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9/12

第9話 SS9 残光、十勝の空に。

1

 LEG2。ラリー最終日。

 午前中の音更おとふけ周辺は、昨夜の豪雨が残した深い泥濘ぬかるみに沈んでいた。

 サービスで継ぎ接ぎだらけになったピンクのヤリス。だが、陽葵の心に迷いはなかった。


「陽葵さん、全開ですわ。……これまでの全てを、今日の一日に!」

「了解です、麗華さん。……行きます!」


 スタートシグナル点灯。陽葵は、異次元の感覚を解き放った。

 音更のステージは、砂利と泥の層の下に硬い路面が隠れている。紗季から叩き込まれた「路面との対話」――タイヤが泥を掻き分け、その下のグリップを掴む一瞬の『手応え』を、陽葵は指先だけで感じ取っていた。

 壊れかけの足回りが悲鳴を上げる。コーナーのたび、歪んだフレームが軋む。だが、陽葵は恐怖をねじ伏せ、さらに右足を深く沈めた。

「L4 long 砂利に乗らないで!」

「わかってます!……ここっ!」

 陽葵はカウンターステアを当てるのと同時に、深く掘れた轍にタイヤを添わせる。サイドミラーが熊笹の葉を掠める。泥飛沫スプラッシュで視界がゼロになるたび、麗華の正確無比なコールが陽葵の「目」となった。

 

 ストップコントロールの掲示板。刻まれたタイムは、ワークスの凛を凌駕するクラスベスト。

 差は、コンマ数秒。勝負の行方は、夕暮れの北愛国スーパーSS(SSS)へと持ち越された。


2

 夕刻。十勝の空は劇的な晴れ間を見せていた。雨に洗われた空気は澄み切り、日高山脈の連なりに深いオレンジ色が伸びていく。

 北愛国特設コース。二台のラリーカーが同時にスタートし、立体交差を交えて並走するスーパーSS。観客席を埋め尽くす無数の視線すべてが、今、この瞬間に注がれていた。


 隣のレーン。純白のTGRヤリス、冴木凛。凛はヘルメット越しに、真っ直ぐ陽葵を見据えた。

「……認めてあげるわ、成瀬陽葵。貴女は最高のラリーストよ」

 一拍。

「だからこそ――全力で叩き潰す!」

 陽葵は、不敵に笑った。

「望むところです、凛さん!」


 スタートシグナルが点灯する。

 ――ドォォン!!

 二台のヤリスが、同時に赤土を跳ね上げた。観客の歓声が爆発する。


 だが、陽葵の世界からは、そのすべてが消えていた。聞こえるのは、エンジンの咆哮。そして、自分の鼓動。

(……行ける)

 壊れかけのフロントがわずかに震え、継ぎ接ぎの足回りが微かな遅れを伴って路面を掴む。それでも、陽葵はそのすべてを知っていた。昨晩の四十五分。泥まみれの手で仲間たちが繋ぎ止めてくれた、このマシンの癖を。


「Jump! そのままフラット!」

「はい!」

 二台が同時にジャンプスポットへ進入し、宙へ舞う。一瞬の無重力。

 着地。凛のヤリスは寸分の狂いもなく理想のラインへ収束する。計算し尽くされた、美しい軌跡。

 だが、陽葵はさらに踏んだ。歪んだフレームが悲鳴を上げてもアクセルを戻さない。この車は、行ける。


 立体交差を抜け、最終コーナーが迫る。

 凛はアウト側。速度を殺さない、最適解のライン。

 対する陽葵は、イン。本来なら選ばない、限界のさらに内側。

「……今ですわ、陽葵さん!!」

「はい――!!」

 ステアリングを切り込み、リアが滑る。鋭いカウンターと共に、アクセルを床まで踏み抜いた。タイヤが泥を掻きむしり、前へ、前へとマシンを押し出す。


 二台が並ぶ。完全な並走。凛の存在がすぐ隣にあった。だが、陽葵は見ていなかった。見ているのは、ゴールだけ。

「あぁぁぁぁっ!!」

 エンジンが咆哮を上げ、二台はほとんど同時にチェッカーフラッグの下へ飛び込んだ。

 

 静寂。そして、電光掲示板が結果を表示する。

 わずか、半身。

 ピンクのヤリスが、先にゴールを駆け抜けていた。最終結果――コンマ一秒差。陽葵と麗華の名前が、リザルトの頂点に刻まれた。


3

 最終サービス。

 北旺大自動車部のテントに、地鳴りのような歓喜の咆哮が上がった。

 真っ先に駆け寄ったのは、泥だらけの紗季と、目に涙を浮かべた鉄平だった。

「陽葵! あんた、最高や! 最高の結果、書き上げよったな!」

 紗季が陽葵を力一杯抱きしめる。陽葵も、オイルと泥の匂いが染み付いた紗季のツナギに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。


 最後の十五分サービス。メカニックたちは誇らしげに、つぎはぎのヤリスに付いた泥を拭い去っていく。露わになったパステルピンクの塗装には、無数の傷と補修テープ。それは、どんな新車よりも美しい、彼女たちの「勲章」だった。


 パルクフェルメ(車両保管場)。タイムチェックを終え、先にマシンを降りていた麗華の前に、冴木凛が歩み寄ってきた。

 凛は静かに右手を差し出す。


「……負けたわ。あのボロボロのマシンで、あんな無茶なライン……計算外よ。相変わらずのお嬢様ね――おめでとう、桜華女子大チーム」


その言葉には、ワークスドライバーとしての悔しさ以上に、旧知の相手へ向けるような複雑な響きが混じっていた。

 麗華は、かつて別の場所で何度も交わした時と同じように、その手をしっかりと握り返す。


「ありがとうございます。……貴女という壁がなければ、私たちはここまで来られませんでしたわ」


交わした言葉は最低限だった。だが、二人が握り合った手の先には、他人には踏み込ませない年月と、ラリーという戦いの中で再び交差した奇妙なえにしが、静かに、けれど確かに熱を持って宿っていた。


4

 表彰式。

 夕陽に照らされたポディウム(表彰台)には、上位三台のマシンとスタッフたちが誇らしげに並んでいた。


 シャンパンファイトが始まる。

 麗華の財力で用意された、とびきり高価なシャンパンが十勝の空に舞う。

 陽葵は、隣でびしょ濡れになって笑う凛や、下で見守る紗季、鉄平、自動車部の面々、そして隣に立つ麗華の顔を見た。

(お洒落なカフェに行きたかっただけなのに……)

 手にしたトロフィーの重み。鼻を突くオイルと泥の匂い。それは、どんなスイーツよりも甘く、どんなドライブよりも刺激的な、陽葵が見つけた「最高の日常」だった。


「……陽葵さん、次は全日本選手権、全戦エントリーですわよ?」

 麗華が耳元で、悪魔のような、しかし愛おしい微笑みを浮かべて囁く。

「えぇぇ!? 麗華さん、私、普通の女子大生に戻りたいんですけどぉぉ!」


 十勝の風に乗って、陽葵の叫び声が響き渡る。

 パステルピンクのヤリスの物語は、まだ始まったばかりだ。


※ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

今後もブックマークや下の「☆☆☆☆☆」から評価をいただけると、桜華女子大自動車部、陽葵たちのこれからの挑戦を見守っていただけると嬉しいです。

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