(112)退屈な曲のサビのようにリフレインし続けている
俺の知っている現実では、兄貴は確かに三年前に亡くなっていた。そしてここには新しい家族として銀四郎が迎えられた。その事を承知していたはずなのに、なぜか俺は三日前実家に帰って来た時からなんの疑問も持たずに死んだはずの兄貴と会話をしている。どこかでおかしいと思っているのに、もう一方では兄がいる事を当然だとも思っている。まるで自分の中に二人分の意識があるようだ。しかし、昨日までの俺はその違いすら認識出来ていなかった。おそらくそれは(結界)が何かしらの作用をしていたからだろう。例えば、ある国が情報を操作して自国の悪行や負の歴史を隠遁する事がよくあるが、国民がその事に気づいていないのであれば、それはある意味では指導者達が作った(結界)だとも言える。だが、現実を正確に認識出来ない事と、俺の世界が多重的に輻輳している事は別の話だ。
実際、昨日までの俺は世界という物は絶対的であり、一つだと考えていた。しかし沢口明菜の(文字通り体を投げうった)献身さによって、今、目の前の現実が枝分かれしている事に気づき始めている。この(気づかないように誤魔化されていた事)が結界の力なのだろう。外からここの土地に入ると(または住人だと)村にまつわる事や歴史を上手く認識できなくなるというのが結界の力だとして、それが長く住んでいる親やその上の世代の人々にまで影響しているのなら、灰色のドームと化したこのT市には、相当昔からその力が及んでいるという事だ。・・けれど兄貴が亡くなったのは三年前で、俺はその知らせを関東の自宅で聞いた。
仕事で海外にいたとは言え、葬儀に出られなかった事や、その時母親の傍にいられなかった事に俺は強い自責の念があった。そのせいで、実際その現場に居合わせたわけではないのに、工場での事故から兄貴を救う夢を今まで何度も見ている。夢は決まって工具が刺さりそうになる瞬間に、俺が兄貴の背後から「あぶない」と言って声をかけるのだ。・・それで助かる場合もあれば、助からない場合もある。つい最近もその夢を見た・・。
三年前、中東の事故で仕事仲間のライオネルを失い、帰って来ると兄貴は死んでいて、ほどなくすると今度は旧友のマツシタが死んだ。そうやってこの3年間、一人また一人と自分の身近な人間が亡くなっていく喪失感に耐えながら、俺は都会の片隅で孤独な時間を生きて来たのだ。その日々は間違いなく現実であって幻などではない。しかし今ここには、間違いなく二つの世界がある。それもまた事実だ。もしかしたら認識できていないだけでもっと複数の世界が存在しているのかも知れないが、少なくとも俺の目に映るこの二つの世界は俺個人の物で、結界やここの土地のどうのこうのというのとは関係ないはずだ。ただ単に個人的な物語が何らかのきっかけで分岐していて、どちらがメインストリームになるかという(揺らぎ)が発生してしまっているのではないだろうか?・・・。
もちろんその分岐を発生させた力の一旦が(結界)であるかも知れないが、それよりもこの一年ほどの間に俺の身に起こった様々な特殊な出来事や、(アレ)を持った強烈な人々に出会った事によるものではないかと、俺のジャーナリストの勘が言っている。何よりも職業上、常にリアリストで客観的であるようにと気を付けてきた俺が、この不可思議で不可解極まりない状況を、まるで普段取材しているいつもの仕事のように対処しようとしている。これは自分の認識の器が広がった証拠だろう。何かを新たに当然だと思う事によって、次に起こる出来事も変わってくるのだ。
