迷い、決断する
ミハイルは愕然としていた。自らの想像を超えた、壮大な話だった。
あの様子だと、オリガは知らないのだろう。いつ言うつもりなのか。それとも言わないのか。
どちらにせよ、目の前にいるオレーク・エゴノヴィチ・ウヴァーロフという男は、油断ならない人物であった。
常に笑顔を絶やさず、温厚で知的、また心優しい人で――オリガやミハイルの一番の理解者だと思っていた。今、この瞬間までは。
しかしその実態は、皇帝の背後で影のように暗躍する間諜で、何人もの罪のない人を死へと誘った残虐非道極まる男だった。
ミハイルに、幸せになれと言った。その言葉は真実なのか。それとも――。
恐る恐る目の前の薬師を見る。
優しい目をしている人だと思っていたのに、今見てみると、冷徹な、感情のない目にしか見えない。
ミハイルは恐ろしく感じ、ぶるりと体を震わせる。額にも、びっしょりと汗を掻いていた。
「あ、あんたは――」
ミハイルは確認しようとした。薬師は善人なのか、悪人なのかを。
だが、問いかける前に、言葉を制されてしまう。
「……もう、ここには来ないほうがいいでしょう」
そう言いながら、薬師は一通の書簡を手渡す。
ミハイルはすぐに開いた。それは、按摩技術の認定証であった。これがあれば、営業ができる。
「これは……」
「先ほども言いましたが、あなたの技術は合格点に達しています。むしろ、私より上手いかもしれません。自信を持ってください」
もしも、按摩について今以上のことを知りたいのであれば、ラゥ・ハオに頼むように言われる。按摩の達人は、同じ部族に所属する男らしい。雪解けの時季になったら、遊牧にやって来るという。
最後に、薬師はすべての感情を無にした面持ちで述べた。
「それでは、さようなら」
ミハイルは立ち上がり、おぼつかない足取りで居間を出る。
もう一度振り返って、頭を下げようかと思ったが、体が動かなかった。玄関への歩みは止まらない。
まだ、気持ちが追い付いていなかった。
オリガの出生についてだって、信じられない。
けれど、嘘を吐くような人ではなかった。
オレーク・エゴノヴィチ・ウヴァーロフという人物は、今までも心の内は隠さず、正直で素直な男だった。
優しい人だった。頼りにしていたし、信じていた。
この孤高な森の中で、ただ唯一、すべてを話し、信頼していた大人だったのに、まるで裏切りを受けたような心境である。
年若いミハイルは、清濁を併せ呑み、すぐに真実を受け入れることはできなかった。
馬に跨り、犬を引き連れて家に帰る。
少し、帰るのが遅くなってしまった。
そう思っていたら、先導していた犬達が突然尻尾を振り、走り出す。
縄で繋いでいなかったので、あっという間に距離が開いてしまった。
「お、おい!!」
ミハイルは馬の腹を蹴って、あとを追った。
いったいどうしたのか。そう思っていたら、前方より、葦毛にぶち柄の馬が駆けてくる。あれはオリガの愛馬、ソーンツェだ。騎乗しているのはもちろん――。
「オリガ!」
ミハイルは犬同様に駆け寄り、馬をぴったりと横に並べて、やって来たオリガの顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ?」
「いや、ミーシャの帰りが遅かったから、迎えに」
「そうか……」
オリガに心配をかけてしまった。先ほど聞いた話の件と相俟って、余計に落ち込む。
「ミーシャこそ、どうしたんだ?」
「え?」
「顔に、何かあったと書いてある」
「……」
オリガに隠し事など、最初からできないのだ。
そもそも今日、明らかにされた話は言うべきか、それとも墓まで持って行くべきか。
わからない。
十七歳の、経験が豊富ではないミハイルが抱えきれる問題ではなかった。
なので、言えることだけ、口にした。
「俺、さっき、薬師のじいさんからとんでもない話を聞いて……」
「いったい、何を?」
やはり、言えない。オリガの出生についてなんて、簡単に言えるわけがなかった。
しかし、隠し事をするのは、胸が苦しい。
最後に見た、薬師の顔も脳裏に焼き付いている。
あの、感情のなかった表情は、本当の顔だったのか。
親身にしてくれたのも、弟子にしてくれたのも、優しくしてくれたのも、裏があった?
