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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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ミハイルのお仕事

 沈みゆく太陽を背に、ミハイルとオリガは帰宅する。

 一列に並んで歩き、前を行くぶち柄の馬の揺れる尻尾をミハイルは眺めていた。


 オリガが迎えに来てくれて良かった。ミハイルは思う。

 このまま帰って憂いごとを見抜かれ、事のすべてを喋ってしまうところだった。

 薬師との関係も終わっていただろう。

 もう一度、しっかり話をして、真意を知ることができて、本当によかった。心からそう思う。


 季節はゆっくりと変わろうとしていた。

 雪深い冬から、暖かな春へと。


 この白銀の世界は、どのように変化するのか。ミハイルは楽しみだった。


 そんなことを考えていると、塀に囲まれた森の中の家に辿り着く。

 馬から降りて塀の扉を潜る。厩に行って馬房に馬を入れ、水と餌を与えた。


 外に出ると、ちょうど地平線に太陽が沈んでいる光景が目に飛び込んでくる。


 白雪と白樺の木々を茜色に染めている。夜闇の紫と太陽の橙が空で混ざり合い、美しい光景となっていた。


 その様子を眺めていると、オリガが隣に並ぶ。


「ミーシャ、どうした?」

「いや、なんかすげえ景色だと思って」


 オリガも、森の日没に目を向けた。


「確かに、綺麗……」

「なんか、初めて見たような言い方だな」

「そうだな。初めて、このようにじっくり見たかもしれない」


 なんせ、オリガは家に帰ってからが忙しかった。

 獲物の処理を行い、風呂を沸かして身を清め、食事を作り、掃除をして、洗濯も――。


「それから……」

「うん。なんつーか、今までぼんやりする暇もなかったってことか」

「ぼんやり……ああ、そうだな。ぼんやりなんて、できなかった」


 オリガは改めて沈みゆく太陽を見る。

 しばらく眺めたあと、しみじみと呟いた。


「ぼんやりするのも、いいな」

「だろ?」


 それから二人は、太陽が沈むまで、森の景色をぼんやりと眺めていた。


 ◇◇◇


 帰宅後は掃除をして、風呂に入り、夕食を食べる。

 あっという間に夜になった。


「ミーシャ、そろそろ寝よう」

「あ、あー……」


 そういえばと思い出す。部屋の修繕は完了したが、オリガにこれからも一緒に寝ようと言われていたことを。

 今日はそれ以上に大変な話を聞いていたので、すっかりと忘れていた。


 オリガは先に二階に行ったようだ。ミハイルもあとに続く。


 とん、とん、とんと、重たい足取りで二階まで上がった。オリガの寝室は、閉ざされずに開いたままだ。ミハイルをいざなっている。


 入ろうか、入るまいか。迷っていると、オリガがひょっこりと顔を出す。目が合ったミハイルに、早く来いと示すようにちょいちょいと小さく手を振って招いた。


 そんな風に、可愛く誘われたのならば、行くしか選択肢はない。

 ミハイルは動揺を押し隠すように顔に力を入れ、歯を食いしばり、大股でズンズンと部屋に近づく。


 オリガはすでに寝台の上に座り、入って来たミハイルをじっと上目遣いで見ている。

 食いしばっていた歯が、険しくなっていた表情が、思わず緩みそうになった。

 一緒に寝てくれるのかと、遠慮がちに問いかけるような眼差しが、これまた可愛かったからだ。


「ミーシャ、その、嫌だったら、無理はしなくてもいい。一人で寝たいのならば――」

「無理じゃない、嫌でもない!」


 はっきりと大声でそう答え、靴を脱いで寝台に入った。

 即座に布団を被り、すぐさま眠ろうと瞼を閉じる。

 今日は布団を干し、シーツも洗濯したので、オリガの匂いはしない。

 そもそも、一緒に眠るようになってからは、布団に染みついた匂いも薄くなっていた。ミハイルが一緒に眠っているからだろう。

 近寄ったら嗅げるけれど、それをすると自分に余裕がなくなって、くらくらしてしまう。

 一連の症状に関して、薬師にも相談したことがある。診断の結果、病気だという診断が出た。

 治す方法はないらしいが、オリガと一緒にいる限りは悪化することはないとのこと。


 誰もが罹る、幸せな病気だった。


「――そういえば、ミーシャ」

「!」


 壁に背を向けていたオリガが、寝返りを打ってミハイルに問いかけてきた。

 顔が近かったので後退しようとしたが、これ以上下がると寝台から落ちてしまう。

 オリガに見つめられているのに気付き、ハッとなって話しかける。


「なんだよ?」

「いや、あとで話すことがあると言っていただろう」

