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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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怒りのミハイル

 店内には隙間なく棚が置かれ、所狭しと商品が並べられている『仕立屋 愛しきヴェローニカ』。

 仕立屋であるが、村唯一の店なので、なんでも屋と化している。

 その広くもない店内に、客はミハイルとマカールだけだった。

 店番は誰もいない。奥の部屋にいるのか。


 ミハイルは彼の顔を見た瞬間、カッと頭に血が上り、殴りかかりたくなった。

 けれど、オリガと約束した。村長と諍いを起こさないと。

 二人の平和な暮らしを維持するために、ここは我慢しなければならない。


 顔を伏せて、なるべくマカールを視界に入れないようにして、脇を通過しようとしていたのに、相手はミハイルの気も知らずに呑気に話しかけてくる。


「聞いてくれよ。昨日か今日、ここの近くの森にトラが出たみたいなんだ」


 マカールの話なんぞ聞きたくなかったが、無視をしたら反感を買う。なので、聞いている振りをしようと立ち止まった。


「残念なことに、罠ごとなくなっていたんだ。また、一から作り直しだ」


 トラ用の罠、トラ挟みは『輝ける黄金のトラを射止める会』の組合員の手作りによる品で、現在試行錯誤を繰り返している物だと語る。


「前の会合でも意見が出ていたんだ。鎖部分と挟み部分が弱いって」


 マカールの手には、鎖と金属片があった。彼の家には、罠専用の工房があるらしい。

 また、新しく作り直すことになったと、憂鬱そうに話している。


「朝の見回りで発覚したんだが、驚いた。個体数が減っているのか、ここ一年ほど、トラを見ていなかったんだ。鎖を引き千切って逃げるなんて、クマかトラだろうって。俺は、確実にトラだと思ってる」


