話し合い
ミハイルは馬に乗り、オリガは犬ゾリに乗って帰る。
先導はオリガのソリと猟犬。
どんどん陽は沈み、あっという間に真っ暗な世界となる。
オリガは途中で角灯に灯りを点してソリに吊るし、わずかな灯りで
針葉樹林の森を進んで行った。
夜の森は恐ろしい。
視界は狭まり、先の見えない果てない道を走っているような気分になる。木々の重なり合う音や、ヒュウヒュウと吹く風も不気味に聞こえた。
前を行くオリガは、迷いなく進んでいるように見えた。
やっといつもの彼女に戻ったのか?
ミハイルにはわからない。
八歳も年上で、見ず知らずのミハイルを受け入れ、淡々と日々を過ごしていると思っていた。
けれど、違った。
突然の夫婦生活に戸惑いを覚え、日々過ごす中で疑問を感じ、迷うこともあった。
オリガもミハイルと同じように、いろいろと悩みを抱えていた。
その件に関して、意外だと思った。
けれど、ミハイルを必要とし、引き留めようとしてくれたことは、嬉しいことである。
しかし、今回のように、頑張り過ぎるのは問題だ。このようなすれ違いなど、二度とあってはならない。同じことを起こさないために、話すことが必要になる。
口にするのが恥ずかしいことなど、山のようにあった。
男としての自尊心が許さないものもある。
けれど、今のささやかな暮らしを失いたくない。
なので、半人前でちっぽけな男の見栄も、あってないような矜持も、自負心も、すべて捨てようと思った。
そうでもしなければ、オリガとわかりあえない。
ミハイルのほうこそ、努力をしなければならなかった。
ここでの暮らしは、都と違う。
ミハイルは、オリガに期待してもいいのだ。
二人で支え合い、協力して暮らすために、今まで以上にオリガを大切にして、頑張ろうとミハイルは思った。
◇◇◇
やっとのことで帰宅を果たす。
ミハイルは「はあ~」と長い安堵の溜息を吐いた。ふわりと、白い息が漂い、すぐに消えた。
怪我もなく、無事に帰って来られたことを、神に感謝した。
体はすっかり冷え切っている。
犬は小屋に、馬は厩に連れて行き、頑張ってくれたと労う。
その後、オリガと共に武器庫に銃とナイフを置きに行った。
一緒に手入れをして、外に出る。
二人共無言であった。
先ほどの抱擁を思い出して、気まずいという部分もある。
しかし、このままではいけない。そう思って振り返りながら声をかけた。
「よし、オリガ、風呂に入るぞ」
まずは体を温めなければ。
そう思って声をかけたら、角灯に照らされたオリガの表情は驚きに染まっていた。
「入らねえの?」
先に食事のほうがよかったのか。
ならば、そうしようかと言おうとした刹那、オリガは戸惑うような表情でとんでもないことを口にした。
「夫婦は、一緒に風呂に入るのだろうか?」
「は?」
オリガは勘違いをしていた。一緒にお風呂に入ろうと誘われたのだと。
ミハイルは大声で否定をする。
「そ、そういう意味で言ったんじゃねえよ」
叫ぶのと同時に、風呂場小屋の上に積もっていた雪が、ドサリと落ちた。
◇◇◇
風呂に入って、体は温まった。
時刻は夕食と言ってもいい時間帯であったが、オリガとミハイルは遅い昼食を取った。
スープを飲んでいると、体の芯まで温まる。
パンは少し硬すぎたか。若干、顎が疲れてしまった。
オリガはいつものとおり、美味しいと言いながら食べていた。
食後は食器を洗い、二人で手分けをして掃除をする。
いつもの日課であった。
今日は獲物の解体をしなくてもいいので、早い時間帯に暇を持て余す結果となった。
一日の仕事が終わったら、居間でのんびりと過ごす。
ミハイルはいつも薬師から借りた本を読み、オリガはナイフを研ぐ。
しかし、今日は違った。
ミハイルはオリガに声をかける。
「なあ、オリガ。話をしたい」
向かい合ったオリガに声をかける。コクリと頷いたので、隣に座るように、長椅子をポンポンと叩いた。
ミハイルの希望通り、オリガは隣に腰かける。
「話とは?」
「いや、まあ、うん……」
伝えたいのは、ミハイルのほしいものについて。
しかし、直接口にするのは、相当恥ずかしいものだった。
けれど、言わなければ。再度、すれ違ってしまい、今日みたいな騒ぎが起こる可能性だってある。
ミハイルは腹を括った。
「俺の、ほしいものについてだが……」
オリガはミハイルの膝の上にあった手に、自らの指先を重ね合わせた。
そして、優しい声で話す。
「二人で頑張って、手に入れよう」
「あ、いや、それは違うというか、そのとおりだというか」
「?」
オリガは首を傾げている。
ゴホン! と一度咳払いをして背中をピンと張ると、アイスブルーの美しい目を見ながら話しだす。
「俺が望んでいたのは――オリガの信頼だったんだ」
