オリガの空回り
ミハイルは家の中に戻り、オリガに手紙を書く。帰るのが遅いので、森に探しに行くと。
手紙はテーブルの上に置き、懐中時計を重石にした。
次に、外に出て武器庫へ向かう。
ナイフを二本、手に取ってベルトに差し込み、それから空気銃を手に取った。
以前より、オリガに使い方を教わっていた。
空気銃は長距離用の銃の中でも一番威力が低い。小型動物しか仕留めることができないと習った。
しかし、何もないよりはいいかと思い、準備を行う。せっせと弾倉に弾を詰めた。
安全装置などを確認し、空気銃を背負う。
ずっしりと重みを感じ、額に汗が滲み出た。
とはいっても、そこまで重量があるわけではない。初めて森に足を踏み入れる緊張が、重圧として背中に感じているのだ。
基本的に野生動物は警戒心が強い。
襲って来るのは、偶然出遭った時が大半だ。そう、オリガは言っていた。
なので、ベルトに鈴を吊るすことも忘れない。
こちらが存在感を示していたら、襲われる確率はぐっと低くなる。
たまに、空腹状態で襲って来ることもあるが、それは稀らしい。
とにかく、出遭わないことを祈るばかりであった。
それと、猟犬を数頭連れて行くことにした。
ソリ犬とは違い、体は大きくないが、シカやクマも怖がらずに吠えかかり、時には獲物に咬み付いたりもする勇敢な犬だと聞いていた。それに、嗅覚にも優れているので、オリガの匂いがわかるかもしれない。
家からオリガの使っていた手巾を持ちだし、匂いを嗅がせる。
「おい、オリガの居場所、わかるか?」
垂れ耳の犬はワン! と吠えた。
その返事は、任せてくれと言わんばかりであった。
ミハイルは息を大きく吸い込んで、吐く。
冷たい空気が体に入り込み、咳き込みそうになったが耐えた。
腹は括った。
準備も万全。たぶん。
馬に跨り、ミハイルは針葉樹林の森へと駆けて行く。
◇◇◇
目の前に広がるのは、鋭く尖ったように生えるスギやマツの木々。
枝に雪が積もって凍り、樹氷と化している。
ミハイルの心臓はドッドッドッと、激しい鼓動を打っていた。
村の木々の様子とはまったく違い、隙間なく生えるさまは鬱蒼としていて薄暗い。
それに、野生動物に見張られているような気がして、落ち着かなかった。
額より、汗が伝ってくる。
暑いわけではないのに、汗ばんでいた。
それを自覚したら、酷く体が冷えているような気がして、ぶるりと震えた。
先導する猟犬は、くんくんと地面の匂いを嗅ぎつつ、迷いのない足取りで進んで行った。
冷たい風が吹き荒れる。いつものヒュウヒュウという音ではない。ボウボウと、不気味な音を立てていた。
それは、村の風よりも鋭く、冷たく、強かった。
オリガはこんな恐ろしい森に毎日狩猟に来ているのかと思うと、やるせない気持ちになる。
早く見つけて、家に帰りたい。
その一心で、捜し回る。
時計は持っていないが、一時間ほど走ったような気がする。
犬の足取りは止まらない。
一時間で帰ると言っていたのに、超過してしまった。
そろそろ切り上げたほうがいいのか。
オリガは家に戻っているかもしれない。
空は夕方みたいな茜色になっていた。すぐに太陽は沈んでしまうだろう。
もう、帰ろう。
少しだけ開けた場所に出て来たので、方向転換をさせようと手綱を操って馬を止めた――が、その瞬間に猟犬が走り出す。
「え、は? ちょ、ちょっと待て!」
ミハイルは馬の腹を足で打って合図を出し、走らせた。
犬は全力疾走する。
針葉樹の並木道を、ミハイルも馬と共に駆けた。
しばらく走っていると、ソリとソリ犬、そして――地面に蹲ったオリガの姿があった。
犬はミハイルを振り返り、ワン! と吠える。
オリガのもとに行かずに、その場で待機をしていた。
怪我をしたのか?
それとも具合が悪いのか?
