新しい一歩
薬師の家をあとにしたミハイルは、馬や犬と共に帰宅した。
馬にはおやつの砂糖の欠片を与えた。犬には干した肉を。
ミハイルは家に帰り、居間のテーブルに置いてある懐中時計を見た。
ちょうど、時刻は正午ごろ。
これは、オリガの父親の遺品である。この家にある唯一の時計だ。
一日に一回、ネジを巻く。
巻いて戻して、巻いて戻して。巻き終わると、カチッと音が鳴る。
耳元に近づけると、カチコチと歯車が動いている音が聞こえた。
この、懐中時計のネジ巻きも、ミハイルの仕事なのだ。
そろそろオリガが帰って来る時間なので、台所でスープを温める。
本日は『ソリャンカ』という、塩漬けのピクルス、オリーブなどをトマトの水煮と肉、キノコなどを一緒に煮込んだスープを作っていた。
おたまでぐるぐると混ぜながら思うのは、オリガについて。
収入が増えたら、もっと美味しいものを食べさせてあげられる。
そうなったら、きっと信頼も寄せてくれるに違いない。
仕事だって、いろいろ任せてくれるだろう。
ミハイルは確信していた。
ぼんやりしていたら、ぐつぐつと煮立っていたスープの汁が頬に飛び、ミハイルは叫ぶ。
「あ、熱っ!!」
それと同時に、オリガが帰って来る物音が聞こえた。
◇◇◇
昼食の時間は、カチコチと懐中時計の歯車の音が聞こえるほど静かで、なんとも気まずかった。
ミハイルは薬師に弟子入りするか否かで、頭の中がいっぱいだった。
一方で、オリガはミハイルが不機嫌に見えて、話しかけ難い状態となっていたのだが、当の本人は気付いていない。
食事を終えると、オリガが話しかけてきた。
「あ、あの、ミーシャ」
「ん?」
「今日は、このあとも狩りに出かける」
「は、なんでだよ?」
陽は傾き、そろそろ沈みそうな時間帯となっていた。
夜の森は野生動物が活発になり危険だ。絶対に足を踏み入れてはいけない。
そう、オリガ自身が言っていた。なのに、今から再度狩りに出かけると言う。
「危ないだろ。止めとけよ」
「しかし、春がきたらしばし禁猟になる。その間、その、収入がなくなるから、冬が終わる前に本腰を入れなければならない」
春は子育ての季節となる。そこから、毛の生え変わる夏まで、猟ができない時期がやってくる。これも、針葉樹林の森で暮らす者の暗黙の決まりであった。
「暗闇の中、肉食獣に出遭ったら、勝つ術なんてないだろう? 奴らは夜目が利くんだ。対峙した時、どちらが有利かというのは、わかりきっているだろ」
「……」
「今日だって、ウサギが七羽に、ライチョウが三羽。十分な結果じゃねえか」
「ああ、しかし」
「去年もそういうことをしていたのか? 暗い中、どれだけ獲れた?」
「いや、去年は行っていなくて」
「だったらなんで――」
ここでやっと、オリガが言いにくそうにしていたことをミハイルは察する。
養い手が増えたので、たくさん狩らなければならないと焦っているのだと。
頭を抱え、ぼそりと呟く。
「なんだよ、それ……」
気にしていた問題が、今この瞬間に浮き彫りになった。
オリガが危険な夜の森に行くことなど、あってはならない。なので、全力で阻止する。
「おい、今から狩りに出かけることは、許可できない。危険過ぎる」
「……」
「どうしても行くというのならば、俺を倒して、縛って、邪魔できないようにしてから行くんだな」
オリガはミハイルを倒すことなど、容易くできるだろう。
しかし、これ以外の妨害方法など思いつかなかった。
オリガは目を伏せ、そのまま黙り込む。
ポツリと、「狩りには行かない」と言った。
ミハイルはホッとする。
自分の意見を尊重し、言うことを聞いてくれたので深く安堵した。
オリガは話せばわかってくれる。
その事実は、とても嬉しいことだった。
しかし、問題は解決していない。
この瞬間に、ミハイルは決意を固めた。
◇◇◇
翌日から、ミハイルの節約料理が始まった。
パンは少しだけ堅めに作る。
咀嚼の回数が増えたら、いつもより少ない量でもお腹いっぱいになるような気がするのだ。
挽き肉の団子にはすり潰した豆をいれてかさ増ししたり、野菜の皮もスープに入れたり。
なるべく食費を浮かせるよう、料理にも工夫を凝らす。