「そ、そうだったな」


 話とは、薬師から習った按摩の件についてだ。合格をもらったので、個人営業を始めようと考えてはいたものの、まだオリガにお伺いを立てていなかった。


「――というわけで、この家の居間を借りて、営業したいんだけど」

「ふむ。按摩か」


 オリガも薬師より話を聞いていたが、いまいち胡散くさく、施術を行ったことはないと話す。


「本当に、体の痛みは和らぐのか?」

「ああ。俺も最初は疑っていたんだけど、やってもらったら体が軽くなったから驚いて」

「なるほど」


 ミハイルは提案する。一度、施術を受けてみる気はないかと。


「いいのか? 疲れているのでは?」

「そこまで疲れてねえから気にすんな」

「だったら、頼む」

「おう」


 ミハイルは起き上がり、ぐっと体を伸ばす。

 オリガの掛け布団を取り払う。本日の彼女の装いは、体をすっぽりと覆う踝丈の上下一続きになっている寝間着。

 豊かな胸元、ほっそりとした腰、すらりと長い脚がはっきりとわかるような薄い生地である。

 今までこのようにじっくり見たことがなかったミハイルは、恥ずかしくなって目を逸らした。


「どうした?」

「い、いや」


 ぶんぶんと首を横に振る。今は施術に集中しなければ。歯を食いしばって、視線をオリガに戻す。


「按摩とは、どういう風にするんだ?」

「症状が酷い場合は、上半身裸になって、蒸した手巾などで体を温めるんだけど……」

「裸、だと?」


 アイスブルーの目が、細められる。目が合ったミハイルが、ぞくりと鳥肌が立つような冷たい視線であった。


「女性も脱ぐのか?」


 ここで、オリガの冷たい視線の意味を理解した。慌てて否定する。


「いや、男! 裸になるのは男だけ」


 今まで女性の患者はいなかった。薬師に聞くと、年に一人来るか来ないかだったらしい。


「来ても、婆さんとか、そんなだから」

「そうか。いや、若い女性の患者が来た時などを考えて……」

「いやいや」

「それはわからないだろう。もしも、ミハイルが按摩をしているという噂を聞きつけて、女性が押しかけて来たら……」

「ないない」


 もしも、若い女性の患者が来た時はオリガに同席してもらうことになった。


「では、始めてくれ」


 オリガは信頼してくれているのか、目を閉じていた。

 腕まくりしたミハイルは一度深呼吸をしたのちに手を伸ばして、オリガの胸の前でピタリと止める。

 そして、震える声であるお願いをした。


「――お、おい。仰向けではなく、うつ伏せになってくれ」

「そうなんだな」


 オリガは仰向けになって寝転がっていた。言われて、うつ伏せになる。

 その間、ミハイルは両手で顔を覆っていた。

 危なかった。危うく張り切って胸を揉みそうになっていた。

 必死になって、羞恥に耐える。


 一度気分を落ち着かせてから、施術を始めた。


「どの辺が痛む?」

「肩から、腰の辺りまで」

「わかった」


 作業ができないほど痛むわけではないらしい。ただ、鈍痛は感じていると。


「患部を押して、筋肉を解し、血の流れを良くする。そうすれば、体は痛まなくなる」

「なるほどな。頼む」


 まず、痛む場所を確認した。

 そっと、指先を背に当てる。男よりも、ずっとやわらかい体であった。

 患部がわかったので、今度は施術に移る。


「痛かったら言え」

「了解した」


 ぐっ、ぐっと、親指で押していった。

 一日中働いている男ほどではないが、オリガの体も凝っていた。

 痛かっただろう。もっと早く解してあげればよかったと思う。


「――んっ!」

「あ、すまねえ。力が強かったか?」

「いや、そこまで……。こういうことに、慣れていないから」


 女性と男性では力加減を変えなければならない。ミハイルは用心しながら、施術を施す。


「あっ……」

「痛いか?」

「いや、気持ちいい」

「……」


 なんだこれはと、ミハイルは思う。

 男が変な声をあげた時は気持ち悪いとしか思わなかった。

 けれど、オリガの声は、妙に艶めかしくて、色っぽくて……。


 もう、我慢なんてしなくてもいいのではと思い始める。

 オリガも、協力できるかもしれないと言っていた。

 二人の気持ちは共にあるのだ。だったら、何も問題はない。


「なあ、オリガ」

「……」

「オリガさん?」

「……」

「オーリ?」

「……」


 寝ていた。オリガはすやすやと、眠っていた。

 体を揺さぶっても起きやしない。


「こ、こんなのってあり?」


 ミハイルは一人、ポツリと呟く。


 気の毒なことに、これが現実であった。


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