(113)複雑に思える事も沢山の単純な事が積み重っているだけ
しばらく俺は10ラウンドめの疲れ切ったボクサーのように縁側に腰かけ、漫然と時間を過ごした。
・・・物心がついた頃の昆虫を対象にした無邪気な殺傷以外、人生の中で何モノかを殺めようとした事は一度もない。それにジャーナリストになってからは戦時下の国々の取材を通して、無残にも奪われていく沢山の命の最後にも立ち会ってきた。そんな中で宗教理念も復讐も、根本的な殺人の動機にはなりえないという事を痛いほど感じてきた。じゃあ全て泣き寝入りが正解かと訊かれれば完璧な答えを提示できないが、間違った行動への反応が同じやり方ならそれも間違っているというのは、冷静になれば誰でも分かる事だ。だから例え家族を思っての手段だったとしても、自分が生物の命を奪おうとした事に俺は愕然とした。ましてやそれは、自分が親族の中で一番懐いていた祖父の名前、銀四郎を受け継いだ尊い猫なのに・・・。
・・・しかしそんな深い混乱と贖罪の気持ちの中でも、兄貴のあの言葉ははっきりと聴こえていて、耳の奥にこびりついていた。
「またオマエ、罪もないものを殺すのか?」
聞き間違いではない。確かに兄貴はそう言った。それは色んな角度からどう言葉を精査してみても、考えられる意味は一つしかない。
(俺は過去に誰かを殺した事があり、兄貴はそれを知っている)ということだ。
だがどう考えてみても、俺はそんな記憶を保持していない。今の俺の世界は確かに色んな意味で混沌としているし、どれが本当の現実なのかも分からないような状態だが、誰かを殺めていない事だけは神に誓って言える。無宗教だとしても。
仮に自分が気づかないうちにそんな蛮行を働いていたとして、もしその件で警察に逮捕されても、今の俺には泣きじゃくりながら醜く懇願して身の潔白を訴える事しかできないだろう。
結婚相手の親が大手を振って喜べるほど「私は常に日の当たる場所を歩いて来た人間です」とは言えないし、仕方なかったとはいえ仕事でも大小様々な汚い事をやった。女性にだっていつでも紳士的でいられたかと言われると、そういうわけでもない・・・しかし誰かを殺すような・・そんな過去が自分にあったとだけは、どうしても思えない・・・。
このミルフィーユのように重なった世界では、可能性だけを頼りに答えを出す事は危険だし、自分の見てきた事だけでは、確たる証拠にはならない。以前起きたマンデラ・エフェクトのように、一度決まった出来事の結果も簡単に覆る場合もある。同じリンゴでも違う角度から見れば、色味も違うだろうし、楽しんでいる人間と退屈している人間が、同じ時間の中にいるわけでもない。・・・落ち着こう・・複雑に思える事も大半は、沢山の単純な事が積み重っているだけなのだ・・・。
感情の高ぶりが治まってきた所で、俺はいくつか仮説を立ててみる事にした。
今の自分が認識できていないという事は・・・俺は足元に落ちていた小枝を拾い、数字を庭の茶色い地面に書きながら(兄貴の言葉の出所)について考えてみた。
「またオマエ、罪もないものを殺すのか?」とは・・・
1・・・それは覚えていないほど前の事か、覚えていないほどの些細な出来事(玩具や蚊などへの殺傷的行為)か・・・だとしたら今になってわざわざ蒸し返してまで言うだろうか?例えそれが兄貴に取って衝撃的な記憶だったとしても、さっき俺のやろうとしていた行為とは比べ物にならないはずだ・・×
俺は×にした1の横に2と書いた。
2・・・別の世界での過去(生きていないはずだった兄貴が生きている、このラインでのみ起きた出来事)・・しかし不思議なことに俺は、自分の歩んできた(と思われる)兄貴が死んだ世界の事も、新たに目の前に出現した兄貴が生きている世界の事も、両ラインとも過去から順を追うようにしっかりと記憶している。そもそも兄貴の死の前後には大差がない。だからこの(兄貴生存ライン)で兄貴が知っている事なら、俺も知っているはずだ。三つ目のラインの可能性はあるが、それは確定的ではないし・・×
