第40話 星の海への初飛行
「言っておかなければならないことがある」
そう言ったヨーデルの表情は冷淡で、感情を窺い知ることはできない。
――初対面にもかかわらず、食事中からずっと向けられていた敵意。もしかして…もしかして彼女は、俺のことを知っているのか?まさか、両親の知り合いで昔に何か怒りを買っているとか――
よくない妄想が進んで、ヴァンは息を呑んだ。
しかし、次に続いたのは思いもよらない言葉だった。
「ロウェンさまは私のものなの」
「……え」
あまりにも予想外なので、素っ頓狂な声が出た。
そんな反応を見て、聞こえなかったと思ったのかヨーデルは地団駄を踏んで怒りを表明しながらもう一度言った。
「だから!ロウェンさまは!私のものだって言ってるのよ!」
先ほどまでの「妖艶な大人の女性」感はどこへやら、癇癪を起こした子供のように彼女はなおも続ける。
「さっきから、いきなり二人の食事の時間に割り込んできたと思ったらロウェンさまのためにつくったロウェンさま好みの特製シチューを我が物顔で頬張ったりして!腹が立つったらないわ!」
「ま、待って、早口でわかんな」
「だから!」
そこで少々正気に戻ったのか、言葉を切ってヨーデルはふうふうと息を整えた。
「つまり。私とロウェンはいい仲なの。今日は一緒に食事することを許したけど、次は許さないから」
「しょ、食事もダメなんですか!?俺男――」
驚いて言い返そうとしたが胸ぐらを掴まれて最後まで言えず、ヴァンは呻いた。
「なに!?男だから何よ!?彼の魅力がわからないって言うの!?」
「あ、いや―――」
だんだん混乱してきた。彼女にとってなんと答えるのが正解なんだろうか――
「ほらやっぱり!何も言わない!魅力的だって思ったんでしょう!ふん、わかってるんだから!」
――どうやら、何も言わないのもよくなかったようだ。
ようやく胸ぐらを放されて、ヴァンは咳込みながらヨーデルに向き直った。
「確かにその――ロウェンさんは、かっこいい大人というか……憧れのようなものはありますが」
そこまで聞いてヨーデルが憤然と杖を構えてきたので慌ててヴァンは早口になった。
「あの違うんですほんと!そもそも知り合ったばかりで!これ以上踏み込むつもりはないっていうか!ていうかその、えーと」
ヴァンに向けられている杖が少しだけ下がったが、ヨーデルの目にはまだ怒りと狂気が光っている。
「あの、おふたり!お似合いだと思います俺!夫婦みたいで!」
「んなっ」
猫のような声をあげて硬直したヨーデルは、瞬く間に顔を真っ赤にしてしゃがみこんだ。
「そんな…そんなこと…!そんな…烏滸がましいわ」
「いえいえ!ほんとに…」
宥めるように続けながら、ヴァンは一歩後ずさった。
「本気で…」
さらに一歩。
「そう思います!それじゃ!」
そして全速力で逃げた。
走って、走って、大きな通りの人混みに紛れると、ようやくヴァンはひと息ついた。路地に外れ座り込むと、息も絶え絶えに呻く。
「な、なんなんだよあの女!怖すぎるだろ!」
『異様な執着心だ……ああいうものは見たことがない』
誇り高き竜ですら、にわかに恐怖を感じたようだ。
『追ってきてはいないようだが……嫌な感じがする。あの女には近づかぬようにするべきだな』
「まったく、同感だ」
『む…雨が降りそうだぞ』
レックスがふと空を見上げた。つられてヴァンも空を見上げたが、すっかり日が落ちた町の空は黒一色で何も見えない。雨の日特有の湿った匂いもしなかった。
「そうなのか?星が見えないから、雲が出てはいるんだろうけど」
『空気が変わったのだ。急がないと、その本が濡れるぞ』
レックスは顎でロウェン家から借りてきた魔術書を示した。
「えー…でも、もう走る体力残ってないぞ」
『ふん、軟弱者め』
相棒は大きく翼を広げ風を巻き上げて飛び立った。そして、予告もなくヴァンの肩を後ろ脚で掴んだ。猛禽類が獲物を空に連れていくときのそれである。
「えっ、おい、待て」
『時間がない、雨は好かん』
「おい!バカ!落ちる!あほ!」
ぐんと地面が遠のいて自分の足が地面から離れると、臓物がひっくり返るような感覚に襲われた。
「う、うわーーーーーっ!!!」
ヴァンか叫ぶのも無視して、レックスは上昇のために力強く羽ばたく。
「おっ、うわ、おい、ちょっと」
羽ばたきの瞬間、それを助けるかのように不自然な追い風が発生するのをヴァンは感じた。
「――っこれは」
刹那、浮遊した恐怖よりも、その風に気付いた高揚感がヴァンの胸を躍らせた。
”竜種の魔獣には生来風の加護があり、本来その巨体では不可能な離陸、飛行、着陸を可能にしている”――(『竜の話/生物学博士 アルフレッド・ウォーレン』)
――知識として知ってはいたけど、自分の身体で体験することができるなんて!
