(110)有った事に比べたら無くなった事なんて大した事ではない
ー 全ての始まりは闇であり、そこから光が生まれた。故に我々は考えずとも光の方へと向かうのだ ー ~ BC 1800年頃 モンターメ叙事詩より ~
布団の中で蹲り、セーラはただ夜が過ぎるのを待っている。
頭の先まで掛布団を被って風や音を遮断し、五感を出来るだけ鈍化させる。見えなければ見えないほどいい、聞こえなければ聞こえないほどいい、香らなければ香らないほど・・・そうやって胸の奥の痛みを押さえつけようとしている。その姿はまるで生まれる寸前の胎児のようでもある。
・・・だが、それでも気持ちとは裏腹に漣は立つ。それが波紋となって血液の中に配合された怒りや哀しみを全身の毛細血管へと巡らせる。赤い熱は生命の証。それが傷から流れ出れば、痛みその物の存在証明になる。痛みは痛みで生きているんだとメッセージを脳に送り続ける。
きつく目を閉じて耳を塞ぐ。・・・すると瞼の裏にあるはずのない星屑のような輝きが浮かんでくる。セーラはそれを見ないようにするが、潜在意識がそれを勝手に追いかけてしまう。ああ・・美しい・・見た事もない天の川の先の・・アンドロメダ銀河だろうか・・?数え消えない星屑が銀砂の砂漠となって時計回りにゆっくりと渦を巻いている。そして永遠の流転の中で瞬間の発光を繰り返す。幾千、幾万の星々・・その光の粒一つ一つに、我々の惑星のような何十億もの生命があるのかも知れない・・・その時、顕在意識が抵抗する。ダメ・・違う、今私が欲しているのは本当の暗闇だ。想像の光の中に逃避する事ではない。闇・・ただの闇ではない、始まりの闇・・・闇は暗ければ暗いほどいい、一筋も明かりも入り込めないほどの深淵・・・。
光は何かを期待させる・・期待はこの世界で、いつの間にか自分の欲望に取って代わる・・すり替えられた自我・・上書きされた希望・・欲しくない物を欲しがってしまうシステムの洗脳・・・そのエゴに飲み込まれないように私は今、真の闇を求めているのだ。
恐れるな、静寂の知を辿って行け。例え傷ついたとしても静かで深い場所にはいつも真実がある。孤独を受け入れ、家族の声も友人の声も、愛する人や、自分の声さえも届かない場所へ・・・。
寒さを感じてセーラは自分の身体を強く抱きしめる。・・けれどこれでいい。寒さは己の深部にある小さな松明の炎に気づくことが出来る。その場所まで深く潜れば周りの闇はさらに濃度を増して行き、ここにある感覚を全て置き去りにするだろう。肉体と言う入れ物を脱ぎ捨てて、本当の自分に立ち返る・・・それこそが私の望んでいるものだから。
俺は部屋をぐるりと見渡した。ここにはもう沢口明菜がいた形跡は、あの赤い髪の毛一本も残っていない。もしかしたら俺は最初から一人旅をしていたのではないか?妄想の中でアイドルとおしゃべりをしながら新幹線に乗っていたのではないか?一瞬そんな考えすら頭を過ぎった。だとしたら相当ヤバイ中年男になっちまったって事だ。・・だが、もちろんそうではない事は分かっている。例え彼女の書いたブログ・・俺への手紙がインターネット上では削除されていたとしても、その正直で純粋でとてつもない強さのメッセージはしっかりと俺の胸に刻まれている。もしかしたら俺が死んだ後もそのエネルギーはこの辺りに漂っているかもしれない。あった事に比べたら無くなった事なんて大した事ではないのだ。
とりあえず俺は空腹を埋める為に部屋を出て台所へ行ってみた。するとノダさんが作ってくれたらしいおにぎりが3つ、ラップをかけてテーブルに置いてあった。ご丁寧に沢庵も添えてある。
俺はありがたくそれを頂き、(具材も梅干しのみで全然美味くはなかったが、なぜかとても元気が出た)食べきった後で、はたしてこれは俺に出された物だったのか?と罪悪感に苛まれながら首を傾いだ。
