最終話 タイガの森の狩り暮らし
大使夫婦はミハイルの伯父、ユスーポフ公爵が身元保証人となり、都へと帰ることになった。再度、両国間の平和のために、尽力すると話していた。ミハイルとオリガのことは、何も聞かなかったことにしてくれるらしい。ありがたい話である。
結局、ラゥ・ハオのところへは二ヶ月ほど滞在していた。
腹部の怪我が完治するまで、馬に乗ることを薬師が許さなかったのだ。
すっかり草原での暮らしに溶け込んでいると、ラゥ・ハオより、一緒に遊牧しないかと誘われた。
のんびりと、豊かな暮らしをする遊牧民達。羊の世話をして、たまに狩猟に出かけ、交易品の買い付けにいく。
明るく陽気な遊牧民達との生活も悪くはなかったが、ミハイルとオリガは青星の村が恋しくなっていた。夫婦の生活と針葉樹林の森は切り離せないものだった。
一年後、また会おうと約束を交わし、草原の民と別れることになった。
ついに、ミハイルとオリガは青星の村へと戻って来た。
二ヶ月の間に季節は巡り、針葉樹林の森の木々は黄金色に輝いて、すっかり秋色めいている。
すれ違ったリスは、冬に備えて木の実を食べているのか丸々と太っていた。
ずんぐりと生えたキノコもいくつか発見する。
針葉樹林の森に、実りの季節が訪れていることがわかる。
色鮮やかな落ち葉が舞い、木の実が落ち、少しだけ冬を思わせる冷たい風が吹いていた。
一年の中で、もっとも美しい季節である。
陽が傾いてきた。
ミハイルとオリガは、家路への道のりを急ぐ。
久々の帰宅は嬉しかったが庭は草が生い茂り、家の中は食べ物などが腐って、大変なことになっているだろう。そう思っていたが――。
「あら、お帰りなさいませ」
庭で二十歳くらいの若く美しい女性が草抜きをしていた。ミハイルとオリガに気付くと立ち上がり、微笑みかけて来る。
彼女の名はセラフィマ。村長マカールの妻である。
どうやら、この二ヶ月の間、預けていた犬の世話をしつつ、家の管理をしてくれていたらしい。
「わんちゃん、みんないい子で、元気ですよ」
おっとりと、ここ二ヶ月間にあった出来事を語ってくれる。
「家の中も、ちょこちょこ整理させていただきました」
ミハイルとオリガは揃って頭を下げる。犬の面倒を見てくれた上に、管理までしてくれるとは。感謝の気持ちでいっぱいになった。
「お二人には、夫が随分とお世話になったようで、ほんのお礼ですわ」
そのままにしていたら傷みそうな食料は『仕立屋 愛しきヴェローニカ』に持って行って布や糸に交換。野菜などはオイル漬けにしたり、乾燥させたりして、保存食として加工したと、セラフィマは説明する。
以前、マカールの家で紹介された時は、夫の陰に隠れて一歩引いた貞淑な妻、という感じだったが、しばらく話をしていると気付く。彼女はかなりの切れ者であると。
結婚後、マカールのギラギラした感じはすっかりなくなっていた。おそらく、セラフィマに教育されたのだろうと、ミハイルは勝手に想像していた。
「ありがとうございました。助かりました。妻と、帰ったら大掃除をしなくてはと話していたところで」
「いえいえ」
マカール夫妻に渡すつもりだった土産――岩塩の塊と砂糖、珊瑚に漢方薬などを渡した。セラフィマは喜んで受け取ってくれる。
「ではまた。オリガさん、よろしかったら、今度ゆっくりお話ししましょう」
「是非」
ここで、セラフィマと別れる。彼女は馬で来ていたようで、颯爽と駆け抜けていった。
ルゥナとソーンツェを厩へと連れて行く。
馬房は綺麗に整えられていた。これも、セラフィマがしてくれていたのだろう。
「ルゥナにソーンツェ、今日はゆっくり休め」
二ヶ月もの間、遊牧生活に付き合ってくれた愛馬に感謝の気持ちを伝えた。
「ありがとな」
角砂糖を与え、鼻を撫でる。嬉しそうに、ぶるると鳴いていた。
次に、犬小屋を覗く。ミハイルとオリガの姿を見ると、犬達はぴょんぴょん跳ねまわり、
千切れそうなほどに尻尾を振っていた。
おいしい餌をもらい、散歩に行っていたのだろう。元気いっぱいで目は輝き、毛並みもよかった。マカールに頼んでよかったと、ミハイルは思う。
ミハイルはラゥ・ハオにもらった武器や石炭などを物置に持って行く。オリガは家の中に食材を運んだ。
作業をしながら思う。やはり、家にいるほうが落ち着くと。
青星の村にある、この丸太造りの家が、ミハイルの家なのだ。しみじみ思う。
物置の整理整頓をしていたら、すっかり辺りが暗くなってしまった。
いつの間にか家に灯りが点され、窓からぼんやりと温かな光を漏らしている。