都での貧乏生活の知恵が、ここで役立つとは思わなかった。
オリガはいつも通り美味しいと言ってくれるので、ひとまずホッとしている。
それ以外の変化は、薬師に弟子入りしたこと。
按摩について勉強する日々である。
手技と一言にいっても、揉む、叩く、押す、撫でると多岐に渡る。
これは、薬師が遊牧民より技法を習ったもので、都の医者は持ちえない技術だと話していた。
「按摩とは、筋肉や骨に力を与え。不調を緩和させる療法です」
ミハイルは薬師の教えを、必死になって頭に叩き込んでいく。
実技の練習には、ロジオンに頼み込んで行う。若いのに、肩の凝りや腰痛持ちだと以前話していたので、協力してもらった。
指導通りに施術をすると、腰の痛みがなくなったと、ロジオンは喜ぶ。
薬師は深く感心していた。
「ミーシャさんは筋がいい」
褒められて悪い気はしない。
にやけそうになったので、顔に力を入れて堪える。
薬師より、無事独り立ちしたら、オリガの家で按摩の施術を行う商いをしたらどうかと提案を受けた。
「え、いいのか?」
「ええ、ええ、どうぞ。そろそろ体が辛いので、引退を考えていたんです。オーリが反対したら、ここを使ってもいいのですよ」
オリガには薬師のもとで軽く勉強をしているとしか言っていない。
他人を家の中に入れたがらないような気もするので、反対される可能性もあった。
一人前になったら、話そうと思っている。
ミハイルが按摩の技術を得たら、禁猟時季の家計も安定するだろう。
薬師曰く、一日から二日に一件は依頼があると言っていた。青星の村人だけでなく、他所の村からもやって来るらしい。
一回につき、代金はリスの毛皮三枚。それだけ稼げたら、大したものだ。
「早く一人前になって、稼ぎたい」
「ええ、ええ、そうですね。オーリが楽になったら、嬉しいですよね」
ミハイルは薬師の言葉に、素直に頷いた。
そして、礼の言葉を口にする。
「先生、ありがとう」
「こちらこそ。一緒に頑張りましょう」
師と弟子は握手を交わす――が。
「痛ってえ!!」
薬師が力いっぱい、ミハイルの手の平を握ったのだ。
涙目でジロリと睨む。
「この、クソジジイ……!」
クソジジイ呼ばわりされても、薬師は楽しそうに笑っている。
油断するとこうやって、ミハイルをからかって遊ぶのだ。
「ここは合谷のツボといいまして、痛む時は疲れが溜まっている証拠ですね」
ゆっくり休むように言われた。
薬師の家を出て、背伸びをする。
ミハイルは達成感に満ち溢れていた。
もうすぐ、オリガを助けることができる。そう思ったら、嬉しくなった。
葦毛の馬はフフンと鳴きながら、不思議そうにミハイルを見ていた。
「おう、ルゥナ、帰るぞ」
ルゥナというのは月という意味の、ミハイルの馬の名前。額に、三日月模様があるのでオリガが名付けた。
オリガの葦毛にブチのある馬は、太陽という意味のあるソーンツェ。ルゥナにちなんで、ミハイルが考えた。
ルゥナに跨って、家に帰る。
針葉樹林の森は、まだまだ雪で真っ白。
しかし、もうすぐ春がやって来るらしい。
この厳しい森は、どのように変わるのか。ミハイルも楽しみにしている。
帰宅後は、馬の世話をした。
毛をブラシで磨き、水を与える。
犬、鶏、牛、羊の様子を覗いてから、家に入る。
休む暇などない。
まず、テーブルの上にある懐中時計のネジを巻き、そのあと昼食の準備に取りかかる。
とは言っても、朝から準備していたスープを温めるばかりであった。
ぐつぐつと、壺の中のスープが煮立つ。
今日はスープが跳ねないように、距離を置きながらおたまで混ぜる。
温まったので、テーブルにスープの壺を置いた。
椅子に座ってオリガの帰りを待つ。
いつもはミハイルがスープを温めている途中に帰って来るのに、今日はまだだった。
そわそわと落ち着かない気分になる。
居間の時計を見たら、いつもより三十分ほど遅い。
懐中時計を手にしたまま家を出て、階段に座って帰りを待つ。
カチコチ、カチコチと歯車が回る。
一時間経った。
今までこんなに遅くなったことはない。
オリガに何かあったのでは?
そんな考えが、脳裏に過ぎる。
森の奥に行くことは禁じられていた。
しかし、ミハイルは――。




