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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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薬師の過去、オリガの出生

 ウヴァーロフ侯爵家の者達は『皇帝の犬』と呼ばれ、長い長い歴史の中で暗躍を続けて来た。


 薬師――オレーク・エゴノヴィチ・ウヴァーロフもまた例外ではなく、皇帝個人の懐刀としてさまざまな悪事に手を染めてきたと話す。


「私は、根っからのウヴァーロフ家の悪い血が流れていると、信じて疑わなかったのですよ」


 皇家の侍医だった薬師は、人を救うだけの医者ではなかった。

 皇帝の恩情として、体を患った者がいる貴族の家を慰問し、相手の懐に飛び込んで野心や敵意を抱いていないか探る間諜のような役割もこなしていた。


「皇帝の目下の悩み事は、ウヴァーロフ侯爵家とユスーポフ公爵家の仲の悪さでした」


 ユスーポフ公爵家。それは、ミハイルの母親の生家だ。

 筆頭公爵家の立場にあり、皇家の典礼を司り紋章を授与する権限を任された紋章院を取り纏める、大いなる権力と資産を併せ持った一族である。

 皇家との仲はそこそこ良好であったが、ウヴァーロフ家との仲は険悪であった。

 二つの家が同格の力を持つことが、互いの自尊心を刺激する最大の原因であろう。


 当時、公爵であったミハイルの祖父と、ウヴァーロフ家の当主は特に仲が悪かった。


「ユスーポフ公爵家の影響力は大きく、反旗を翻されたら危ない相手です。なので、皇帝は互いに仲良くするよう言っていたのですが――まあ、聞く耳を持たないですよね」


 しかし、緊張状態にあった中で、転機が訪れた。ユスーポフ公爵家の当主が病に倒れたのだ。


「ここで私は、皇帝の命を受けて、帝国の名医として、ユスーポフ公爵家の敷居をまたいだわけです」


 皇帝の命令で弱りきった患者に毒を盛るように命じられることもあった。

 その時は、薬と偽って、毒を処方する。そういう仕事を繰り返してきた。

 もちろん、助けた者も多い。それは、皇帝に忠誠心の強い者だけであったが。

 闇に葬った数はそこまで多くない。よって、彼は名医と呼ばれていた。


「公爵家には毒を盛りに行かなければならないと思っていました」


 しかし、今回に限っては違った。

 ユスーポヴァ公爵をじっくり治療していき、皇帝への忠誠心を高めるよう導けと命じられた。


「そんなわけでしたので、私は長きに渡り、公爵家の当主の治療にあたったのです」


 闘病は五年という、長い期間だった。

 その間に、薬師は公爵と話し、ユスーポフ公爵家の者達と交流した。


「当主たる公爵様――ミーシャ、あなたのお祖父様ですね。あの御方は、とにかく頑固だった。しかし、正義感溢れる方で、紋章院の長に相応しい、清廉潔白な男でしたよ」


 前公爵が皇帝だったら、民はどんなに幸せだっただろうかと、夢物語を語るように呟く。

 その息子である次期公爵――ミハイルの伯父は野心家だった。油断ならない男で、皇帝の敵になることはありありとわかっていた。


 一方、ミハイルの母親は病弱だったために地方で療養していた。薬師は会ったことがないと話す。


 公爵家で過ごす中で、薬師は運命の出会いを果たした。


「――その相手とは、私の余生に大いなる影響を与えた男、ユスーポフ公爵家の次男、アンドレイ」


 その名前に、ミハイルは肩を揺らす。そして、震える声で問いかけた。


「もしかして、それは、オリガの……」

「ええ、父親です」


 想像もしていなかった展開に、ミハイルは瞠目する。

 ユスーポフ公爵家の伯父の弟は、オリガの父親。

 ならば、ミハイルとオリガは従姉関係にあるのか? その問いかけに、薬師は首を横に振る。


「彼女については、もう少し先になります」


 まず、薬師とアンドレイとの出会いについてから。


 アンドレイ・イーゴレヴィチ・ユスーポフは実に優秀な軍人で、父親の背中を見て育ったからか、正義感に溢れ、実に気持ちのいい青年だった。


「彼は皇帝の悪政を憂いていました。それに関しては、野心家の兄ドナートも同じでしたが……」


 兄弟で違う部分は、皇帝の改心を願うアンドレイと、皇帝をどうにかしようと思うドナート。


「まあ、いずれにせよ、皇帝の意にそぐわぬ者達ですので、毒殺案件ですよね」


 しかし、薬師は皇帝にそのままの情報を報告しなかった。


「どうしてだ?」

「私は、公爵様のお人柄に好意を抱いてしまったのです」


 治療を続けながら、皇帝に報告は続けていた。けれど、その中に真実はほんのわずかだった。


「皇帝は老齢の公爵など恐れるに値しない人物だろうと思っていたのでしょう。私は監視のみ、命じられていました」


 そんな中で、薬師は公爵より、遺言を預かる。

 それは、この国を良い方向へ導いてほしいということ。


「とんでもないジジイだと思いましたよ。ただの他人である私に、大変な願いを託した」


 だが、五年もの間、薬師は公爵の考えに染まりきっていた。

 皇帝への忠誠は、どこかへ消えてなくなっていたのだ。


 帝国の存立基盤上には、貴族の専制と農奴制があった。

 しかし、その制度は民の反感を買い、各地で暴動が発生していた。

 直属の官僚から「農奴制の廃止だけでも」という声が上がっていたが、皇帝は聞く耳を持たず、その者達を処刑台へと送るように命じるばかり。


 帝国内の情勢は悪くなる一方。処刑を繰り返したことによる、官職の人手不足も深刻であった。


