深まる理解
いろいろと作業をしていたら、あっという間に日付が変わるような時間帯となった。
ミハイルはオリガに眠ろうと声をかける――が、同時に、一緒に眠ることを思い出して盛大な溜息を吐く。
別に、嫌なわけではないが、本当に大丈夫なのかと、不安になった。
挙動不振なミハイルに、オリガは声をかける。
「ミーシャ、どうした?」
「いや、なんでもない」
態度はよそよそしいまま、のろのろと二階まで上がった。
綺麗に整えられた寝台には、枕が二つ並べてある。それだけで、胸がドクンと高鳴った。
酷く緊張していた。
ミハイルはオリガを振り返らず、素早くに寝台に入り、壁側を占領することにした。
オリガのほうを見ないように眠ったら問題はない。呪文のように言い聞かせながら横たわる。
毛布を頭から被り、すぐに眠るように努めた。
しかし――寝台に入ってから、ミハイルは眠れない時間を過ごす。
――落ち着かない!
そう叫びたいのを、ぐっと我慢する。
なぜかというと、布団にはオリガの香りが染み付いていたからだった。女性らしい、なんと表現していいのかわからないような、いい匂いである。
すぐ背後には、オリガが眠っている。なので、寝返りも打てない。
いったいどうすればいいのかと考えていると、背後より声がかかる。
「ミーシャ、眠れないのか?」
オリガの問いかけに、ミハイルは背を向けたまま首を横に振る。
「もう寝ているから、放っておけ」
寝ている設定なのに、返事をしてしまった。
オリガはミハイルの物言いにふっと軽く吹き出し、近くに接近する。
「寝返りを打たないと、体が疲れるだろう?」
そう言うと、壁側を向いていたミハイルの体を、正面に向かせる。
天井しかみえなかった視界に、オリガが入って来た。
結んでいない金の髪が、さらりと流れてきて、ミハイルの頬を撫でてくすぐったくなる。
やわらかく、絹のような美しい髪だ。花のような香りもする。
アイスブルーの目にじっと見つめられて、ハッと我に返った。
「な、何すんだよ!」
過剰過ぎる反応を見たオリガは、楽しそうに笑った。
「わ、笑うな!」
そう言ったものの、オリガの微笑みを見たミハイルは、心のどこかでほっとする。
針葉樹林の森で発見した彼女は、思いつめていて、暗く沈んでいた。
このように、笑顔を見せてくれて嬉しい。これから先も、どうか穏やかに、幸せな日々を過ごしてほしいと思った。
しかし、それは今晩の問題とは別である。
「俺のことは気にするな。先に寝ろ」
「いや、私はミーシャを寝かしつけなければ眠れない」
再度、ミハイルは体を回転させ、壁側を向く。すると、オリガが傍に寄り、髪の毛を梳くようにして撫で始める。
また、寝かせつけようとして!
そんなことを口にしそうになったが、やさしく撫でる手が心地よくて、瞼を閉じる。
オリガは低く囁くような声で、話しかけてくる。
「……針葉樹林の森は、怖かっただろう?」
村とは違う風の音、鬱蒼とした森、野生動物に見張られているのではないかという緊張感もあった。
恐ろしかったけれど、オリガが帰ってこないほうがもっと恐ろしかった。ミハイルはありったけの勇気を振り絞って、針葉樹林の森に踏み入った。
結果、猟犬のおかげで見つけることができたから良かった。だが、迷子になったり、肉食動物に出遭ったりしたらと思うと、ゾッとする。
「すまなかった。今日の私は、自分のことしか考えていなかった」
「そういう日もあるだろう」
「しかし……」
オリガも初めて一人で森に入った時は、恐ろしくて何もできなかった。その時の気持ちを思い出したら、申し訳なくて心が締め付けられると話す。
しかし、二人共無事だった。
「だからいいよ、別に」
「ミーシャはまた、そんなことを」
物事は結果がすべてであるという、ミハイルの考えをオリガは悲しいと言った。思ったことを、すべて教えてほしいと頼み込まれる。
「でも、そんなの、聞いていて面白いものでもないだろ?」
「そんなことはない。私は、ミハイルがどんなことを考えているのか、知りたいんだ」
ここで、ミハイルは思い出す。按摩を習っていることを黙っていたせいで、オリガを追い詰めてしまった。
恰好悪いとか、恥ずかしいとか、そういう考えは捨てなければならない。
そうでもしないと、わかり合えないのだ。
はあと、大きな溜息を吐く。
「愉快な話でもないが」
「聞かせてくれ」
ミハイルはポツリ、ポツリと話を始めた。オリガは真剣な表情で、ミハイルの話を聞く。