 ミハイルはぐっと、怒りを抑える。マカールが言っているのは、昨日、オリガを傷つけた罠のことだろう。


「それで、今朝がたの集まりで宣言したんだ。足に傷のあるトラは、俺の物・・・だとな」


 ここで、ミハイルの我慢も限界になり、とうとう叫んでしまった。


「馬鹿言ってんじゃねえよ! その罠に引っかかったのは、オリガだ!!」


 近くにある、立て付けの悪い棚がガタガタと揺れる。

 にこやかに話していたマカールの顔が、みるみるうちに強張っていった。

 ジロリと、ミハイルは目の前の大男を睨み上げる。眉間に皺を寄せ、口元は歪み、今にも飛びかかって殴りそうな剣呑な雰囲気であった。


 一触即発の張り詰めた空気となる。

 しかし、マカールはふっと息を吐くように笑って、話し始める。


「なんだ、捕まったのはトラじゃなくて、猛虎のオリガだったのか」

「うるせえ」


 オリガはクマ殺しの異名から、『猛虎』と呼ばれている。

 マカールはトラに違いないと、肩を揺らして笑い出す。


「笑いごとじゃねえよ、このクソ野郎! オリガは怪我したんだ! どうしてくれる!」

「傷物にしたのならば、責任でも取ろうか?」

「責任、だと?」

「ああ」


 いったいどう責任を取るつもりなのか。ミハイルは問い詰める。


「特別に、嫁として、娶ってやろう」

「なんだと!?」


 オリガはミハイルよりも八歳年上である。

 手に余る女だろうと、マカールはミハイルに問いかけた。


「俺の罠に引っかかったんだ。足に所有印も付けた。ちょうどいい話だ。仲間達にも、猛虎を捕まえたと、自慢できる」


 マカールはちらりとミハイルを見て、勝ち誇ったように言った。


「今晩からでも、差し出してもらおうか。傷物でも、可愛がってや――」


 言い終わらないうちに、ミハイルはマカールを殴り倒した。そして、叫ぶ。


「オリガは俺の女だ。手を出したら、ぶっ殺す!!」


 見上げるほどのマカールの巨体は、あっという間に床に沈む。

 ドン! と倒れた衝撃で、棚にあった女性物の胸部を覆う下着が落ちてきて、ふんわりとマカールの胸に被さった。

 森の奥の村にそぐわない、真っ赤な下着であった。それを胸元に当てたなんとも言えない姿を見て、ミハイルは一瞬にして冷静さを取り戻す。

 加えて、マカールの口の端には、血が滲んでいた。ミハイルに殴られ、倒れ込んでしまう想定外のできごとに、呆然としているようだった。


「おい、なんの騒ぎだ!」

「どうしたんだ!?」

「棚でも倒れたか?」


 ぞろぞろと店内にやって来たのは、『キタキツネの会』の組合員。

 先ほどモリーユをくれた、サーヴァの姿もあった。

 店内に立ち尽くすミハイルと、床に倒れ込み、胸に下着を当てているマカールを交互に見る。


「おい、ミーシャ、どうした?」

「あ、いや……」


 事情をどう説明しようか考えていると、『キタキツネの会』の組合員の中の一人が、ぶっと吹き出す。

 それをきっかけに、皆笑い出した。


「村長、しゅ、趣味なんすか?」

「笑わせないでくださいよ!」

「我慢していたのに!」


 皆、女性の下着を胸に当てた姿が面白かったのか、ゲラゲラと笑い出す。

 マカールは起き上がって下着を床に投げつけて、店から逃げるように出て行った。


「やっぱり、笑うのはダメだったか」

「いや、口から血を出して倒れている時点で、笑ったらダメだろ」

「そういうお前も笑っていたけどな」


 『キタキツネの会』の組合員達は、口々に反省の言葉を口にする。


「あの~、終わりました?」


 その場が落ち付いたあとで、ひょっこりと顔を出したのは仕立屋の一人息子、ロジオンであった。

 マカールのことが苦手で、ずっと店の奥に引っ込んでいたのだ。


 ◇◇◇


 ミハイルはロジオンと『キタキツネの会』の組合員に昨日あったできごとを語って聞かせた。


「ひでえな」

「トラ挟みを無差別に設置って、俺達にも危険があるかもしれないってことじゃないか」

「見逃せないこったな」


 人を殴ることはよくないことだ。しかし、マカールはそれだけのことをした。

 サーヴァはミハイルの背中をバンと叩き、話しかける。


「それにしてもミーシャ、お前、優等生だと思っていたが、やるじゃないか!」


 村長を殴ってしまった。けれど、誰も咎めることはしなかった。

 ぎゅっと唇を噛みしめる。内心は複雑であった。

 オリガや薬師との約束を破ってしまった。

 その事実は覆らない。


「ミーシャ、やっちまったことは仕方がない」

「そうだそうだ」

「俺も、同じこと言われたら、殴っていたよ」


 オリガの悲しそうな顔が、脳裏を過る。頭を抱え込み、奥歯を噛みしめた。


「まあ、お前は運がよかったよ」


 幸い、マカールは女性物の下着を身に着け、床に伏せるという恥ずかしい姿で発見された。

 自尊心が高い男なので、その事実を周囲に言いふらしてミハイルを糾弾することはできないだろうと予測する。


「俺達馬鹿みたいにゲラゲラ笑ってしまったもんなあ」

「しかし、あれは傑作だった」

「なんで下着が胸元に落ちてくるんだよ」


 再度、笑い出す。

 ミハイルは顰めっ面のまま、静かになるのを待っていた。


「ねえ、ミーシャ」


 今まで大人しく話を聞いていたロジオンが、こそこそと話しかけてくる。


「なんだ?」

「いや、すごい勇気だなって思って」

「違う。腹が立って、衝動的に殴っただけだ」

「そうかな? 奥で話を聞いていたら、その、村長は最低最悪のことを言っていたし」


 二人の間に割って入り、喧嘩を止めることができなかったことを、謝罪される。


「いいよ。首突っ込んでいたら、お前も殴られていたかもしれねえし」

「うん」


 こういうことは今回限りにしなければならない。

 次はないと思っている。


「ロージャ、お前も気を付けろ」

「わかった」


 ここで、ミハイルに『キタキツネの会』の組合員達からオリガへの見舞いの品が贈られた。


「うちのかーちゃんが持っていけって」

「うちも」

「うちもだ」


 イノシシの燻製肉に、赤いイクラの塩漬け、鶏のハムと、手作りの保存食を持って来てくれた。


 今朝がた、オリガが怪我をした話を薬師が奥方らにしたようで、途中で会ったサーヴァからミハイルは『仕立屋 愛しきヴェローニカ』にいると聞いてやって来たのだと話す。


「行き違いになったらいかんと思って、犬ゾリをかっ飛ばしてきたんだ」

「そうか」


 そのおかげで、ミハイルは助かった。

 深々と頭を下げる。


「あ、そうだ。オリガがなんだ、婦人会の猫のなんとかに入りたいって」

「ああ、それ、うちのかーちゃんの会だわ」


 サーヴァの妻が婦人会『気まぐれ猫』の発起人であることが発覚した。


「じゃ、帰ったら話しておくわ」

「すまん、頼む」


 女性陣はオリガとゆっくり話をしたいと、以前から話題にしていたらしい。きっと、歓迎するだろうと話す。


 話が終わったので、『キタキツネの会』の組合員達はぞろぞろと帰って行った。

 ミハイルは去りゆく後ろ姿に、頭を下げた。


 やっとのことで、買い物の時間となる。


「ミーシャ、今日は何を買いに来たの?」

「黒トナカイのナイフ」


 そう答えると、ロジオンは表情をパッと明るくする。


「わかった。準備するね!」

「頼む」


 取り置きしてもらった黒トナカイのナイフは、木箱に入れてくれた。中は毛皮で内張りがなされている、贈り物用の箱である。


「オリガ、きっと喜ぶよ」

「だといいけれど」


 ミハイルは品物と引き換えに、リスの毛皮二十枚を払い、他に小麦粉や調味料、奮発して生の黒イクラを購入して家路に就いた。


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