――いいや、違う。
薬師は騙していなかった。
突然、自分は人殺しだと言われ、ミハイルが一方的に勘違いをしていた、のだと思う。
でも、まだわからない。
薬師と向かい合って話をすることが、怖かった。
だから――。
「オリガ、もう一回、薬師のじいさんのところで、話を聞こう。俺の口からは、とても……」
自分の中では抱えきれない。だから、言うか、言うまいかの判断も全部、薬師に押し付けようと思った。
馬を方向転換させて、薬師の家に戻る。
黙ったまま、オリガと二人、雪に足跡を残しながら歩いて行った。
◇◇◇
早すぎる再訪を果たしたミハイルと、なぜかいるオリガを迎えた薬師は驚きの顔で双方を見比べていた。
「えっと、お二人は、いったい何をしに?」
「昼食を食べに来た」
「え?」
オリガはミハイルの作った昼食を籠に入れて、持って来ていたのだ。
帰りが遅かったので、薬師の家で食べようと思ったのだと話す。
ミハイルはズカズカと大股で居間に行き、籠の中の壺を暖炉の炭の上に置いた。
オリガは台所から深皿と平皿などを持って来て、テーブルに並べていく。
薬師は廊下で夫婦がテキパキと昼食の準備する様子を、ただただじっと眺めていた。
コトコト暖炉で温まったスープは、ミハイルの得意料理でもあるボルシチ。
それを、おたまで掬ってスープを深皿に装う。
オリガはスメタナを忘れたらしい。しかも、薬師も切らしていた。
せっかくのボルシチであったが、スメタナのない、なんとも味気ないものとなる。
皆、黙ったままパンをちぎって食べ、スープを飲む。
気まずい食事のひとときであった。
食後は、オリガが茶を淹れた。家から持参していた、紅茶である。砂糖の欠片を齧りながら飲む。
そして、やっとのことで本題に移った。
「なあ、じいさん。さっきの話を、オリガにもしてくれないか?」
ミハイルはいきなり核心を突く。
薬師はどうでるのか、まったく予想もできない。
「ええ、そうですね。一人だけ話すというのは、よくないことでした」
そう言って、薬師はゆっくりと話し始める。
ミハイルに言ったこととまったく同じことを、オリガにも話した。
ただし、シャルロッテ王女の話だけは、しなかった。
これは、墓場にまで持って行かなければならない事項なのだろう。
ミハイルも、これは本人に伝えないほうがいいのではと思っているところだった。
それでも、オリガは衝撃を受けていた。
目の前の、ただの好々爺だと思っていた薬師が、人を殺していた。
自分の意志ではないとしても、恐ろしい話であることは確かだ。
オリガは父親のこともある。本当の親子ではなかったのだ。
出生については、身寄りのないオリガを引き取り、連れて来たと簡単に話をしていた。
「なるほど。何か、ワケアリだとは感じていたが、そうだったのか……。しかし、まさか父までとは……」
オリガは唇を噛み、ぎゅっと強く拳を握っていた。
ミハイルは、オリガの手に、指先を重ねる。かつて、彼女がそうしてくれたように。
アイスブルーの目は、揺れていた。
それも無理はない。
「オリガ……」
背中を丸め、俯くオリガの姿は落ち込んでいるという言葉では片付けられなかった。酷く、気落ちしている。
薬師はしばし席を外すと言い、部屋から出て行った。
二人きりとなった。
窓の外はまだ明るい。
日照時間がどんどん長くなってきていた。
針葉樹林の森にも、雪どけの時季が訪れようとしていたのだ。
オリガは、震える声でミハイルへと問いかけた。
「ミーシャは、老師について、どう思う?」
「俺は――」
わからなかった。けれど、悪い人ではないと思っている。そう、信じたい。
それから、同じ話を聞いて気付いたことは、薬師がオリガを守ろうとしていること。
切実な思いが伝わって、胸が締め付けられるようだった。
だから――。
「薬師のじいさんは、薬師のじいさんで……いつも飄々としていて、若者をからかうのが大好きで、村人の健康を一番に考えているし、オリガのことは、本当の孫のように、思っているんだと、思う」
オリガの瞳からポロリと、眦から真珠のような涙が流れる。
ミハイルは開いているほうの手で、オリガの背中を撫でた。
「私も、老師のことは、本当の、祖父のように……」
「うん」
「びっくりした。悲しかったし、父のことも、どうして黙っていたのかと……」
「そう、だな」
しばし、静かな時間を過ごす。
簡単に受け入れられることではなかった。
けれど、オリガは話しだす。
「私は、今まで見てきた老師を信じたい」
「俺も、それがいいと思う」
過去はなかったことにはできないが、自分達にはこれからがある。
若い夫婦はまだまだ未熟で、導いてくれる人が必要だった。
ミハイルは薬師を呼びに行く。そして、居間の長椅子に座らせた。
「あの、私は――」
薬師は居心地が悪いのか、目線を泳がせ、いつもの余裕など欠片もなかった。
そんな彼に、ミハイルは話す。
「俺、これからもあんたを利用することにしたよ」
「利用、ですか?」
「ああ。自分自身、未熟だし、わからないこともたくさんあるから」
それ以上は言葉にならず、黙って頭を下げた。オリガも、それに倣う。
「そんな、私は、あなた達の指針となるような大人では――」
「過去のあんたは知らないけれど、薬師のじいさんは今までそうだったんだ。つべこべ言わずに、利用させろ」
ミハイルの物言いに、薬師は目を瞬かせている。表情に浮かぶ感情は、戸惑い、驚きそれからおそらくであるが、喜びも。
そして、ぽつりと零した。
「ありがとうございます」
その言葉をミハイルとオリガは受け止める。
問題は解決したとは言い難いが、夫婦はまた、そして薬師も、一歩前に未来へ向かって踏み出した。
後ろを見ている者は、誰一人としていない。