「え?」
「その、なんだ。もっと頼ってほしいとか、仕事を任せてほしいとか、悩みを相談してほしいとか、そういうやつ」
オリガは目を見開いて、驚いていた。
「これは金じゃ買えねえ。口にしたからといって、手に入るもんでもない。だから、言わなかったし、直接本人に言うのは、違うような気がして……」
「そうか。そう、だったのか」
なんとも言えない、気まずいような、気恥ずかしいような雰囲気となる。
ミハイルは顔を真っ赤にしながら、それを隠すように頭を抱えて唸るように言った。
「……忘れてくれ。今すぐに」
「いや、そんなことは」
ここで、オリガの思いも語られた。
「逆に私は、ミーシャに頼ったらいけないと思っていた」
「なんでだよ」
「私達を繋ぐのは、利害の一致という契約で、頼り過ぎたら、それが負担となってここを出て行ってしまうのではと、考えていた」
なので、ミハイルに毛皮の加工のすべてを頼もうとしなかった。
ただでさえ、炊事、洗濯、買い物に犬や馬の世話など、家のことはミハイルが完璧にこなしてくれるのだ。これ以上望むものはないと。
「俺、他の毛皮の加工はしなくてもいいと言われた時、突き放されたように思ってしまったんだ」
「そんなつもりはなかった。ミーシャは十分、頑張っていたから、これ以上望むのは、我儘だと思ったから」
「これも、聞かねえとわからねえことだな」
「ああ。まさか、勘違いをされていたとは」
だから、二人の間には、会話が必要だった。
「俺、按摩の仕事を覚えて、一人前になって、家計も助けられるようになったら――」
オリガに言いたいことがある。
勇気を出して、そう告げた。
「それは、今言えることではないのか?」
ミハイルは頷く。
体も心も、未熟である今現在は口にできる言葉ではない。
きちんと成長したあとで、オリガに言おうと思った。
「悪いことじゃねえから。たぶん」
「わかった。楽しみにしていよう」
オリガの添えていた手に、ミハイルはもう片方の手を重ね合わせた。
こうして、夫婦はまた、新しい一歩を踏み出した。
これからは互いに信頼し、穏やかな毎日を過ごそう。
話し合い、決意を交わしたばかりなのに、想定外の事態が襲ってくる。
今日はいつも以上に風の強い日であった。ゴウゴウと音が鳴り、家を軽く揺らしていた。
それだけだったらよかったのだが――ふいに、突風のような荒々しい風が家の壁にぶつかってくる。
棚にあった皿は落ち、パリンと音を立てて割れた。
窓はガタガタと、激しく揺れている。
家は左右に揺れ、木材が軋めき合う。
オリガは素早く角灯の火を消した。それから、次なる行動に移そうとしたが――。
「危ねえ!」
長椅子から立ち上がろうとしたオリガを、ミハイルが腕を引いて抱き寄せ、覆いかぶさるような姿勢を取った。
丸太造りの家は、ミシミシと音を立てながら揺れる。
もう一枚、皿が棚から落ちて割れる。台所からも、同様の音が聞こえた。
しばらくすると風は止み、シンと静かになった。
ミハイルはオリガに声をかける。
「……オリガ、もう大丈夫、か?」
「……」
暗闇の中なので、目を凝らしてもオリガは見えない。
手探りで顔のある位置を探り、頬に触れた。
「おい、どうかしたのか?」
「ん、いや、平気だ」
「そっか」
安否の確認ができたので、オリガの上から退いて、テーブルの上にあったマッチを手に取る。
やすりにマッチの先端を擦り合わせて点火させ、角灯に火を灯した。
ミハイルはオリガを振り返る。
「なあ――」
声をかけようとしたが、いつもと様子が違ったのでぎょっとする。
オリガは長椅子に横たわった姿勢のまま、頬を赤く染めていた。
ここで、先ほど自分がしたことを思い出す。
オリガの行動を制し、力任せに押し倒したことを。
もちろん、救出が目的なので、恥ずかしく思うことは何もない。けれど、オリガが恥ずかしそうにしているので、ミハイルも照れてしまった。
幸い、お互いに怪我はなかった。
しかし、ホッとしたのも束の間のこと。
ドン! と音が鳴り、家が激しく揺れる。
パラパラと、土のようなものが天井から落ちてきた。
「二階か!?」
「ああ、みたいだ」
珍しく、返事をするオリガの声色にも、焦りが滲んでいた。
凄まじい物音は、二階部分から。居間の上にあるのは、ミハイルの寝室である。
いったい何が起きたのか。
一応、オリガは短銃を手に取り、ミハイルはナイフを握った。
慎重な足取りで階段を上がる。
オリガは寝室の扉に耳を寄せた。特に、物音はしていない。
ドアノブに手をかけたが、先ほどの衝撃で歪んでしまったのか開かない。
振り返るオリガに、ミハイルはコクリと頷いた。
オリガは扉から数歩離れ――左足を軸にして上半身を捻り、それを戻す勢いを足に込めて、渾身の蹴りを扉に与えた。