二人で身を寄せ合い、今日あったことを語る。
森の様子が恐ろしかったことを話すと、オリガは悲痛な表情となる。それから、慰めてくれた。
それだけで、心がすっと軽くなる。
正直な気持ちを語るのは恥ずかしいことでも、恰好悪いことでもなんでもなかった。
毎日弱音を吐くわけにはいかないが、日々、暮らす中で自分の中では消化しきれない感情も湧き上がる。
こういうことは、オリガに話をして、ゆっくりと受け入れたらいいのだと気付いた。
今日のことだけでなく、今までのことも話した。
怖かった話はもうないので、楽しかったことや、嬉しかったことを伝える。
そうこうしているうちに微睡み、いつの間にか寝入ってしまった。
◇◇◇
翌日。
カーテンより朝日が差し込む。
ミハイルは牛の鳴き声で目覚め、隣でぐっすり寝入っているオリガに視線を移した。
毛布は床に落ち、寝間着の裾が捲り上がっていて、すらりと長い脚が露わになっていた。
ミハイルは慌てて自分の毛布をかけ、声をかける。
動揺のためか、僅かに声が上ずってしまった。
「お、おい、起きろ! 俺はいろいろ準備をするからな!」
「う……ん」
オリガは疲れていたからか、眠そうにしている。
ミハイルは身支度を整え、朝食の準備に取りかかった。
生地を発酵させて作るパンケーキ――ブルヌイを作り、次に、マッシュルームを細かく刻んでクリーム状にしたチーズ、バター、塩胡椒などを混ぜて作ったペーストを作った。
イクラ代わりの、付け合わせである。ミハイルの節約レシピであった。
寝室の修繕費について考えたら、頭が痛くなる。
しかし、あのままにしておくわけにはいかなかった。
オリガが鶏の卵を持って戻って来た。
ちょうどブルヌイが焼き上がった頃なので、卵と山のように積み上がったブルヌイの皿を交換した。
今日は時間がないので、卵の調理法は話し合わずに、目玉焼きにする。
テーブルには焼きたてのブルヌイに、イクラ風マッシュルームのペースト、目玉焼きが並べられた。
二人は席につき。森の神へ祈りを捧げる。
まず、卵に塩胡椒を振って、白身部分を先に食べる。続いて、黄身を小皿に取ったブルヌイの上に置いた。ナイフの先端を黄色い部分に入れると、トロリと黄身が溢れてきた。
ブルヌイを一口大に切りわけ、黄身に絡めて食べる。
半熟の黄身は濃厚なソースのよう。
「半熟の目玉焼きって美味い……」
ミハイルはしみじみと呟く。
新鮮な卵は美味しい。ここに来て初めて知ったことであった。
オリガはその反応を見て、良かったと言って微笑む。
「一人暮らしでは鶏の卵を持て余していた。だから、そのように言ってくれて嬉しい」
鶏はどこの家庭でも飼育している。
その上、殻が割れやすく、運搬に向かないので、物々交換でも好まれない。
余った卵はどうしていたのか。聞いてみると、夕食が茹で卵だけの日などもあったらしい。
「偏ってんなあ」
「作れる料理の品目が少なかったから、仕方がなかった」
そもそも、なぜ持て余す量の卵を産む鶏を飼育していたのか。
「ラゥ・ハオが求婚ついでに、持って来るのだ」
鶏の他にも、羊、牛、犬など、どこからともなく現れて、オリガの家に置いていくのだ。
「あいつも、持て余していた家畜や犬を私に押し付けていたのだろう。迷惑な話だ」
そんな話をしながら、朝食の時間を終えた。
一時間半後。オリガは狩猟に出かける。
「無理すんなよ」
「ああ、わかっている」
ミハイルは外まで出てきて、オリガを見送る。
「あ、そうだ」
ポケットの中に入れたままのお菓子を、オリガへと差し出した。
布袋に入っていたそれは、卵で作ったクッキーである。
「朝食後、パパッと作ったやつ。材料混ぜるだけの、簡単なお菓子なんだけど」
卵黄と片栗粉、砂糖と牛乳で作った。
古くなった卵を消費するための、お手軽料理であった。
「卵黄だけのお菓子か。卵白はどうしたんだ?」
「それも、今からクッキーにする予定」
卵黄のみのクッキーと、卵白のみのクッキー。
卵黄のものはザクザク、卵白のものはサクサクと、食感が違うクッキーに仕上がるのだ。
「卵白のクッキーは崩れやすいから、家用」
「そんなお菓子があるんだな」
パン屋の奥方から習ったお菓子である。
「森の中で腹が減ったら食ってくれ」
「ありがとう、ミーシャ」
オリガはミハイルのお手製クッキーを、腰のベルトに括りつけていた。
ライフル銃を背負い、準備は万端となる。
見送りをしたあと、ミハイルは昼食の準備をして、ロジオンの店に向かった。




