まさかの訪問者
遥か彼方まで続く針葉樹林の森。
木々には白い雪の花が咲き乱れている。
息を呑むほどの美しさだが、のんびりお花見と興じるわけにはいかない。
それは春の暖かな花ではなく、魅入っているうちに、吹く風が全身の血を凍らせてしまう。
そんな白銀の道を、オリガと二人、並んで歩く。
薬師――オレーク・エゴロヴィチ・ウヴァーロフは、都からこの青星の村へとやって来た。
奇しくも、オリガが生まれた年と同じ、二十五年前に。
これは、偶然なのか。
何かあって、オリガと共にこの地へと逃げて来たのではないのかと考える。
ウヴァーロフ家は王家とも繋がりのある一族だ。
その一員でもある薬師が、この村に来たのは必然か。
「なあ、あんたの親父って、薬師の親戚かなんかか?」
「わからない。血縁の付き合いはしていなかったが……」
幼い頃より、良くしてもらったことは確かだとオリガは言う。
「だったら、薬師じいさんとあんたの親父さんは一緒にこの地に?」
これも、わからないとオリガは首を横に振る。
「あまり、気にしたこともなかった。すまない。よく知らないんだ」
「そうか」
何かがおかしい。
薬師は重大な事実を握っているのでは?
ミハイルの勘はそう訴え、引っかかっていたが――オリガの問いかけによって頭の中が真っ白になった。
「それよりも、老師に何をもらったのか?」
「は!?」
想定外の質問を受け、ミハイルはその場に立ち止まり、みるみるうちに顔を真っ赤にさせる。
「どうした?」
「いや、別に大したものはもらってねえ」
「?」
適当に、元気になる薬だと言っておいた。
「元気になるだと? そんな薬、聞いたことがない。あったら、今頃父は……」
「え?」
「いや、なんでもない。老師にからかわれているのではないか?」
薬師は好々爺のように見えて、他人をからかって楽しんだりする悪い癖が出ることもあるのだと、オリガは説き伏せる。
「貸せ。その薬は私が預かっておく」
「え!?」
オリガは薬を渡せと、手を差し出してくる。
「どうした?」
「いや……」
「しっかり肉を食べて、夜ぐっすり眠れば、健康を害することなどない」
困った事態となった。
しかし、媚薬など持っていても仕方がないので、どうでもいいと思って渡した。
「まったく、初対面だというのに、老師はしようもないことをしてくれる」
「……」
オリガは薬の入った革袋を握りしめ、眉間に皺を寄せて険しい顔をしている。
アイスブルーの目は、今まで見た中で一番冷え切っていた。
「尊敬できる人物なのだが、若者をからかうことに、人生を懸けている困った一面もあって――本当に、しようもない」
薬師がしようもないことをしたことに間違いはなかったので、そのまま言わせておいた。
◇◇◇
その後、オリガは狩りに出かけた。
今日の獲物はライチョウ。罠を仕掛けているので、確認に行くと言っていた。
留守番をするミハイルは、やっと完成したリンゴと干しブドウの酵母を使って、白パンを作る。
頭には三角巾を巻き、手を洗って腕まくりをする。
まず、二種類の小麦と塩、酵母を木べらで混ぜる。全体がボソボソになったら、手でなめらかになるまで捏ねた。
生地を丸めて布に包み、ペチカの近くで二時間ほど寝かせておく。
拳大の生地が五つ。これが、発酵すると倍以上に膨らむのだ。
パンの発酵を待つ間、スープとメインの料理作ることにした。
まず、かまどの上に壺を置き、中に水を入れて沸騰させる。
香草で臭い消しをしたあと炒めたシカ肉を入れて、灰汁を取りつつじっくり煮込む。
その後、キャベツの発酵漬けと炒めたジャガイモ、タマネギ、トマト、キノコの塩漬け、バターを入れてさらにグラグラと煮立たせる。
ミハイルはかまどの前に立ち、腕を組みながら壺を見守る。
ここに来て、初めて壺で料理をした。
鉄の鍋もあるが、壺で作ったほうが美味しいと気付いたのは、ここ最近の話。
具は均等に火が入り、素材の味が損なわれないような気がする。肉はやわらかく、野菜は素材の旨みをぎゅっと閉じ込めたまま、料理の形として完成するのだ。
もちろん、ミハイル個人の感想である。
コトコト煮込んでいたスープは、琥珀のような色合いとなる。