 そんな中で、皇帝は起死回生の政策に打って出る。

 それは、当時黄金時代を築いていた国との国交であった。


 上手い具合に話は進み、同盟の証として、生まれたばかりの王女が帝国に嫁いできた。


「その王女の名を、シャルロッテ=エリザベート・ド・フランクライヒ」


 当時の女王と同じ名を与えられた、金髪に青い目を持つ美しい赤子だったと薬師は語る。


「それが――オリガです」

「!」


 薬師はアンドレイと共謀し、シャルロッテ王女を誘拐したのだ。


「王女の誘拐はとても安易なことでした」


 まず、皇帝の傍付きだったアンドレイが、農奴制について物申す。すると、皇帝は激昂し、処刑せよと命じた。

 当時の処刑法は毒殺。その多くを、薬師が担当していた。

 その日も、薬師は皇帝の命令通り、毒を飲ませる。

 アンドレイは死んだ。きちんと見届けたと、報告書を綴る。

 しかし、アンドレイは死んでいなかった。

 薬師以外見届け人がいない場で、容易く死体の偽装は行われる。

 反逆人は、親族に見送られることなく、秘密裏に土葬されるのだ。

 偽物の死体を処理役に任せ、アンドレイと薬師は王女を誘拐するために暗躍した。


「そして、逃亡先に選んだのが、ここ、針葉樹林タイガの村でした」


 この地を知ったきっかけは、反旗を翻す者やその家族を収容する施設の噂話だった。


「最果ての地にある森には、村がある。しかし、そこは深い迷いの森で、トラやヒョウ、ヒグマなど獰猛な野生動物も生息し、外の者は決して、見つけることができない、幻の場所だと」


 アンドレイは一度、長期休暇を使って村を捜し出していた。


「近くに帝国の施設はあるが、村とのかかわりはない。さらに、施設を管理する者は針葉樹林タイガの森を恐れている。これ以上、潜伏先に相応しい場所はないと」


 そして、薬師とその妻と、アンドレイは針葉樹林タイガの森の村へと逃走し、定住することになった。


「王女にはシャルロッテという、女王と同じ気高き名がありましたが、この辺りでは聞かない響きの名でした。なので、アンドレイが新たに、オリガと名付けました。意味は、古代語で聖なる者という意味です。きっと、汚いばかりの世界で、清らかに育ってほしいと、願ったのでしょうね」


 薬師は寂しげに微笑んでいた。

 ミハイルは、かけるべき言葉が見つけられない。

 続いて、驚きの計画が語られた。


「私達はいずれ、都に戻るつもりでした。高貴な姫君を、返すつもりだったんです」


 薬師にはある一つの目論見があった。


「ユスーポフ公爵家が上手く立ち回って皇家を滅ぼし、実権を握る。さすれば、国は変わると」


 そこで、シャルロッテ王女と共に都に帰り、新たな皇帝の座に収まった青年に娶らせ、国は絶大な同盟国の力を得て、さらなる発展を遂げる。


 それが、薬師の野望でもあった。


「しかし、アンドレイは違いました。娘として育てることになったシャルロッテ王女――オリガを、自分の本当の娘のように、愛していたのです」


 貴族としての心構えを教えながらも、森での暮らし方についてもしっかりと叩き込んでいた。


「私はアンドレイの無意識のうちの願いに気付いていました」


 アンドレイは、オリガに一人の女性としての幸せを想っていた。

 しかし、薬師との誓いも頭の隅にあって、王族としての気高さを失わないような教育も続けていたようである。


 薬師も、幸せそうな親子の様子を見ているうちに、もう、オリガを汚い策謀が渦巻く都に連れて帰らないほうがいいのではという考えが強くなっていた。


「アンドレイは病気で亡くなりました。オリガを残して逝くのは辛かったことでしょう。私も、どうすべきか、ずっと迷っていました」


 けれど、かつて計画していたことを実行に移す体力が薬師にはなかった。

 なので、ただただ見守るしかなかったと話す。


「しかし、私達の前に、あなたが現われた。ユスーポフ公爵家の者だけではなく、皇帝の血も引いていた。奇跡だと思いましたよ」


 薬師の中にあった野望が、ふつふつと大きくなり、実現できるのではと思うようになった。


「そ、それは、もしや……」

「ええ。あなたが皇帝となり、オリガが皇妃となる。逝ってしまった公爵が望んだ、平和な世が訪れると――」


 薬師はミハイルに手を伸ばしたが届く寸前で止めて、ぎゅっと握りしめた。

 意図が掴めずにポカンとしていると、薬師はふるふると、首を横に振って言った。


「私は、あなたたちを見守っているうちに、企てなど消えてなくなってしまいました」


 偶然出会ったオリガとミハイルは、少しずつ互いを理解し、ひっそりと暮らしていた。

 パンが美味しかった。毛皮の鞣しが上手くできた。

 そんなことに喜びを覚える、ささやかな生活をしていた。


「決して、裕福な暮らしではありませんでしたが、オリガは心が豊かになったようで、顔付きが優しくなりました。今まで、気を張った状態で、暮らしていたのでしょう。可哀想に……。彼女は、あなたという存在に、癒されているのでしょうね」


 オリガとミハイルは契約結婚であったが、幸せそうだった。


 そんな二人を悪意渦巻く都に連れて行き、国のすべてを背負わせるなど、とてもできないと思ったのだ。


「ミハイル・イヴァーノヴィチ、幸せにおなりなさい。この、厳しくも平和な森の中で永遠に」


 何があっても、針葉樹林タイガの森が守ってくれる。

 だから、この先も心配はいらないと、薬師はミハイルに言った。


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