扉は破壊され、床に倒れる。
ミハイルはとんでもない蹴りだと驚いたが、それ以上にびっくりする事態が寝室に広がっていた。
家の外にあった木が強風で倒れ、ミハイルの寝室の窓を突き破り、寝台を破壊していた。
その様子を見て、ただただ瞠目する。
破壊された窓より、北風がピュウピュウと吹いていた。
「おい、これ、どうすんだ?」
「修繕を頼まなければならない」
建築関係の仕事は商人を介して依頼を出す。すると、数日後に派遣された大工がやって来る仕組みとなっていた。
「通いの商人、昨日来たばっかじゃん」
「そうだな」
つまり、数日間は寝室がこのままになる。ミハイルが眠る場所は、当然ながらなかった。
とりあえず、目の前の問題から目を逸らし、部屋を片付けることにした。
まず、木を縄で縛り、これ以上侵入させないようにする。なかなか大きな木なので、家を破壊しかねない。
「明日、村の男衆に頼み込んで、木を外に出すしかない」
「だったら、俺がロジオンと知り合いのおっさんに頼みに行って来る。五、六人いたら、木も抜けるだろ」
そんな頼もしい発言をするミハイルを、オリガはパチパチと目を瞬かせながら見ていた。
「なんだよ」
「いや、ミーシャはきちんと近所付き合いをしていたのだなと思って。そういうのはどうも苦手で……。冗談も、どういう風に返したらいいのかわからなくて……」
「いや、おっさん達、本当にしようもなくて、下品な話題でからかってくるから、オリガは相手にしなくていいと思う」
気にするなと、背中をぽんと叩いた。
その後、ガラスの破片を箒で掃き、窓から風が入らないよう、布を釘で打ち付ける。
オリガが蹴破った扉も、布で覆った。
これで、破壊された寝室の応急処置は完了となる。
ここで、先送りにしていた問題を口にした。
「なあ、俺、どこで眠ればいいんだ?」
布団は木に貫かれて、破れてしまった。寝台も真っ二つまでとは言わないが、それに近い形になっている。
「ミーシャ、一つ、提案なのだが」
「な、なんだよ」
オリガよりじっと見つめられ、ミハイルはなんとも言えない気分になる。
そして、提案はとんでもないものであった。
「寝室の修繕が済むまで、私と一緒に眠らないか?」
「え……一緒に眠るって、はあ!?」
ミハイルは顔を真っ赤にしながら狼狽した。
過去二回、オリガの部屋で休んだ記憶が甦り、恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
「い、いや、それは」
「駄目なのか?」
「ウッ……」
ぜんぜん、まったく、駄目ではない。一緒に眠ってもいいと許してくれるのは、むしろ嬉しい。
しかし、思うところもある。
「ミーシャどうした? 思うことがあるのならば、すべて話すと約束したのだろう? 嫌なら嫌と、理由と共にはっきり言ってくれ。そのほうが、腑に落ちる」
「い、嫌じゃねえけど」
一番気になっていたことを、訊ねてみた。
「また、俺のことを子ども扱いにして、ホイホイ気を許しているんじゃねえだろうな?」
問いただすと、オリガはフルフルと首を横に振った。
そして、弁解するように言う。子ども扱いはしていないし、ただの他人にもこういう提案はしないとも。
「だったらいいけれど」
しかし、オリガと眠るとなったら、いろいろと問題が生じる。
そういう中で、眠れるのか疑問に思った。
「問題とは?」
「男が女と眠って問題なことなんぞ、一つしかないだろう」
ミハイルにそう言われたオリガは顎に手を添えて、しばし考える人になる。
そして、言いたかったことに気付いたのか、しだいに頬を赤く染めていった。
「わかったか?」
オリガは気まずそうに、コクンと頷く。
「だったら、諦めて――」
「しかし、私はミーシャを寝かせるのが得意だ」
「……」
そうなのだ。オリガは、寝かせつけが上手い。
「そういう気持ちになる前に、眠ってしまえば問題ないだろう」
「本当に、そう思うか」
「ああ」
オリガは自信ありげな様子だった。
どうしてこうなってしまったのだと、ミハイルは頭を抱える。
「オリガ、そんな風に簡単に言うが、間違いが起こったらどうするんだよ」
「その前に、ミーシャを寝かせる」
それは、挑戦のように聞こえた。
アイスブルーの目は、絶対の自信の色に染まっていた。
「つーか、あんた、男について、よくわかっていないで言っていないか?」
「いや、きちんと教育は受けている。薬師の奥方が教えてくれた」
「そうかよ」
ミハイルは自棄になって、勝負を受け入れる。
「わかった。もしも眠るのに失敗したら――」
「ああ、好きにするといい」
二人は謎の勝負をすることになった。