俺はまた横に3という数字を書いた。
3・・・俺が全く感知出来ない、スピリチュアル的な過去。(例えば、前世などの生まれる前の出来事)・・なぜそれを兄貴が知っているかはわからないが、これぐらい突拍子もない可能性の方が、今は一番あり得るような気がする。しかしそれを指して「またオマエは殺すのか?」と言われても誰もが「知りません」と言うだろう・・・とりあえず×
次に4だ。
4・・・3に似ているが、沢口明菜のチェンジの力のような物で引き起こされた、この俺ではなく別の自分が行った行為。・・世界が複数存在するなら、俺自身も複数存在する可能性は当然ある。だが、この土地に戻って来てから俺が接触した人間は少ないし、その中で能力者らしい人物はと言えば実際には沢口明菜だけだ。(ノダさんは若干怪しいが・・)そして少なくとも沢口明菜は俺をチェンジしていないと言っていた。仮に誰かの能力で生まれた別の俺が殺人を行っていたとしても、それもまた知りませんと言うほかないだろう・・×
・・・そうやって俺は数字を地面に書き出しながら、思いついた可能性を一つ一つ自分自身でディベートして潰していった。それはパターン7まで考えられたが、結局どの仮定もしっくりはこなかった。兄貴が言った「またオマエ、罪もないものを殺すのか?」という文言は、ある種の不完全性定理のようにただ式だけが黒板に書き残されていた。
俺は最後に8という数字を書いて「まぁ結局は本人に聞くしかないか・・」と独り言を言いながら、木の枝を放り投げて立ち上がった。銀四郎に謝らないとな・・そう思いながら縁側から家に中に入ろうとした時、その土の上に書かれた8の文字が偶然横向きに見えた。
∞・・・8ではなく・・インフィニティ?・・無限大・・・∞・・別名レムニスケート・・永遠に繰り返す曲線だ・・・あっ!もしかするとそれは過去ではなく、未来なんじゃないか・・?
俺は片足を室内、片足を縁側の下に置かれた石段の上で立ったまま、再度その可能性を思案した・・・時間が電車のように一方向ではなく無限大という数字、メビウスの輪のように巡回しているとしたら、どこが始まりでどこが終わりかは分からない。誰がどの時点を見ているか、観測者によって状況は変わり、確定する。・・・もしかすると兄貴が言った事も(この世界ではこれから起きる出来事)なのではないだろうか?
その考えはほとんど落雷のように俺の脳天に突き刺さった。時に強い直感はもっとも早く確かな決断となる。この、通常では考えられない答えが、俺の中で既に確信に変わっている。・・・だとしたら、止められる。自分自身が間違いを起こす前に。さっきの突発的な、自分でも信じられないような恐ろしい行動と兄貴の言葉は、きっとそれを気づかせてくれる為のサインだったのだ。
居間に戻り、俺は母親に軽く声をかけてから上着を着て家を出た。(出る前に一通り部屋を探してみたが銀四郎は見つからなかった。)兄貴と待ち合わせた時間にはまだ早いが、駅の方に向いながら、どこかで元旦からやっている店を見つけて昼飯を食べよう。それからどうせなら祖父の方の銀四郎が働いていた映画館の跡地も見ておきたい。取り壊されたとは聞いているが、その場所が今どうなっているのかこの目で確認したいのだ。そうこうしているうちにすぐ日が暮れるだろう。スナックが開いていたら兄貴よりも先に入店して、セーラの母親から彼女の事を少し聞けるかも知れない。そしてエレノワがいたら・・・ん?・・エレノワ!?
俺はそこで自分の思考に驚いて足を止めた。まだ実家からは50メートルほどしか離れていなかった。・・・エレノワ・・スナックで働いている黒人女性だ・・・確かこの間、店内で兄貴と話しているのを見かけた・・・でも、どうして俺は彼女の名前を知っているんだろう?




