番外編 オリガのひとりごと
朝、鳥の囀りで目を覚ます。
夫はまだ、隣で眠っていた。たいてい、彼のほうが早起きで私が目覚めたころには台所に立っているので、本当に珍しい。
窓から、うっすらと太陽の光が差し込んでいる。空の半分はまだ暗い。
どうやら、早くに目が覚めてしまったようだ。
眠る夫の顔を覗き込む。眉間をぐっと寄せて眠っていた。いったい、どんな夢を見ているのやら。駄目もとで皺を伸ばしてみると、寝顔は穏やかなものとなった。
そうこうしているうちに、だいぶ明るくなる。そろそろ夫が起床する時間だろうか。
朝陽が夫の顔を鮮明に見せてくれる。
それにしても、こんなことを言ったら怒られそうだが……すごくかわいい。
起きている時はだいたい顰めっ面なので、余計にそう思うのかもしれない。寝顔は、ちょっとだけ少年のように見える。
一番好きなのは照れた時に浮かべる笑顔だけど、あまり見せてくれない。どうやったら微笑んでくれるのか、研究中である。
ずっと眺めていたかったが、そうもいかないだろう。たまに早起きをするものいい。
欠伸を噛みしめ、起き上がる。
すると、腕を掴まれた。
「オーリ、まだ、寝てろ」
「ミーシャ、起きていたのか?」
沈黙は肯定を意味する。
まさか寝たふりをしてくれていたとは。
「いつからだ?」
「眉間をグイグイ押した時から。あれは起きるだろ」
どうやら、力を入れ過ぎてしまったようだ。なかなか皺が伸びないので、つい。
「オーリ、睡眠妨害だ」
「すまなかっ――!」
腰を抱かれ、近くに引き寄せられる。
「罰として、抱き枕にする」
……ということなので、夫が満足するまで、しばらく大人しくしておいた。
◇◇◇
太陽が昇りきる時間帯に起床。今日はちょっと遅めにの活動開始となる。
私は森で採ったキノコと燻製肉でスープを作り、夫はブルヌイを焼いている。
秋となり、森では豊富な種類のキノコが採れるようになった。
冬に備えて塩漬けにしたり、乾燥させたり、オイル漬けにしたりと、保存食にしていく。
婦人会『気まぐれ猫』のご夫人方に教えてもらったものだが、冬に食べるのが楽しみだ。
食事の準備が整ったので、食卓に並べる。
先日漬けた赤いイクラも出してみた。
神に祈りを捧げ、食事を始める。
夫はまず、私の作ったスープから食べてくれた。
「うん、美味い」
ホッとひと息。
料理はまだまだ勉強中なので、出すたびにドキドキする。
私も食べてみる。
秋の森の恵みがふんだんに使われたスープは、素材から濃い出汁が出ていて美味しい。
コリコリとしたキノコの食感は楽しく、塩と香草を擦りこんで作った燻製肉は噛んだら旨味が溢れる。
夫が作ったブルヌイも食べた。
生地はしっとりモチモチしていて、小麦の味が活きている。
パン関係は、まだまだ勝てない。いつかとびきり美味しいパンを焼こうと目論んでいる。
夫は自身で作ったブルヌイを食べていたが――。
「うわ、美味っ!」
突然夫が叫ぶ。いったい何がと問いかけると、イクラの瓶を指し示した。
「どうしたんだ、これ?」
「ああ、そういえば、『気まぐれ猫』の奥方に習った作り方を試してみたんだ」
今まで、イクラを買ってきたら、適当に塩で漬けるだけだった。それではダメだということが、最近発覚した。
「気まぐれ猫で今までの作り方を説明したら、イクラに対する冒涜を働いていたと言われた」
「まさか、そのまま塩漬けにしていたとはな」
習った作り方はそこまで難しいものではない。
まず水でよく洗い、イクラを包み込んでいる膜を開いて塩を振る。その後、熱湯をかけながら混ぜて膜を剥し、冷たい水で洗う。 水気を取ったあと、塩と砂糖をまぶして混ぜ、煮沸消毒した瓶に入れてしばらく置いておいたら完成。
「今まで、膜も取らずにそのまま塩漬けしていただけだった」
「それと比べたら、美味いわけか」
私もブルヌイに巻いて食べてみる。
口に入れて噛んだ瞬間、プツンとイクラが弾けた。イクラの旨味を、ほど良い塩気が深めてくれる。こんなにも食感が良い食べ物だったなんて、知らなかった。
今まで、父と食べていたイクラはなんだったのか。
もっと、料理について勉強しておけばよかった。父にも、この美味しいイクラを食べてほしかった。
人と交流せずに暮らしてきた前の私では、知りえない情報でもあるが。
「オーリ、どうした?」
「いや、今まで、いろんなことを知らずに生きていたのだなと思って……」
夫に会わなかったら、私はさまざまな喜びを知らずに生きていただろう。
「なぜ、父の言うとおりに生きてきたのか。なぜ、今まで新しいことに挑戦しようと思わなかったのか、と……」
不思議でたまらない。
料理は改善したら美味しくなるし、いろんな人とたわいもない話をしたりするもの楽しい。
生活も、工夫したら負担も少なくなる。
どうして、それを進んで知ろうとしなかったのか。また、自身で研究しなかったのか。今まで、父の教え通りのことしかしていなかった。
私はきっと、臆病だったのだ。一人で暮らしていくために、失敗したくない。決まった生活の循環を崩すのが、怖かったのだろう、と。
「少し、自己嫌悪してしまった」
夫の顔を見る。ポカンとしていた。
「おかしいだろう?」
「いや、それが今のオーリを作っているんだろ? 別におかしくないんじゃねえの」
夫は言う。ずっと、私の強さが羨ましかったと。
「私は……強くない」
「女手一つで、この針葉樹林の森で暮らしていたじゃねえか」
とても、真似できるものではないと夫は言う。
「でも、今はとても……」
独りで暮らしていくことなんてできない。
私は、夫との暮らしに安らぎを覚えてしまった。もう、以前のような生活には戻れないだろう。
「俺は、頼ってくれることは、嬉しいと思っている。だから、オーリはそのままでいいんだよ」
私が知らないことを夫は知っていた。
夫が知らないことを私は知っていた。
二人で足りないものを補い合う関係だったからこそ、この夫婦生活は成立していた。
「オーリがなんでもできていたら、申し訳なくって、ここにはいられなかったと思う」
「ミーシャ……」
私が歩んできた道は間違いではない。
頑なに自分の思う人生を歩んでいた私だからこそ、夫を好きになった。
たぶん、そういうことなのだろう。
心の中にあったモヤモヤが、綺麗に晴れていく。
「ミーシャ、ありがとう」
「なんの礼だよ」
「こんな私を好きになってくれたお礼だ」
ついでに、私の愛も伝えておく。こういう機会は滅多にないから。
「なんだよ、急に恥ずかしいことを言って」
夫はぶっきらぼうな言葉を返したが、照れた表情を浮かべつつ、微笑んでくれた。
それは、私が一番好きな表情だった。
なるほど。愛を示したら、笑ってくれるらしい。
もっと、そういう表情をみたいので、これからは積極的に好きだと伝えることにした。