最後に、香辛料と塩胡椒で味を調えたら完成。
これは『シー』という、伝統的なスープだ。
スメタナをかけて食べる。
スープが完成したら、今度はパンの仕上げをする。
丸く成型し、鉄板に載せて二次発酵。生地に布を被せ、一時間ほど寝かせる。
もう一品。
一口大に切ったウサギ肉を串打ちし、かまどの火で炙る。
味付けは塩胡椒、柑橘汁とシンプル。
素材の味を楽しむ料理だ。
ウサギはオリガが狩ったもので、熟成させていたのでやわらかくなっていた。
最後に、二次発酵させていたパンを焼く。
拳大だった生地は、すっかり膨らんでいた。
焼く前に表面を軽く濡らし、十字の切込みを入れて、かまどで焼く。
十分ほどで、生地がパチパチと音を立てる。
パンが美味しく焼けたと、ミハイルに声をかけていた。
中を覗き込むと、表面は綺麗なキツネ色になっている。
手袋を嵌め、かまどから鉄板を出す。
ふわりと、台所が小麦の香ばしい香りに包まれた。
ミハイルにとって、半年ぶりの手作りパンである。
なんだか、瞼が熱くなってしまった。
ユスーポフ公爵家に捕えられ、欝々とした生活を過ごす中で、もう二度と、パンを焼くことなどないのだろうと思っていた。
けれど、状況は好転する。ミハイルは、逃げることに成功した。
あの時、なけなしの勇気を出して本当によかった。運が良かったのだと、自覚している。
野生動物にも襲われず、半ばヤケクソになって逃げ込んだ先で、オリガに拾ってもらった。
しかし、この先の将来、どうなるかわからない。悲観はしていないが、平穏が続くとも思っていない。
それに、まだこの地についてもわからないことばかりだ。
今は一生懸命できることをするしかなかった。つまり、毎日パンを焼いて、オリガの生活を支えることをすればいい。
頑張ろうと、自らを奮い立たせた。
そろそろお昼となる。オリガも帰って来る頃だろう。
たまに血塗れになっている場合もあるので、先に風呂に入るかもしれない。
浴槽に雪でも入れておくかと、外に出る。
玄関の扉を開けると――すぐ目の前に人がいて叫びそうになった。
ミハイルは目を丸くしながら、信じがたい気持ちで相手を見る。
玄関口に立っていたのは、背の高い男だった。
ミハイルと同じく黒髪で、艶やかな長い髪を一つに結んでいる。目も黒く、肌は浅黒い。年頃は二十歳前後か。
にこにこというよりは、へらへらとした様子で、ミハイルを見ている。
整った顔立ちをしているが、目は細く、鼻は低くて全体的に彫りが浅い。
草花の刺繍が入った真っ赤な丈の長い服は、初めて見る意匠であった。
襟を胸の前で合わせ、腰に帯を巻いている。頭の上には、四角い帽子を被っていた。
「ン~、ナンダあ、オマエ?」
男は片言の言葉で話しかけてくる。
それはこちらが聞きたい。ミハイルは思った。
服装から、青星の村の者でないことがわかる。
どういう反応をしていいのかわからず、パチパチと目を瞬かせていたら、男は想定外の行動に出る。
目の前に接近し、ミハイルの顔を覗き込み――。
「ヘエ~、オマエ、すんごいカワイイナ~」
そう言って、ミハイルの顎を指先でくいっと持ち上げたのだ。
その瞬間、全身に鳥肌が立って我に返る。
「――かわいいって、はあ? な、何すんだ! あ、頭おかしいんじゃねえの!?」
全力で男の手を払った。
そして、顔を真っ赤にさせながら叫ぶ。
「あんた、いったい誰なんだよ!」
意外そうに見開かれる男の黒い目。
ポツリと呟かれた一言も、ミハイルには想定外のことであった。
「ナンダ、男か?」
「なんだと思っていたんだ!」
「女の子」
「にゅい……な、なんだ?」
聞き慣れない言語だった。早口で、音すら拾えない。
男は扉に手を突き、ミハイルを見下ろしながら問いかけてくる。
「デ、オリガハ?」
「知り合いなのか?」
にっこりと、男は満面の笑顔で答えた。
「ウン。オリガハ、私ノ、妻となる女ダ」
発言を聞いた瞬間、くらりと眩暈を覚えた。
ここで、そういえばと思い出す。
オリガがミハイルに結婚の契約を持ちかけた理由を。
目の前のこの男こそ、オリガに付きまとっていた、遊牧民の長だった。