感動している間に地面はどんどんと遠のき、ヴァンとレックスは夜空に飛び立った。
凄まじい風圧が頬を叩いて、ヴァンはそこから息をするのに必死になった。肩を後ろ脚で掴まれてはるか上空を飛ぶ姿は、はたから見れば狩りの帰り道にしか見えないだろう。
上空の夜風は上昇するほど刺すように冷たく、湿って息苦しくなってきた。
すぐに雲に突っ込むことになるのだが、これは非常に最悪な体験だった。冷たい霧雨を体中に浴びながら風に煽られ続ける羽目になったのだ。ヴァンは必死になってレックスの脚にしがみついて耐えた。
しかし、それも一瞬のことだ。
雲を抜けると雲海の上に美しい星と月が広がっており、星の海に浮かんだような光景にヴァンは目を見開いて感動した。
いつもレックスは目の届く範囲までしか上昇しないので、これはサービスなのかもしれない。
残念ながら、唐突な空の旅に対する怒りが感動で和らいだ次の瞬間には、そんな余裕はなくなった。
濡れて重くなったローブと肌着が冷たい空気に冷やされて、氷水に突っまれたような寒さに苛まれることになったのである。
気流を掴んでからは滑空の速さも想像以上で、せっかくの美しい景色だがとても目を開けていられなくなった。ヴァンはめくれたローブを直そうともぞもぞして、レックスにこっぴどく怒られた。
『大人しくしていろ!変に動くと気流から外れる』
(なんだよ、飛竜は空の王だろ!?)
暴風で声が出せないので、ヴァンは心で叫んだ。
『私だけならどうということはないが、荷物が重い』
(…そりゃ悪かったね!)
そんなわけで、レックスとの初めての空の旅は快適とは言い難いものだったが、一生の経験になったことは確かだ。
レックスがドシンと夜中に無遠慮な音を立てながら寮の庭に着地すると、同時にヴァンは地面に崩れ落ちた。
「空の上を身をもって……体験できる日が来るとは」
『美しかっただろう』
ヴァンは自慢げな相棒を睨みつつ、暴風と寒さで乱れた呼吸をなんとか整えた。少し落ち着いてくると、地面に膝をついたままその場に風と炎の魔法陣を描いた。
「炎よ……はあ、はあ。えーと……そう、風に導かれたまえ」
魔法陣に熱風が巻き上がるのを確認して、中にうずくまる。レックスはつらそうにしているヴァンを不思議そうに見ていた。
『いつでもまた連れて行ってやるぞ?』
「……お前はしばらく、おやつ抜きだ」
『なに!?なぜだ!?』
「まったく」
寮の自室に戻ってすぐ、ヴァンは借り受けた魔導書を開いた。(レックスが後ろで文句を言っていたが、無視することにした)
「装飾品に番をしまえるってのは、かっこいいよなあ」
指輪に封じて、戦闘時に解呪する――そんな画を思い浮かべただけでも、かなり高揚する。いくらレックスが自力で姿を隠せるといっても、制限時間があるし――どうせならかっこいいやり方をとりたいものだ。
「俺が先に覚えてレオに見せるってのもいいな」
ヴァンは中等級の魔法のほぼすべてを会得していたため、上級魔法もしっかりと勉強すればすぐに習得できる自信があった。しかし、魔導書の内容を数ページ読んですぐに呻いた。
”宝術基礎”――ヴァンが忌み嫌う魔法体系だったのだ。
『宝術とはなんだ』
おやつ抜きに対する遺憾の意を表明するのに飽きたらしいレックスが、後ろから魔術書を覗き込んできた。
「宝術は――上流階級の連中がこぞって学ぶ魔法体系のひとつだ。魔石や宝石、古代遺物とか……とにかく、魔法と相性のいい物体に使う魔法だよ」
ヴァンは幼いころ、養父の書庫で似た魔術書を見かけたことがある。宝物庫の魔石に魔法を仕込んで罠にしたり、いつでも火を起こせる便利な道具に加工したり、様々な用途がある魔法だ。
しかし、自然を愛するヴァンはこの魔法が昔から好きではなかった。
「魔石って魔物の核だったものだぞ?それに魔法を刻むなんて、生命の冒涜って感じしないか?」
ヴァンは森狼の討伐試験の時、報酬としてかなりの魔石をもらっている。しかし、ヴァンはそれらを見ていると彼ら――弔ってやることができなかった沢山の狼たち――を思い出して辛くなるので、既に売り払ってしまっていた。
「宝石だって、人間が美しいと感じる形に研磨した鉱石だ。それをさらに加工するなんて、御山に失礼って気がするんだよな」
『番を封印するのはいいのか』
「それは……だって……自然なことだろ」
ヴァンの答えにいまいちレックスは納得していないようだったが、さほど興味もないようだ。
『まあ、習得したいなら頑張ることだな』と言い残しヴァンのベッドで丸くなった。
「……これって矛盾してるのか?」
一人、悶々と悩みながら格闘する中、夜は更けていく。
一方、相棒の予報通り、小雨が部屋の窓を叩き始めていた。雨が窓にぶつかったとき、ふと何かが光った気がしてヴァンは顔を上げた。
しかし、特段窓に変わりはない。窓の外も雨が降っているだけで、それ以外の変化はない。
「……気のせいか」
再びヴァンは魔導書に意識を戻した。その瞬間、窓の反射の中に一瞬丸眼鏡の影が映ったことに、ヴァンもレックスも気が付くことはなかった。




