皇帝の至宝
ミハイルは「はあ~」と長い溜息を吐く。遊牧民の男が来た時の対処も聞いていなかった。
男は細い目をさらに細め、ミハイルの顔を覗き込んでくる。
「ん、ドウシタ?」
「悪いが今、オリガ・アンドレーエヴナはいない」
「狩りカ?」
「そうなんだよ」
これで帰ってくれと願ったが、そんなに簡単に引かない。
立ち止まったまま、じっと見つめられる。
「な、なんだ?」
「オマエ、ドウシテ、ここにイル?」
どうしようか迷った。
今、オリガの夫であると言うべきか、言わざるべきか。
「俺は――」
「ウッ!」
「ん?」
突然、目の前の男の体がぐらりと傾いた。
ミハイルに凭れかかり、全体重がぐっと押し付けられる。
「うわ、何、おま、っていうか、重い!!」
男の体を押し戻したら、そのままの勢いで背中から転倒する。
バタンと倒れた時、ミハイルは我に返った。
地に伏せたまま起き上がろうとしないので、焦ってしまう。
「お、おい、あんた、大丈夫か!?」
男は腹部を押さえ、体を丸めて身を縮めていた。
ミハイルは片膝を突き、男の顔を覗き込む。
額には、びっしりと玉の汗が浮かんでいたのだ。
「どうしたんだ、おい!」
大声で話しかけると、男はぼそりと呟く。
「――腹ガ、減ッタ」
「はあ!?」
倒れた理由は、とんでもないものだった。
◇◇◇
「美味イ、美味イ!」
家に上げた男は、ミハイルの用意した料理をどんどん平らげていく。
見ていて気持ちいいほどの、良い食べっぷりだった。
これでよかったのか。ミハイルは頭を抱え、考える。
男の名は劉浩と名乗った。
ら
「姓がラゥ、名がハオ、ダ」
「ら、らう」
「チガウ、ラゥ、だ」
「ら……う、クソ、言いにくいんだよ!」
どうにも、ラゥ・ハオと名乗る男の国の言葉は、発音しにくい。
ミハイルが苦戦する様子を見て、ラゥ・ハオは「哈哈哈!」と朗らかに笑う。
ハオは三つの国をまたいで旅する遊牧民で、馬と羊を率いて、各地を転々としていると話した。
さまざまな地域を回り、取引を持ちかけているのだと話す。
「色んな交易品、アル。絹織物、鉄製品、瑪瑙、珊瑚、琥珀、葡萄酒、香辛料、絨毯に煙草……」
定住せずに交易を繰り返し、それらの品々を遠くに運ぶことによって利益を得ている。
「狩猟はあまりシナイから、オリガはスゴイ。ホシイ」
タカにワシ、野生のウシにシカ、クマなど、手の届かない野生動物と遭遇することになる。
その毛皮は美しく、価値は高い。それに、その生き物は家畜を狙う脅威になる時もあった。
なので、一流の狩人であるオリガがいたら、安心な上に、野生動物も手に入る。
いいことだらけなのだと、ラゥ・ハオは語る。
オリガのために用意していた食事はラゥ・ハオがほとんど食べてしまった。
パンは残り一個。オリガの分に取ってある。
こうなったら、今度は酒とつまみを持って来て、酔い潰そうと思った。
どんどんカップを開けるラゥ・ハオ。ミハイルは酒を注ぐ。
しかし、どれだけ飲んでも、顔を赤くし、呂律が回らなくなる様子を見せない。
もしかして、ザルなのかと疑い始める。
葡萄酒の瓶が空になったので、今度は度数の高い酒を持って来た。
穀物とジャガイモから作られた蒸留酒、『ヴォートゥカ』。別名『命の秘薬』とも呼ばれる酒だ。
ミハイルは地下から一階に持って上がり、窓に瓶を透かす。
無色透明の酒で、少量口にしただけで舌が痺れ、喉は焼けるような熱を発し、キリキリと胃が痛む。
火傷したと錯覚するような強い辛口の酒で、ミハイルはあまり好きではなかった。
これならば、ラゥ・ハオをやっつけることができる。
一刻も早く潰してやろうと、花を生けるような大きく細長い器に注いで渡した。
ハオは『ヴォートゥカ』を見るなり大好物だと言い、ごくごくと一気に飲み干す。
「ぷはっ! ヤハリ、ここの酒ハ、ウォッカ、一番美味イ!」
その豪快な飲みっぷりを見て、ミハイルはようやく確信する。
この男は、とんでもない酒豪だと。
作戦は大失敗だった。
差し出された器に、うんざりしながらヴォートゥカを注ぐ。
ミハイルは、死んだ目をしていた。
「フウ。やっと、体が温マッタ。ヤハリ、ここの冬、最悪ダナ」
「うるせえ。みんな、一生懸命生きているんだよ」
「遊牧、寒いトコハ行かない。暖かい、場所、巡るカラ」
だったらなぜ、わざわざノコノコと冬の時季にやって来たのか。ミハイルは問い詰める。
「そうそう!!」
ラゥ・ハオは部屋から出て行った。
数分後、布に包まれた大きな荷物を抱えて戻って来る。
「な、なんだ!?」
「コレ、毛皮と交換シタイ!」
居間にズラリと交易品が並べられる。
一品一品、ハオは笑顔で紹介していった。
