識が戻ったとき、ヴァンは奇妙な場所にいた。
いや――奇妙と一言で片付けるにはあまりにも常軌を逸した光景だ。
ヴァンは今、上下左右ほぼ全てにロウェン・クレシェンツィオの笑顔が見える水の中に浮かんでいた。
確かに水の中に違いないのだが、不思議なことに呼吸はできる。
精神魔法による幻覚だろうか――いや、にしては、あまりにも生々しい。
生ぬるい水の流れが、ゆるく身体を撫でるのを今も感じる。
――おそらくこれは空間魔法――しかし一体全体、なんでこんなことに――
「もうやだ……なにこれ……」
ヴァンの思考はそこで途切れた。次々と降りかかる理不尽に、もはや気力を失いつつあった。持ち味である知的好奇心ですら、このわけのわからない状況には降参の構えだ。
「レックス。おーい」
助けを求めたかったが、相棒は応えてくれなかった。ヴァンの魔力の内側に存在は感じるが、何度呼びかけても反応はない。固く閉ざされた扉の向こうに声を張り上げているような気分だ――封印されているんだろうか。
「素敵な場所でしょう?相棒さんは物騒だから、眠ってもらったわ」
ぐわんぐわんと突然響いた甘美な声の主は、ヨーデルだ。
「ああ、でも……ロウェンさまが私以外に笑顔を向けるのは、許せない」
一方的にそう告げると、ばちんと平手を受けたような感覚がして、周囲の景色が変わった。
「……なんじゃこりゃ」
気付けば視界からロウェンの幻影は消え、静かな湖の中にヴァンは浮かんでいた。景色が変わってもやはり水中なのは、彼女の得意属性の影響だろうか。
湖底には無骨な石のテーブルと椅子があり、ヨーデルが腰掛けていた。
それも、二人。
――二人!?
「えっ二人!?え!?」
「座りなさいな」
ヨーデルがそう口にすると、次の瞬間ヴァンは石の椅子に腰掛けていた。
この空間は、彼女の思いのまま――そういうことらしい。
「ここは私の番の能力で造られた鏡の中の世界。ようこそ、ヴァン・アドベント」
「鏡――」
『そうよ、ヴァン・アドベント』
もう一人のヨーデルが肯定した。最初に喋ったヨーデルと同じ顔で同じ声、同じ服装で同じ仕草。強いていえば、仕草は鏡写しになっている。
「……つまり、鏡の妖精が番なんですね」
『鏡の妖精』 別名、ドッペルゲンガー。
妖精と言えば聞こえはいいが、実際には巧みな話術で人間を鏡の中へ誘い込む厄介な魔物だ。亡くなった愛する人の姿を模して騙してくることもある。この能力、この状況からして、ヴァンの知識からはもうそれしか考えられなかった。
ヨーデルたちはヴァンの言葉を聞いて、同時にニッコリした。同じ顔が全く同じように笑顔を向けてくる、異様な光景にヴァンは鳥肌が立った。
「ロウェンさまの言うとおり、博識な坊やね。今日こうして会いに来たのは、なんだか困っているみたいだったから……助けに来てあげたのよ」
あまりにも嘘くさい主張だ。しかしヴァンは警戒して何も言わず、次の言葉を待った。
ドッペルゲンガーに出会った人間は失踪することが多く、鏡の中に引きずり込んだ人間がどうなるのかを詳しく記述した文献は読んだことがない。
そうつまり、彼女の機嫌を損ねればここから出られる保証はないのだ――ヴァンは冷や汗が首を伝うのを感じた。
「ねーえ。私が来なかったら、あなた町民に目をつけられてお尋ね者になってたかもしれないのよ?一時の感情で民間団体を壊滅させるなんて、バカね」
「それはその、とんでもなく、ありがたいと思ってます」
これは心からの謝辞だった。
ヨーデルたちは顔を見合わせてくすくすと笑った。
『正直な子。あなた、大通りに現れた盗っ人を探してるんでしょう?』
「えっ……はい」
――なんでそんなことまで知ってるんだ?
