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第8話 SS8 ヤムワッカの試練、執念の四十五分

1

 十勝の山のカムイは、残酷なまでに気まぐれだ。

 陸別サーキットでの快勝に沸いた午前が嘘のようだった。

 午後の「ヤムワッカ」と呼ばれる林道SS周辺は、バケツをひっくり返したよう土砂降りに見舞われていた。


 先行するTGRワークス、冴木凛の純白のヤリス。

 激しく叩きつける雨の中、ワイパーは最高速で駆動し、フロントガラスを流れる濁流を必死に押し流していた。

「……川ね。これじゃあタイヤが浮くわ」

 冷静さを装いつつも、凛の指先はステアリングを握りしめている。時速160kmの超高速域で襲いかかるハイドロプレーニング現象。精密な彼女の計算ですら、この自然の暴威の前には狂いが生じ始めていた。

 ふと、ミラーに映るはずのない、あのパステルピンクの影が、脳裏をよぎる。

(……あの子たちは、大丈夫かしら。こんな道、お嬢様ごっこじゃ落ちるわよ)

 それはライバルへの侮蔑か、あるいは同じ道を往くドライバーとしての、無意識の危惧だった。


2

 その数分後、ヤムワッカの深い森を、狂気の咆哮が切り裂いた。

 パステルピンクのヤリスが、雨に濡れた白樺のトンネルを「ピンクの流星」となって突き進む。巻き上げられる凄まじい水飛沫が、後方に真っ白な尾を引く。視界は水のカーテンに遮られ、数十メートル先すら定かではない。時速一六〇キロ。路面の砂利は雨で流され、剥き出しになった粘土層がスケートリンクのように牙を剥く。


 陽葵の指先は、ステアリングから伝わる「路面の断末魔」を必死に感じ取っていた。

 タイヤが水を切り裂く「シャーッ!」という音と、フェンダーの中で泥が爆ぜる音が、マシンの振動と共に全身を震わせる。

(怖い……。でも、アクセルを戻したら、この『線』が途切れてしまう!)

 白く霞む白樺の幹が、両側から迫る壁となって陽葵を飲み込もうとする。だが、その圧迫感すら、今の陽葵には加速のためのスパイスに過ぎなかった。蘭越での恐怖は、すでに彼方へ消え去っていた。


「200, Flat over Bridge! FlatOut! そのまま陽葵さん!」

 麗華の冷静な叫びがインカムで割れる。

 普通なら、右足を戻す。ブレーキに足を乗せる。それが「生物」としての正しい防衛本能だ。だが、陽葵の右足は床に張り付いたまま離れない。

「……信じてる……麗華さんを信じてる!」

 一寸先も見えない白銀の世界。ハイドロプレーニングでステアリングの感触がフッと消える。ヤリスが四輪とも路面から浮き、死の滑走を始める。それでも陽葵はステアリングを保持し、マシンの挙動が路面を掴むのを「待った」。


 だが、運命はさらに苛烈な試練を用意していた。

 水のカーテンの向こうから、巨大な影が音もなく飛び出してきた。

「……鹿っ!?」

 回避は本能だった。陽葵がステアリングを左に切った瞬間、ヤリスは濁流に足を奪われ、土手へと激突し、反対斜面の立ち木をなぎ倒しながら、泥の中を転転とした。


3

「……っ、陽葵さん! 生きていますか!」

「……は、はい。……でも、車が……」

 フロントはひしゃげ、右のヘッドライトは消失。だが、陽葵が躊躇する手でスターターボタンを押すと、304馬力の心臓は不格好な咆哮を上げながらも目を覚ました。

「走れますわ。行きましょう、陽葵さん! まだ、終わらせませんわよ!」


4

 夕闇の北愛国サービスパーク。

 陸別リモートサービスから紗季、鉄平たちサービスクルーは一足先に帯広に戻っていた。

 陽葵たちの帰還を待つ面々の前に、泥まみれでボコボコになったヤリスが這うように現れた。

「おい、マジかよ……」

 鉄平が絶句する。フロントガラスはクモの巣状に割れ、サスペンションには泥が詰まり、あちこちからオイルが漏れている。

 サービスクルーが告げるタイムリミットの声が、宣告のように響く。

「サービスタイム、残り四十五分です」


 通常なら半日はかかる重整備だ。絶望が周囲を支配しようとしたその時、ツナギ姿の紗季がエンジンフードを力任せに引き剥がした。

「何呆けっとしとんねん! 四十五分もありゃ、文学の一節くらい書き換えられるやろ! ここでやらな、北旺大自動車部の名折れや。意地見せんかい!」


5

 その瞬間、北旺大自動車部は「一つの生き物」へと変貌した。

 鉄平が指揮を執り、四人の部員が各輪に取り付く。

「左前のロアアーム、曲がってる! 予備と交換だ!」

「オイルクーラーに亀裂! バイパスさせて繋げ!」


 紗季も泥まみれになりながら、歪んだフレームに太いチェーンを巻きつけた。その先は、自身の愛車・エボIIIだ。

「陽葵! 麗華! あんたらは豚丼でも食って気合入れ直しとけ! この車は、うちらが必ず明日へ繋いだる!」

 ドォォォン! とエボIIIが吠え、チェーンが悲鳴を上げる。車でフレームを引き戻す――ラリー現場の荒技だった。

 ハンマーが金属を叩く音、インパクトレンチの咆哮。


 麗華は実家からの「援助打ち切り」という重圧を胸に秘め、無言でメカニックたちにスポーツドリンクを配り歩いた。陽葵は、自分の過失でボロボロになったヤリスに触れ、その鉄の熱に震えた。

(……みんな、私達をまだ諦めてないんだ)


6

「残り、一分!」

 鉄平の叫びと同時に、全ての工具が地面に放り出された。

 補修テープも痛々しく、継ぎ接ぎだらけになったパステルピンクのヤリス。だが、その佇まいは、新車時よりも遥かに猛々しい「戦う機械」のそれだった。


 タイムリミット。陽葵は再び運転席に滑り込む。

「……鉄平さん、紗季さん……ありがとうございます」

「礼は明日や! ポディウムのド天辺で言え! 行け、陽葵!」


 紗季がひしゃげたドアをバン、と叩いた。

 パカパカと、不器用に揺れる右ライト。それは、全員の不屈の心を示す灯火のようだった。

 一日の終わりを告げるTCタイムコントロールへ向かうヤリスの背中を見送り、北旺大の面々は、その場に泥まみれで倒れ込んだ。


「やりますわね、みなさん」

「はい――、結果出します、麗華さん」


 明日、最終日。

 音更のハイスピードステージ、そして大観衆が待つ北愛国スーパーSS。

 残されたSSは少ないが、チーム全員が大逆転劇を信じている。

 戦いの舞台は、執念によって整えられた。


※続きが気になりましたら、ブックマークや下の「☆☆☆☆☆」から評価をいただけると、陽葵ひまりたちの挑戦を応援する大きな力になります!

桜華女子大自動車部の物語を、ぜひ最後まで見守ってください。

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