第9話 SS9 残光、十勝の空に。
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LEG2。ラリー最終日。
午前中の音更周辺は、昨夜の豪雨が残した深い泥濘に沈んでいた。
サービスで継ぎ接ぎだらけになったピンクのヤリス。だが、陽葵の心に迷いはなかった。
「陽葵さん、全開ですわ。……これまでの全てを、今日の一日に!」
「了解です、麗華さん。……行きます!」
スタートシグナル点灯。陽葵は、異次元の感覚を解き放った。
音更のステージは、砂利と泥の層の下に硬い路面が隠れている。紗季から叩き込まれた「路面との対話」――タイヤが泥を掻き分け、その下のグリップを掴む一瞬の『手応え』を、陽葵は指先だけで感じ取っていた。
壊れかけの足回りが悲鳴を上げる。コーナーのたび、歪んだフレームが軋む。だが、陽葵は恐怖をねじ伏せ、さらに右足を深く沈めた。
「L4 long 砂利に乗らないで!」
「わかってます!……ここっ!」
陽葵はカウンターステアを当てるのと同時に、深く掘れた轍にタイヤを添わせる。サイドミラーが熊笹の葉を掠める。泥飛沫で視界がゼロになるたび、麗華の正確無比なコールが陽葵の「目」となった。
ストップコントロールの掲示板。刻まれたタイムは、ワークスの凛を凌駕するクラスベスト。
差は、コンマ数秒。勝負の行方は、夕暮れの北愛国スーパーSS(SSS)へと持ち越された。
2
夕刻。十勝の空は劇的な晴れ間を見せていた。雨に洗われた空気は澄み切り、日高山脈の連なりに深いオレンジ色が伸びていく。
北愛国特設コース。二台のラリーカーが同時にスタートし、立体交差を交えて並走するスーパーSS。観客席を埋め尽くす無数の視線すべてが、今、この瞬間に注がれていた。
隣のレーン。純白のTGRヤリス、冴木凛。凛はヘルメット越しに、真っ直ぐ陽葵を見据えた。
「……認めてあげるわ、成瀬陽葵。貴女は最高のラリーストよ」
一拍。
「だからこそ――全力で叩き潰す!」
陽葵は、不敵に笑った。
「望むところです、凛さん!」
スタートシグナルが点灯する。
――ドォォン!!
二台のヤリスが、同時に赤土を跳ね上げた。観客の歓声が爆発する。
だが、陽葵の世界からは、そのすべてが消えていた。聞こえるのは、エンジンの咆哮。そして、自分の鼓動。
(……行ける)
壊れかけのフロントがわずかに震え、継ぎ接ぎの足回りが微かな遅れを伴って路面を掴む。それでも、陽葵はそのすべてを知っていた。昨晩の四十五分。泥まみれの手で仲間たちが繋ぎ止めてくれた、このマシンの癖を。
「Jump! そのままフラット!」
「はい!」
二台が同時にジャンプスポットへ進入し、宙へ舞う。一瞬の無重力。
着地。凛のヤリスは寸分の狂いもなく理想のラインへ収束する。計算し尽くされた、美しい軌跡。
だが、陽葵はさらに踏んだ。歪んだフレームが悲鳴を上げてもアクセルを戻さない。この車は、行ける。
立体交差を抜け、最終コーナーが迫る。
凛はアウト側。速度を殺さない、最適解のライン。
対する陽葵は、イン。本来なら選ばない、限界のさらに内側。
「……今ですわ、陽葵さん!!」
「はい――!!」
ステアリングを切り込み、リアが滑る。鋭いカウンターと共に、アクセルを床まで踏み抜いた。タイヤが泥を掻きむしり、前へ、前へとマシンを押し出す。
二台が並ぶ。完全な並走。凛の存在がすぐ隣にあった。だが、陽葵は見ていなかった。見ているのは、ゴールだけ。
「あぁぁぁぁっ!!」
エンジンが咆哮を上げ、二台はほとんど同時にチェッカーフラッグの下へ飛び込んだ。
静寂。そして、電光掲示板が結果を表示する。
わずか、半身。
ピンクのヤリスが、先にゴールを駆け抜けていた。最終結果――コンマ一秒差。陽葵と麗華の名前が、リザルトの頂点に刻まれた。
3
最終サービス。
北旺大自動車部のテントに、地鳴りのような歓喜の咆哮が上がった。
真っ先に駆け寄ったのは、泥だらけの紗季と、目に涙を浮かべた鉄平だった。
「陽葵! あんた、最高や! 最高の結果、書き上げよったな!」
紗季が陽葵を力一杯抱きしめる。陽葵も、オイルと泥の匂いが染み付いた紗季のツナギに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
最後の十五分サービス。メカニックたちは誇らしげに、つぎはぎのヤリスに付いた泥を拭い去っていく。露わになったパステルピンクの塗装には、無数の傷と補修テープ。それは、どんな新車よりも美しい、彼女たちの「勲章」だった。
パルクフェルメ(車両保管場)。タイムチェックを終え、先にマシンを降りていた麗華の前に、冴木凛が歩み寄ってきた。
凛は静かに右手を差し出す。
「……負けたわ。あのボロボロのマシンで、あんな無茶なライン……計算外よ。相変わらずのお嬢様ね――おめでとう、桜華女子大チーム」
その言葉には、ワークスドライバーとしての悔しさ以上に、旧知の相手へ向けるような複雑な響きが混じっていた。
麗華は、かつて別の場所で何度も交わした時と同じように、その手をしっかりと握り返す。
「ありがとうございます。……貴女という壁がなければ、私たちはここまで来られませんでしたわ」
交わした言葉は最低限だった。だが、二人が握り合った手の先には、他人には踏み込ませない年月と、ラリーという戦いの中で再び交差した奇妙な縁が、静かに、けれど確かに熱を持って宿っていた。
4
表彰式。
夕陽に照らされたポディウム(表彰台)には、上位三台のマシンとスタッフたちが誇らしげに並んでいた。
シャンパンファイトが始まる。
麗華の財力で用意された、とびきり高価なシャンパンが十勝の空に舞う。
陽葵は、隣でびしょ濡れになって笑う凛や、下で見守る紗季、鉄平、自動車部の面々、そして隣に立つ麗華の顔を見た。
(お洒落なカフェに行きたかっただけなのに……)
手にしたトロフィーの重み。鼻を突くオイルと泥の匂い。それは、どんなスイーツよりも甘く、どんなドライブよりも刺激的な、陽葵が見つけた「最高の日常」だった。
「……陽葵さん、次は全日本選手権、全戦エントリーですわよ?」
麗華が耳元で、悪魔のような、しかし愛おしい微笑みを浮かべて囁く。
「えぇぇ!? 麗華さん、私、普通の女子大生に戻りたいんですけどぉぉ!」
十勝の風に乗って、陽葵の叫び声が響き渡る。
パステルピンクのヤリスの物語は、まだ始まったばかりだ。
※ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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