4、
館内が特別に薄暗いわけではない。
ただ、本棚の配置や蔵書の日焼けを避けるためか、窓には厚手のカーテンが引かれていた。
そのため、外光が一筋でも差し込めば、必要以上にまぶしく感じる。
そこへ現れた人物は、陽光すら味方につけたような存在だった。
眩い金髪に、宝石のように澄んだエメラルドの瞳。まるで絵画から抜け出したかのような容貌。──見覚えがある。
「この学園の蔵書は、およそ八百万冊。これだけの本を収めるなら、この広さにも納得がいくだろう」
その声に、背筋が氷のように強張る。
「……王太子、殿下……」
目の前に現れたのは、間違いなくこの国の王太子にして、王立学園の生徒会長──レジナルド・リタルダンド。
そして……ゲーム内におけるリアムの婚約者であり、ゲームの世界ではリアムの婚約者であり、ノエルがレジナルドを攻略対象として選んだ場合には、声高らかにリアムを断罪する男。
ああああああああああああ……会っちゃったァァァァァァ!!!
俺はこの邂逅を避けるために、園遊会をはじめありとあらゆる社交の場から逃げ回ってきたのに……。
なんでよりによって図書館にいるんだよ。ゲームじゃあんた、生徒会室のソファから微動だにしないキャラだったじゃん……!!
「まあ、そう呼ばれるのも仕方ないが──ここでは、その呼び方はふさわしくないな」
レジナルドはすぐ目前まで歩み寄ると、すっと首を傾げて微笑んだ。
その距離感に本能的な危機を感じ、俺は反射的に後ずさった──その瞬間。
「あ、う、ぁっ……!」
足をもつれさせ、バランスを崩す。重力の導きに従って、俺の身体は床に向かっていった。
──尻から、確実に。
やばい、これは痛い……尾てい骨よ、さようなら……!
……あれ?
痛く、ない……?
むしろ、ふわっとした温もりがある。しかも、やたらいい匂いまで……。
恐る恐る目を開けると、至近距離にレジナルドの整った顔。
彼の腕が、俺の身体を抱き留めていた。
「大丈夫か?」
「ぎゃっ」
二人の声が重なった。
俺の発した声に、レジナルドが小さく繰り返すように呟く。
「ぎゃ……?」
ひぇぇぇぇ……これはもう、絶対不敬罪コースだよね……!?
口を手で覆いながら、俺は慌てて言葉を紡ぐ。
「いやっ、その、ええっと……ありがとうございます!」
幸い、立て直せば自力で姿勢を保てる。
レジナルドの胸を押し、彼の腕から抜け出そうとした──が。
「え、えっ……?」
思った以上に強い力が返ってきた。
彼の腕は緩むどころか、俺の身体をより深く引き寄せる。
──抱きしめられて、る……!?
「ひぎゃっ」
再び口を押さえながらの変な声が漏れてしまった。
それをまた、レジナルドが反復する。
「ひぎゃ……」
囲まれた状態では、レジナルドの表情はよく見えない。
だが、俺としてはもう冷や汗しか出てこない。これ何の尋問ですか?新手の拷問?
「はな、はなして……」
言葉にならない。焦れば焦るほど舌がもつれる。
脳裏には断罪→公開陵辱→雌堕ちという文字が滝のように流れていた。
「お戯れはそれくらいにしていただけますか、レジナルド殿下」
静かに響いたその声に、思わず胸が熱くなる。
「キース……!」
レジナルドがその名を呼ぶ。
「ここでは“先生”とつけていただきたいですがね」
「それなら、その“殿下”もやめてくれないか」
「まあ、そうですね。では……レジナルド君、その子を離してもらえますか?」
キースの落ち着いた声が、確かに俺を守るように響いた。
姿こそ見えないが、その存在にどれほど救われたことか。
「ああ……もしかして、これが噂の“秘蔵の弟”か」
「ええ。弟は人見知りでしてね。……さあ、手を離していただけると助かります」
キースの再三の“お願い”に、ようやくレジナルドの腕がほどける。
俺は即座にその場を離れ、深く頭を下げた。
「し、失礼を……」
「いや、倒れなくて何よりだ。君の反応が面白くて、ついからかってしまった。私のことは……紹介は不要だよね?」
……知ってますとも!!!
この国の高位貴族でレジナルドを知らぬ者などいない。
市井にだって、彼の美貌は“芸術”として流通してるんだからな……。
俺はこくこくと頷き、再び礼を述べる。
「大丈夫、です。ええっと……僕は、リアム・デリカートと申します。お助けいただき……感謝を……」
なんとか声を整えて名乗る。
こうして彼と会話を交わすのは、これが初めて。逃げ続けていたとは言え、今は逃げ場がない。
そのとき、キースがそっと俺の背に手を添え、撫でてくれた。
ああもう、心が崩れ落ちそうだ。兄上、拝ませてください……!
「噂は聞いてるよ、リアム。デリカート家の秘蔵っ子、とね。なるほど、分かる気がする。これからよろしく」
「は、はい。よろしくお願いしま──……ひっ」
反射的に声が裏返った。
原因は、レジナルドが不意に俺の頬にキスを落としたからだ。
この世界では、抱擁や頬へのキス程度は日常的なスキンシップ。
──だが!俺はそんな習慣、何ひとつ歓迎していない!!
本来であればキスを返すのがマナーらしいが、到底そんな気にはなれない。
本能的に一歩退いた俺を、キースがすぐに庇うように前へ出てきてくれた。
その背中に、俺はぴとりと身を寄せた。しがみつくように。
「レジナルド君……」
キースの声は冷静で穏やか、けれど明らかに諫めの意を含んでいた。
すると、レジナルドが小さく笑う声が響いた。
「はは、手厳しいね」
──笑ってんじゃねぇよ!!!
こっちは冷や汗だくだってのに!
……と、内心で毒づきながらも、それを表に出すわけにはいかず。
俺はキースの背に額をぐりぐり押し付けて、せめてもの抗議を伝える。
その俺の腰を、キースがぽんと軽く叩く。
落ち着け、ということだろう。兄の気遣いに、もう泣きそうである。
その後、キースが上手く場を収めてくれたおかげで、断罪イベントなどは発生せず無事に撤収できた。
去り際、レジナルドは笑顔で「またね」と言ったが──
ノエルに続き、鬼門の人物からの“またね”なんて願い下げだ。
俺は愛想笑いを浮かべながら会釈し、心の中では力いっぱい呟いた。
……もう、二度と会いたくないです。
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