台所の方からは、良い匂いが漂っていた。どうやらオリガが夕食――ボルシチを作っているようだ。
井戸の水で手を洗い、家に帰る。すると、玄関までオリガがやってきてくれた。
やわらかく微笑みながら、迎え入れてくれる。
「おかえりなさい、ミーシャ」
その言葉を聞いたら、やっと帰って来ることができたのだと実感する。
今までいろいろあった。本当に、いろいろと。
ワケアリのミハイルとオリガは、やっと、ただの村人になることができたのだ。
これから先はなんの憂い事もなく、暮らすことができる。そのことが、何よりも嬉しかった。
厳しくも美しい針葉樹林での暮らしは、楽しいことばかりではないだろう。
けれど、オリガと一緒ならば、どんなことも乗り越えられる。
そう、確信していた。
ミハイルは晴れやかな笑顔を浮かべ、オリガに言葉を返す。
「ただいま、オーリ」
愛する妻を抱擁し、無事に帰宅できたことを喜び合う。
こうして、ミハイルとオリガは、平穏な日々を取り戻した。
◇◇◇
夜。待ちに待った初夜となる。
「――いや、もう初夜でもなんでもねえけれど」
ミハイルは自身の考えていたことに対し、指摘を入れる。
待ちわびた晩はやって来た。
寝台に夫婦は向かい合って座り、見つめ合う。
「本当にいいのか?」
ミハイルが問いかけると、オリガは照れたように頬を染め、コクリと頷く。
照れているからか、アイスブルーの目は潤んでいた。
それに気付いた瞬間、ミハイルは苦悶の表情を浮かべて頭を抱え込む。
「ミーシャ、どうした?」
「これは、大変な事態だ……」
オリガが可愛すぎて、非常に困る。具体的に、どういう風に困るかはわからない。とにかく、世界一可愛く見えて仕方がなかった。
そんなわけで、ミハイルは悶絶していた。他人が聞いたらしようもない悩みである。本人は気付いていないが。
「大丈夫か?」
「たぶん……」
ミハイルはずっと我慢していた。本当に頑張ったと、自負している。
そっと、オリガの手に触れた。
最初に触れた時、女性らしからぬ手だと思った。指先の皮は厚くなっていて、ガサガサしていて、働く男の手のようだったのだ。休むことなく力仕事を毎日行っていたので、そうなってしまったのだろう。
しかし今は、美味しい料理を作ってくれる女性らしい手になりつつある。
もう、彼女は独りで頑張らなくても良くなった。ミハイルはちょっとだけ、泣きそうになる。
感情が涙となって溢れる前に、気持ちを吐露した。
「俺、オーリと逢えて、良かった」
「私も」
ミハイルはオリガの手を引いて、ぎゅっと抱きしめた。
幸せな気持ちで、心が満たされる。
それからキスをして、愛を確かめ合う。
二人は心身ともに、夫婦となった。
◇◇◇
秋色になった森では、狩猟が解禁される。
ミハイルはオリガに習ったライフル銃を背負い、猟犬と共にでかける。
キノコを採り、木の実を集め、肥料作りをするので落ち葉を革袋に詰める。
最後に、罠にかかっていたシカを仕留めた。
帰宅すると、妻と共に解体作業に取りかかる。
森の恵みは、ミハイルとオリガの生活になくてはならないものであった。
このようにして、ミハイルとオリガの、針葉樹林の森での暮らしは続いていく。
いつまでも、いつまでも。
タイガの森の狩り暮らし――完。
最後までお付き合いいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
ひとまずの区切りとして、お礼を申しあげます。ありがとうございました。
今後はのんびりと番外編を更新しますので、引き続き『タイガの森の狩り暮らし』をよろしくお願いいたします。
参考文献
これから始める人のための狩猟の教科書
Fielder vol.30 大特集:野生食材図鑑 (SAKURA・MOOK 73)
狩猟生活 2017 VOL.1―いい山野に、いい鳥獣あり。 特集:狩猟免許取得ABC (CHIKYU-MARU MOOK 自然暮らしの本)
自然人 No.51 2016 冬号 (北陸――人と自然の見聞録)
亡命ロシア料理
北方から来た交易民―絹と毛皮とサンタン人 (NHKブックス)
世界の食文化〈19〉ロシア
実用ロシア語単語集―移動中でもMP3で聞ける!
ロシア―その民族とこころ (講談社学術文庫)
ロシアのパンとお菓子
ロシアの保存食 (「美味しいロシア」シリーズ)
銃の科学 (サイエンス・アイ新書)
ロシア料理・レシピとしきたり (ユーラシア・ブックレット)
きょうはロシア料理
ダーチャですごす緑の週末