・・目の前にいる母親は、まるで同じ行動を取り続けるゲームのキャラクターのように蜜柑を食べながらテレビ画面を見つめている。俺に興味がない事もいつもどおりだ。猫は傍にいない。しかし彼女に取っては撫でられる猫よりも、ほとんど帰って来ない兄貴が生きている世界の方が幸せなのだろう。・・・そういえば兄貴は?・・財布を取りに帰って来てからもう出かけたっけ?・・無言で外出する事も多いから出て行った事に気づかなったのか?・・・俺は立ち上がって廊下に出ようとした。すると開けた襖と俺の間から銀四郎がスルリと脇を抜けて入って来た。俺はなぜかその灰色の猫を抱き上げて居間を出た。
・・・そこからはよく覚えていない。気が付くと俺は、縁側に出て猫の首を掴んで庭の地面に押し付けていた。
銀四郎はギャーギャーと鳴き叫んでいる。引っ搔こうと必死に抵抗するが、後ろから掴んでいる俺の手に爪は届かない。
・・どこかでサイレンが鳴っている・・・遠いような近いような・・そうか・・・頭の中だ。そのサイレンはだんだんと脳の内側を揺らすほど大きくなり、音像をはっきりさせて言葉のように意味を形成する。そのせいで頭痛がするが、言葉を聞きとろうと意識を向けていくとこんなメッセージが頭蓋骨の中に響いてきた。
ー・・がいなくなれば・・ー
ー・・がいなくなればいいー
ー 猫がいなくなればいい ー
・・・そうか、猫がいなくなれば兄貴が戻ってくる。兄貴が戻れば母親も喜ぶ。その世界を俺の世界の本流にすればいいのか。
猫さえいなくなれば、誰もが平和な世界になる・・猫が完全にいなくなれば、兄貴は完全に存在する・・・。
すると自分が銀四郎を押さえつけている方とは逆の手の中に、何か細い物を握っている事に気がついた。それは玄関に積まれた蜜柑の段ボールの上に置かれていた工作用の黄色いカッターナイフだった。俺はそれを認識したと同時にほとんど無意識でチキチキチキ・・と不快な音をさせて長く刃を突出させた。
ー 猫がいなくなればいい ー
そのメッセージは頭の中で退屈な曲のサビのようにリフレインし続けている。延髄側から強く首を押さえつけられた銀四郎は徐々に声を出せなくなり、フーフーと吐息を発しながら土の地面を空しく足で掻き続けている。俺はそんな無抵抗な小動物の背中に鋭利な刃を向ける。背中から切りつけて、痛みもなく一刀両断に亡き者にするのだ・・・。
「おい」
その時、垣根の外側の、家と工場に繋がる私道の方から突然声がした。俺はとっさにそっちを向いて出所を探した。すると10メートルほど先から兄貴が俺の方をじっと見つめていた。
「カズヒコ、またオマエ罪もない者を殺すのか?」
・・俺は驚いて声も出なかった。・・・どうして兄貴がいるんだ!?ここに猫もいるのに?
そう困惑して力の緩んだ俺の手から銀四郎は素早く脱出し、縁側から家の中へと駆けて行った。見つめ返したまま返答しない俺に対して兄貴は何の感情も示さずにこう言った。
「今日の夕方、日が暮れたらあの店に来いよ。海江田さんがやってる店だ。わかるな?」
「あ・・ああ」
そして兄貴はまるで何事もなかったかのように工場の方へと歩いて行った。
・・・今、俺は一体何をしようとしていたんだ・・・猫を殺す?・・そんな事をして何になるんだ?・・・猫を消せば兄貴が残る?・・バカな・・・どういう理屈だ・・・俺は愕然として両膝を付き、持っていた刃物を落とした。・・どこが冷静なんだ・・・衝動的になって我を忘れているじゃないか・・・俺は自分の中に知らない自分がいた事に恐ろしくなって、唇を嚙みしめた。すると自然に両目から涙が溢れてきた。
自分の愚かさに打ちのめされながら、そこで新たな気づきが生まれた。・・・ああ、そうか・・沢口明菜はたしかこう言っていた。これからの世界では新たな3つ目の要素が生まれる、その為に私たち2人が協力するのだと。
猫がいる世界、兄貴がいる世界・・あたかも白と黒しか存在しないと、二元論のように俺が勝手に決めつけていたのだ・・この世界がそんな狭い可能性しかないわけがない。きっとそれ以外の、例えば、猫も兄貴も存在する世界もあるはずなのだ!
・・・頭を上げるとさっきまで鳴っていたサイレンはいつの間にか止まっていた。