「ミャオ族の磁器。綺麗、外国デモ、人気! コレハ、シェイ地方の特産品で――」
なんでも、ラゥ・ハオの国の皇帝の婚儀が決まり、献上する毛皮を得るためにやって来たのだと話す。
袋から取り出した品を、どんどん並べていくので、そこまで広くない部屋はいっぱいになってしまった。
ミハイルは誰が片付けるんだよと、ぼやいている。
「アト、これはスゴイ、特別!」
厳重な様子で布に包まれていたのは、深い紫色に輝く、大粒の宝玉。
「なんだ、これは?」
「山藤玉」
「聞いたことがねえな」
大変珍しい宝石で、場所によってはダイヤモンドよりも価値が付く場合もあると、ラゥ・ハオはミハイルに語って聞かせる。
もしも、とっておきの毛皮があったら、交換しようと思っていたらしく、今回持って来た。
普段は厳重に保管されているという。
「特別な毛皮って?」
「ウ~ン、幻の、白イトラとか!」
それは先日、オリガがミハイルに与えた毛皮であった。
その昔、オリガの父親が狩ったという話を村人から聞いていたようで、ラゥ・ハオはずっと欲しがっていた。
「トラ、広大なタイガの王! コレホド、献上物に、相応しい品、シラナイ」
「なるほどな」
「デモ――」
「?」
ハオはにっこりと、笑顔でミハイルの顔を覗き込んだ。
「トラの毛皮ヨリモ、イイモノを、見ツケタ!」
「!?」
素早い動きで、ミハイルは口元を布で覆われる。
息をしたら、何かを吸い込み、視界がぼんやりと歪んで意識を失ってしまった。
◇◇◇
倒れる体をラゥ・ハオが抱き止めたが、その頃には物言わぬ人形のようになっていた。
瞼が閉ざされた見目麗しい少年の姿を見下ろし、ラゥ・ハオはにっこりと微笑む。
『極上の献上品を見つけた。男だが、十分過ぎるほど美しい。きっと、皇帝も喜んでくださるだろう』
寒くないよう、玄関にかけてあった上着をミハイルに巻きつけ、そっと優しく体を持ち上げる。
そして、オリガの家から立ち去った。
◇◇◇
オリガは狩猟から帰宅する。
今日はライチョウが七羽と大猟だった。
ミハイルは喜んでくれるか。オリガは口元にうっすらと笑みを浮かべながら帰宅する。
「――ん? どうした?」
犬の様子がおかしい。
そわそわと、落ち着かない様子だった。
家の塀はすぐ目の前に見えている。
オリガはソリから降りて、左手で腰のナイフを鞘から引き抜き、右手は銃を握った。
じっと、耳を澄ます。
ヒュウヒュウと風が吹く音しか聞こえない。
家に近づくにつれて、犬は落ち付きがなくなっていた。
キュウキュウ鳴いていたので、静かにするように命じる。
低い姿勢で近づき、背の高い塀で姿を隠す。
木と木の隙間から、内部を覗き込んだが――ハッと、息を呑んだ。
白い羊が二頭、鶏が十羽ほど放されていたのだ。
あれは、オリガの家畜ではない。
あのように、勝手に羊や鶏を持って来る者など、一人しか知らなかった。
オリガは塀の出入り口を蹴破って、中に入る。
「ラゥ・ハオだな!! 私の家に勝手に入るなと言っただろう!!」
力の限り叫んだ。
けれど、どこからも反応がない。
前にも一度、出かけている間に家に上がり込み、勝手に酒を飲んでいたことがあった。
その時はナイフを首筋に当て、次に同じことをしたら、頸動脈を切り裂くと脅していたのに、効果はなかったようだ。
ナイフと銃を握ったまま、家に入る。
人の気配は――ない。
そして、居間の様子を見て、ぎょっとする。
隙間なく並べられた交易品の数々。
間違いなく、ラゥ・ハオがやって来たのだと、確信する。
その上、テーブルの上の倒された酒瓶を見て、カッと頭に血が上った。
またしても、ラゥ・ハオはオリガの家に上がり込み、酒を飲んだのだ。
それだけではない。
スープの入った壺は空となり、朝から焼いたであろうパンは、くずしか残っていなかった。
まさか、ミハイルを脅して用意させたのでは?
推測し、ぐらりと眩暈を覚えた。
ここで、オリガは気付く。
「ミハイル!! ミハイル・イヴァーノヴィチ!!」
オリガは走って台所に向かった。ミハイルの姿はない。
地下にも、二階の寝室にもいなかった。
居間に戻ると床の上に、紫色に輝く宝石があるに気付いた。
それは、ラゥ・ハオが至宝と言っていた交易品の一つであった。
「――まさか!?」
この部屋にあるすべての品は、ミハイルと引き換えに置いて行かれた物ではないかと。
慌てて、屋根裏部屋の毛皮を確認に行く。
縄はしっかり巻かれ、施錠もされていた。
内部も、荒らされた気配はない。
ここで、オリガは確信する。
ミハイルは連れ去られたのだ。大量の、交易品と引き換えに。
オリガは、手にしていたナイフをぎゅっと握り締める。
浮かべた表情は――『猛虎』そのものであった。




