(107)どこか物悲しい除夜の鐘を聴きながら
風もなく、音もなく、神経に触るような得体の知れない振動や気配もない。人口の少ない土地の、さらに人里離れた山間の町の小さな宿には、年を越す時のあの落ち着きのない人々の騒めきは届かなった。誰もがただ外気の寒さを遮断して、一番近しい家族という最小限の集まりの中に身を投じ、まるで永遠に感じられるほど繰り返してきた毎日となんら変わらないその時間を、痛みのない拷問のように当然の事として受容していた。それは平穏という名の地獄であり、退屈という名の天国でもある。・・・そうだ、俺はこれが嫌でこの土地から逃亡したんだ。
沢口明菜は行為の最中「またさっきみたいに名前で呼んで」と言った。
俺が「本名じゃなくていいのか?」と訊くと「明菜でいい」と言った。
「まだ薬の痺れが残ってるからうまく動けないかも知れない」と言うと「気にしないで。元々女はそんなにテクニックを必要としてないから」と言われた。俺は、若い頃に読んだ雑誌の情報は間違いだったんだな、と思った。
実際に触れてみて感じた彼女の滑らかな皮膚とその内部に潜む高密度の筋肉は、静かな獰猛さを持ったネコ科の大型動物を思わせた。自由にサバンナを駆け回り、正確無比な狩りをする。落ち着きと殺傷能力を兼ね備えた食物連鎖の上位に位置する、一級品の生物としての圧倒的な高級感。野良の老犬である俺は、その存在に畏敬の念すら抱いた。
けれど・・いやだからこそ、相手がどれだけ若く、美しく、著名な人物であっても、俺達の行っている行為は肉欲からくるものではなく、ましてや恋愛の延長線上にあるものでもなく、それは一つの儀式のようだった。
既存の二つの存在が新たな一つの存在を出現させる。人は人間としてこの世に生まれ落ちた時から、本能でその事を理解している。なぜなら我々は元々一つであり、理由があって分裂したのだ。その引き裂かれるような激しい痛みがゆえに、赤子は生まれた時あれほど大きな声で泣くのだろう。
なるほど、確かに太古の昔より人類は様々な儀式に男と女の衝動を用いてきた。そこで生じるエネルギーは対象が神であろうと悪魔であろうと、何者かを生みだす為には必要な要素なのだろう。我々は誰もが否応なく男女に分かれて生命を得る。そしてまた一つになろうと生命を育む。時に生きている間には善と悪、光と闇に分裂し、わざと衝突しようともする。もしかすると、それもまた何かを生み出そうとしている行為なのかも知れない。場合によってはそれは手に触れられるものではないかも知れないが、目指している目的はきっと同じなのだろう。例えば、より良い未来だとか・・・。
青く真っ暗な部屋で沢口明菜は今、俺の腕の中で小さくなって眠っている。それはまるで胎児のような姿だ。早くに父親を失った19歳の少女が、マツシタや俺に近づいて来た事の動機を想像するのは難しくない。違う理由だったとしても、どこか無意識的に足りない物を彼女が求めていたのかも知れない。俺達がそれを与えられたのかと考えると自信はないが、少なくとも彼女を利用している多くの大人達とは違って何かを奪わなかったのであればそれでいい。今このひと時だけでも、心の底から彼女が安心して眠れている事を願うだけだ。・・俺も今夜はもうこのまま眠ろう・・はっきりと聴こえるが、どこか物悲しい除夜の鐘を聴きながら・・・。
・・・そして年が明けて2011年最初の朝、俺が深い眠りから目を覚ますと沢口明菜の姿は荷物ごと影も形も無くなっていた。予想通りの状況に、彼女がいたであろう空間を見つめながら俺はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
その後部屋を出て一応、宿内の入れる場所は全て見回ったがやはりどこにも彼女の姿はなく、仕方がないので俺は風呂に入ってとりあえず目を覚まそうと思い、廊下を戻った。すると玄関からいつものようにノダさんがエルビスを抱いて現れた。形式だけの新年の挨拶を交わして、俺は昨夜のお礼としてエルビスにも「昨日はありがとう」と言ってから、ノダさんに彼女の事を訊いてみた。すると、沢口明菜はかなり早い時間にここを出た事がわかった。
「わざわざ離れにいるワシや女中の所に来てくれてな、仕事で急に東京へ帰らないとかんくなったって言うとったよ。あんたの事は寝てるからほっといてくれとな。また遊びに来る言うて。ええ子やな」
「はい・・・えーっと、それだけですか?」
「それだけじゃ。」
そう言ってノダさんは台所の方へと消えて行った。
俺は、とりあえず沢口明菜が無事であろう事は分かったので綺麗な体で正月を過ごそうと、着替えとタオルを持って風呂場へ向かった。
頭を洗い、体を洗い(喉元のスリ傷が多少沁みた)高温の湯船に浸かって大きな溜息を吐くと、自分自身が何か、昨日までとは少し違っているような感覚がした。頭は明瞭、体は軽い、海外製のバイアグラの副作用も感じない・・もしかして知らぬ間に沢口明菜にチェンジさせられていたのか?!と、一瞬不安になったがそういう(新しい自分になった)という感じではなく、どちらかというと(本来の自分に戻った)というようなしっかりと心と体が統合している感覚がした。俺は握り拳を強く握った・・・うむ、力が入る。今なら十代の女の子だけじゃなく、新日本連合の組員に襲われても渡り合えるぞ。
気分爽快で部屋に戻るとすでに布団は畳まれていて(多分女中さんがやってくれたのだろう)昨夜までとは違い、そこにはもう完全な一人部屋の雰囲気が漂っていた。中年男性が安価な宿泊費だけを理由に素泊まりしに来ている退色した畳の和室。沢口明菜がいなくなっただけで、その部屋は恐ろしく退屈な、よくある田舎の古宿に変わっていた。・・まるでつげ義春の世界だな、と俺は独り言を言った。昨日までの、不可思議でセクシーでどこか危険な雰囲気がまるでなくなっている。彼女が去ったという理由だけなのか、それとも俺の変化もこの空間になんらかの作用をしているのか・・・。
座布団に座るとテーブルの下に一枚の紙切れが落ちている事に気がついた。それはコンビニのレシートだった。風でテーブルから落ちていたのか・・・ゴミ箱に捨てようと拾ってみると、裏面に手書きの数字が書いてあった。
(3224)
その4ケタの数字に意味は見出せなかったが、書かれた字の色は沢口明菜が付けていたネイルと同じ黒いラメだった。・・・そうか紙もペンもなかったんだな・・彼女が書いたのだったら不思議な事は何もない。俺はその数字がどこに使うべきモノなのかすぐに理解した。
朝食は後回しにして、俺はスマートフォンを開き<和のダイアリー・19>にアクセスすると、その中の非公開になっている投稿<12/31>というタイトルのブログページをクリックして(3224)というパスワードを入れてみた。するとシークレットになっていた<ー小みそかー>という最新記事が読めるようになった。