ゾワリと、全身に鳥肌が立った。
早く確認をしなければ。
ミハイルは馬を停めて降りた。捜し出してくれた犬を褒めつつ、オリガのもとへと駈け寄る。
「オリガ!!」
目の前にしゃがみ込んで、問いかけた。
「どうしたんだ!?」
オリガはゆっくりと、顔を上げる。
ミハイルの顔を見て、さっと目を伏せた。
おそらく、犬や馬の姿を見て、ミハイルがやって来たことには気付いていたのだろう。
しかし、様子がおかしい。
悪戯がバレてしまった子どものような、決まりの悪い表情を浮かべていた。
ぎゅっと噛みしめたオリガの唇に血が滲んでいたので、慌てて指摘をする。
「おい、大丈夫なのか?」
「……」
先ほどから、オリガはミハイルのほうを見ない。
何か異変があるのかと思い、確認した。だが、怪我をしている様子はない。顔色は青白いが。
手袋もしていなかった。指先が震えているように見えて、ミハイルは両手でぎゅっとオリガの手を握り締める。
「具合が悪いのか? それとも、どっか打ったのか?」
「……別に、何も」
オリガはポツリと呟く。
手袋はどうしたのかと聞いたら、どこかに落としてしまったと答える。
ミハイルは自らの手袋を嵌めてやった。しかし、オリガはすぐに外そうとする。
「ミーシャが、寒いから」
「いいから」
ミハイルは手先の動きを、手を握って封じた。
どこも怪我をしていないし、具合も悪くないと言うので、オリガの手を引いて立ち上がらせる。
「帰るぞ」
手を引いたら、オリガはその場から動かない。
振り返ると、ふるふると首を横に振っている。
「いったいどうしたんだよ」
らしくない。まったくらしくない。
オリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァという女性は、常に行動に迷いがなく、冷静で、何をさせても手抜かりがなかった。
なのに、今は道端に捨てられた子猫のような、弱々しい表情をしていた。
ミハイルは再度、手を握りしめて、聞いてみた。
「何を思っているのか、言え。俺達の間に、隠し事はしないと、約束したばかりだろう?」
こんなところでゆっくり話を聞いている場合ではないことは重々承知していた。
しかし、オリガは様子がおかしかった。
理由はまったくわからない。なので、ここで聞こうと思ったのだ。
「オリガ」
一回。優しく名前を呼んだ。
すると、オリガは急にパチパチと瞬きをして、次の瞬間にはポロリと涙を零す。
「は!?」
オリガが泣き出したので、ミハイルは呆然とする。
どうすれば泣き止むのかわからなかったので、慌てて親指で涙を拭ってやった。
しかし、止まることなく、流れ続ける涙。
「な、なんなんだよ」
「すまない」
震える声で、オリガは謝罪する。
そのわけは、ささいなものであった。
「き、今日は、何も、狩れなくて……」
「はあ!?」
ミハイルがそんな声を上げると、オリガは余計に涙を零した。
「いやいやいや、違う! 何も狩れなかったことを責めているわけじゃねえ!」
泣くほどのことではない。
今までだって、そういう日はあった。
ただし、片手で数え切れるほどであったが。
ミハイルは顔を逸らそうとするオリガの頬を両手でそっと包み込み、問いかける。
「まさか、獲物が狩れなかったから、ここでぼんやりしていたんじゃねえよな?」
「……」
まさかのまさかだった。
「そんな風に落ち込むことでもねえだろ」
「だが、頑張って獲物を狩らないと、ミーシャの、欲しい物が、買えないから」
「は?」
「これから、禁猟期間が始まるし、それまでに、どうにかしなければと、焦っていたからか、手元が狂って、弾が当たらなくなって……」
まさかの事実に目を見開き、オリガを見る。
らしくない理由は、ミハイルにあった。
「俺、あんたにそれが欲しいとねだったか? 一回も、そんなこと言ってないだろう?」
ミハイルはキツネの毛皮では手に入らないものを望んだ。
だから、オリガは必死になって、狩りをしていた。
そもそも、ミハイルのほしいものは、『オリガの信頼』である。
毛皮との物々交換で、手に入るものではない。
ミハイルはもう一つ質問をする。
「そもそも、なんで俺のほしいものを気にしていた?」
「それは、とても女々しい、理由で……」
「いや、あんた女じゃん。それに、女々しいとか、今は関係ねえ」
気になるので、この場で言えと追及する。
オリガは気まずそうに目を伏せる。しかし、もう一度、ミハイルは言ってほしいと願った。
しばしの逡巡のあと、オリガは目を潤ませ、弱りきった顔で話し始める。
「……ミーシャが、私の家を出て行こうとするから、引き留めたい一心で」
「はあ? な、なんでそうなる?」
オリガはミハイルが薬師へ弟子入りすると聞き、これから独り立ちをしようとしているのだと、勘違いをしていた。
気まずそうにしながら、ポツリと呟く。
「私は父が亡くなってからずっと、独りで暮らしてきた。誰の手も借りず、狩りをして、なんとか生活してきた。別に、平気だった。寂しいとか、そういう感情はないと、思い込んでいた。けれど――」
一人になったら寂しい。
それが、最大の理由だった。
ある日、オリガはミハイルを森で拾った。
二人は利害の一致を経て、夫婦になった。
「楽しかったんだと思う。ミーシャとの、二人暮らしが」
淡々と毎日を過ごしていたが、ミハイルと出会って、結婚したあとは生活にも張り合いが出てきた。
家に帰ると、いつも灯りが点いていて、美味しそうな料理の匂いと共に、ミハイルが出迎えてくれる。
それが、どんなに嬉しく、幸せなことなのか、オリガは今まで知らなかったのだ。
「でも、そう思っていたのは私だけで、ミーシャはそうじゃなかった。ラゥ・ハオを追い返す役目を果たしたので、私のもとからいなくなると、思っていた」
それはとても悲しいことで、オリガはなんとしてでも、ミハイルを引き留めたいと考えていた。
「そうか。だから最近、あんなに大量に狩っていたのか」
オリガは以前よりも、たくさん獲物を狩って帰るようになっていた。
それは、禁猟を前にした備えだと思っていたが、違うことが判明した。
「人に、依存することは恐ろしい。身をもって、痛感した」
ミハイルは首を横に振って否定する。
「依存じゃねえよ。それは、支え合うってことだから」
ミハイルはオリガの思い込みを訂正した。
それから、肩を抱いて、身を引き寄せる。
「俺は、オリガのもとを離れることはしない。薬師のじいさんのもとに通っていたのは、家計の助けになればと思ってのことだった」
「!」
オリガの、ハッと息を呑む様子がわかった。
これは、一人前になったら言うつもりだったことで、半人前の身分で話すには恥ずかしいことでもある。
しかし、今言わなければ、オリガは勘違いをしたままになるので、きちんと思いを伝えた。
「だから、そんなに頑張るな。困ったことがあったら、二人で話し合って、どうにかしよう。これからは、ずっと」
ミハイルの言葉に、オリガはコクリと頷く。
まだ泣いているようだったので、このまま慰めたかったが、もう陽は沈みかけていた。
「オリガ、帰ろう」
ミハイルはそう、声をかけた。