ヴァンは恐怖に一瞬目を見開いたものの、すぐに理由に思い当たった。
考えてみれば、聞くまでもない。ロウェンの家の前でヨーデルと別れたあの日からずっと、鏡面越しに監視されていたのだ。
しかし冷静さを取り戻した頃、次に魔女が口にしたのは信じられない言葉だった。
「それとも、探しているのはその――背中の魔法陣についてかしら?」
思わずヴァンは立ち上がった。それをヨーデルは『反抗』と捉えたらしく、ヴァンは瞬きの間にまた石の椅子に座らされた。しかも今度は、水草のようなもので縛られている。
「この子が見たのよ。大きな魔法陣があなたの背中に刻まれているのを」
右手側にいるヨーデルは、そう言ってもう一人のヨーデルを目で示した。どうやら左手側にいるヨーデルが鏡の妖精らしい。
「おい、なんなんだ。何か知ってるなら教えてくれよ!なんでもする!」
ヴァンは恥も外聞もなく喚いたが、黙れと言わんばかりのヨーデルにひと睨みされると、口まで水草に塞がれてしまった。
「身体に魔法陣を刻むこと自体はそんなに珍しくないわ。大規模魔法や複雑な魔法を簡単に起動するためにね」
本物のヨーデルがそう話している間に、鏡の妖精はボコボコと泡を出して姿を変え始めた。
「……!」
それは、あっという間にヴァンと全く同じ姿になった。そして背中を向けてきた。
鏡越しに見ることはあっても、自分の背中をこんなに近くでまじまじと見る機会は普通ないだろう。改めて見ると、描かれていると言うよりも刻みつけられている。血は出ていないし痛みもないが、赤みがかっていて生傷にも見える。これは見るからに魔法ではなく、呪いだ。
――故郷の村の人たちが気味悪がったのもわからなくはないな。
ヴァンが落ち着いてきたのを見ると、ヨーデルはヴァンの口元を指で弾いて拘束を解いた。
「私も見たことのない術式。でも分かることもあるわ。これには古代語が使われている」
「……そこまではわかってる」
古代語といえば――村で使われていた古い言語様式。ラス副校長も、ヴァンの背中を見て「古代の言葉で書かれている」と言っていた。
古代語は故郷の村の言葉だが、村の村長である養父に聞いても、付近の村を回っても情報は得られなかった。
あの時、養父はなんて言っていたっけ――
"この文字を見るに、使われているのは古代語だと思うが……わしには読めん。今はもうあまり使われない難しい言葉なのかもしれんな。我々の使う言語は古すぎて、歴史資料がないから調べるのも難しい――すまないな"
「ただの古代語じゃないわ。真の古代語――『竜言語』ってやつね。王家が使っている」
「真の……?」
村の言語とは違うということだろうか。『竜言語』……そんな単語はどんな書物でも噂でも、聞いたことがない。考えながら眉を顰めるヴァンを見て、ヨーデルは興味なさそうに肩を竦めた。
「そんな顔されたって詳しくは知らないわよ、私は王女様がそう言ってたのを聞いただけ」
「王女?」
「そうよ。女性だし、鏡をたくさん使うからね。時折それごしに"覗いて"るの。居場所によっては結界があって、妨害されることもあるけど」
ヨーデルが言うには、王女が王子に対して
"このエルドリアの王家が護る真の古代語――『竜言語』を学ばないというなら、お前は王族ではない!」"
と、叱責しているところを"覗いた"という。
「気になって王子の勉強しているところも覗いてみたんだけど、あんたの背中に刻まれているこれとか、これと同じ単語があったわ」
ヨーデルはヴァンに化けた鏡の妖精の背中の2点を指さしながら言った。
「竜言語……」
「覗いたのがバレたのか、それからは弾かれちゃって。それ以上はわからないけどね。秘匿情報なのかも」
王家が秘匿する謎の古代語。ロマンと陰謀の匂いがするが、なんにせよとんでもなく有益な情報だ。ヴァンの背中の謎には王家が絡んでいるかもしれないということになる。
「なんでわざわざ……こんな、重要な情報を教えてくれるんですか?」
そう、こんなにも有益な情報を、こんな回り道をしてまでわざわざ彼女が伝えに来るメリットがわからない。ヨーデルは疑念に満ちたヴァンの視線を無視して、どこからともなく取り出したリンゴを食べながら言った。
「ロウェンさまがあんたの力になるって言うからよ」
「え?」
今日はなんだか、惚けてばかりだ。
――確かに、ロウェンは別れ際「困ったらいつでも訪ねてきなさい」と言っていたが――よっぽどほかの手段が尽きない限り、頼ったりするつもりはなかった。何より、この狂気を纏った魔女が怖いし。
「あのときは気安くするなって言ったけど、家に戻ったら『彼は素晴らしい青年だ。しかし少し危うくも見える――ああいう若者の力になってやりたいね』って言ってたのよ。でも放っておいたらあんた、私が怖くってロウェンさまを訪ねて来ないでしょ?」
――見透かされているようだ。
「そんなの、ロウェンさまが寂しがるじゃない。せっかくお気に入りを見つけたのに――私、ロウェンさまには人生をなるべく楽しんでほしいの」
最後の台詞は少し、哀愁を孕んでいた。ヴァンにはそれがなぜなのかわからなかった。
むしろヨーデルなら「私と一緒にいることがロウェンさまの幸せ!」とか、「私の隣で、私と二人きりで幸せになってほしいの」とか言いそうなものだが――
「そんなこと言わないわ」
この世界では思考まで読まれてしまうようだ。気まずくなってヴァンの視線は宙を泳いだが、ヨーデルは怒り狂うどころか、涙がこぼれそうな顔で言った。
「私一人と一緒にいるだけじゃ、ロウェンさまは満たされないの」
ヴァンは恋を知らない。やっぱり彼女の言っていることの意味はよくわからなかった。
ただ、彼女の狂気の裏にはきっと、計り知れないほどの愛があるのだと思った。ほかのなにもかもを捨ててもいいほど重く大きな愛が。
それは、ヴァンが抱える「知りたい」気持ちに似ている。
――俺って、世界に恋してたのかな。
そんなふざけた結論がヨーデルにも伝わったのか、鏡の魔女は呆れたように笑った。
「ところで、薬草泥棒のほうの話はいいの?」
「あ」