しかし食べきってしまったものは仕方がないので、開き直って部屋に戻って着替えてから宿を出る事にした。戻る途中の廊下でまたノダさんとエルビスに遭遇したので俺は「朝食、ありがとうございました」とお礼を言った。しかし「あ?ワシは知らん。女中じゃろ」とそっけなく返された。だが、今しかないと思い、俺は思い切って例の件を訪ねてみた。
「あのう・・ちょっとすいません」
「なんじゃ?」
「この町の空って・・何か変ですよね?」
「んん?」
「何て言うか、今日なんて晴天なのに灰色のモヤがかかっているように見えませんか?」
「ん~?分からんなぁ~これから雨でも降るんでねぇか?ワシも大分目が悪くなってきたからなぁ」
ほう、しらばくれるなら俺にも考えがある。
「では、直接言いますね、この町の空に結界がかかっていませんか?」
エルビスはノダさんの足の周りを8の字を描くように忙しなく行き来している。
「結界?・・結界ってなんじゃ?お主は何を言うておるんじゃ?」
「え?」
「ワシはもうこいつと散歩に出にゃいかんのじゃ、近所の正月周りも兼ねてな、ほれ行くぞ」
「あっ」
ノダさんは俺を置いてエルビスと一緒にさっさと宿を後にした。やっぱり沢口明菜のようには心を開いてくれないか・・・しかし全く鍵を閉めないで出て行ってしまうところがこの田舎らしい。まぁ俺しか宿泊していないのだから、盗られるものもないのか。
貴重品などの最低限の荷物を持って、俺も二人・・(一人と一匹か)の後を追って外に出た。
空気が美味い、目覚ましのようにほどよく冷たい風が頬を撫でる。本来は晴れて気持ちのいい最高の元旦だ。一年の始まりとしては良い予感しかしないだろう・・だがしかし今俺の頭上には、はっきりと見えるグレーの膜が覆っている。ど田舎グレードーム。灰色ジャイアンツが本拠地にしている大型スタジアムだ。
さっきの素振りや、沢口明菜から間接的に聞いた情報だけなのでノダさんについてはよく分からないが、俺以外にもこの結界が見えている人間が、町にはいるのだろうか?もしかしたらいるかも知れないがいくら人口が少ないとはいえ、町民を片っ端からあたるわけにもいかないし、いたとしてもそれを説明してくれる人を探すのは簡単ではない。俺の家族に訊いたところで頭がイカれたと思われるだけだろう・・・うむ、まずは自分の出来る事からしていこう。
俺は新年の挨拶がてら実家に帰ってみて、小学校の卒業アルバムからシタウケの情報を確認する事にした。
実家は正月の雰囲気も乏しく、寒々しい空気が流れていた。玄関に入ると、廊下から猫の銀四郎が出迎えてくれた。
「よう銀四郎、母さんは奥か?」
「ニャー」
俺は屈んで銀四郎の頭を撫でてから一緒に居間へ向かった。
母親は、誰かが見ていない時すらも永遠にその姿勢を取っているのではないかと思うほど、地蔵のようにコタツの定位置に座り、二日前と同じように蜜柑を食べながらテレビに向かっていた。
「ただいま、母さん」
母親は一粒の蜜柑を口に入れながら、こっちを向いて「あら、どうしたの?」と言った。
「今日は元旦だよ、せっかくこっちにいるんだし新年の挨拶に来たんだ。」
そういった息子の言葉にも母親は特に気もなさそうに「あそう。じゃあ本年もよろしくお願いしますね」と義務的に言った。
俺も一応「ああ、こちらこそよろしくお願いします」と返した。
それから母親はテレビに向かいながら「お兄ちゃんなら仕事よ」と言った。
・・そんなはずなはい。どこの町工場が元旦から働くと言うのだ。やはり母親の若年性認知症は進んでいるようだ・・・なぜなら、兄貴は三年前に亡くなっているのだから。




