(106)ユニコーンの耳に念仏
黒いラメにスワロフスキーが細かくデコレーションされた、まるで星空のような沢口明菜の細い爪が俺の喉元に食い込み、息苦しさだけでなくそこに皮膚を突き刺す鋭利な痛みも加わってきた。痺れる手と力の入らない身体で、以前道場で習った(上に乗られた時の対処方)をやってみたが、人ならざる者になった今の彼女には全く通用しなかった。・・・まずいな、ビクともしないぞ、まるで重力そのものが沢口明菜の形を取って俺の上に圧し掛かっているようだ・・このまま絞殺されたとして、それが彼女の意志ではなく(別の力によるもの)だったとしても、それを証明する術はないし、今の法律では間違いなく彼女が殺人犯になってしまう・・両親を失い、身寄りもない孤独な少女が、俺のせいで刑務所に服役して輝かしい未来までも失ってしまう姿など想像したくない・・。だが、どんなに抵抗してみても状況は止められない河の流れのように、確定した未来に向かって粛々と進んでいるようだった。
窒息による失神が先か、頸動脈が裂けて失血する事による昏睡が先か・・・意識が薄れていく中で俺はなぜかマツシタと交わした戯言を思い出した。
「どうせならさ、スパッと死にたいもんだよな?」と、いつものコーヒーショップでマツシタは言った。
「病院で体中に何本も管を挿されて攻殻機動隊みたいになって、何か月も寝たきりの果てに死ぬなんてオレは耐え切れねぇぜ」
「耐え切れないから死ぬんだろ?」と俺は言った。
「ああ?例え話だろうが。相変わらずユーモアがないね、お前は」
「・・じゃあどう死にたいんだ?」
「そうだね、アニメ繋がりで言えば石川五ェ門だな」
「ルパン三世の?」
「そう。あの何でも切れる斬鉄剣でさ、袈裟切りに一刀両断。痛みも感じない居合抜きの速さで一瞬のうちに真っ二つにされたいね」
「それがいいのか?」
「ああ、そして最後に例のセリフだ(またつまらぬ物を切ってしまった)ってね。痺れるなー」
「確かにつまらぬ物だもんな」
「オイ!」
・・・痺れてるのは俺の身体の方なんだよ。と思いながら、今の俺は笑えるほどの余裕はなかった。・・なぁ、マツシタ、しかも俺はオマエの愛人のような女の子に絞殺されようとしてるんだぜ?・・出来る事なら止めてくれよ・・この子が可哀そうじゃないか・・・ああ、どうしてこんなくだらない会話を今さら思い出したんだ・・・でも人の死に際っていうのは案外そんなものなのかも知れないな・・・オマエは最初の漫画がヒットしてからずっといつ死んでもいいと言ってた・・毎日今が頂点だと思って生きているからだと・・・俺は毎日生きるだけで必死でそんな風に思える瞬間はなかったよ・・オマエは俺にユーモアがないと言ってたけど、もしそっちに逝って会えたらオマエはきっと爆笑するぞ・・挨拶も早々に俺はこう言うんだ(やぁ、久しぶり。今ちょうど、オマエの恋人に殺されて来たところなんだよ)ってな。
意識は混濁の霧にズブズブと埋没し、俺は表情筋の感覚だけでほんの少し自分が無様に微笑んでいる事に気がついた。・・・すると幻なのか夢なのか、何者かが部屋に侵入して来たような気配がした。その黒い影は素早く部屋の隅に移動すると、そこから突然勢いよく沢口明菜の背中に衝突した。
彼女は「うっ!」と声をあげて大きくバランスを崩し、俺の首から両手を離して床に掌を付いた。俺はほとんど反射的にブリッヂをして体を返し彼女のマウントから逃れると、素早く背後に回って、四つん這いになった彼女の首に右腕を回し自分の服を掴み、力は入らないのでそのまま前転する要領で前に体重かけて頸動脈を圧迫し、彼女を一瞬で失神させた。
噎せ返りながら座り込んだ俺の横に、キョトンと佇んでいたのはウリ坊のエルビスだった。俺はほとんど聞こえないほどかすれた声で「ありがとよ。大丈夫、彼女には少し眠って貰っただけだから。」とエルビスに向かって言った。
そんな俺にエルビスは興味がないらしく、布団の横に倒れた沢口明菜に近寄ると、彼女の頬をペロペロと舐め始めた。
起きてすぐまた襲い掛かってこられても困るんだが・・と思いながら俺は、手に持った手拭いでヒリヒリと痛む首元を押さえた。幸い軽い切り傷程度で思いのほか血は出ていなかった。
横で「うーん・・」という目覚めの声がして、それがいつもの沢口明菜だった事で俺は安心して「大丈夫か?」と声をかけた。
彼女は「あ・・あれ?・・アタシ・・何してたんだっけ?」と困惑しながら上体を起こした。そしてウリ坊を発見すると「あっ、エルビスー!また来たの?」と言って、何事もなかったかのように抱き上げて猪の子を膝に乗せた。
「回復が早くて羨ましいよ・・一体何が起きたんだ?」
「・・ごめん・・アタシにも何がなんだか・・」と沢口明菜はウリ坊の背中を撫でながら言った。
布団の上に座ったまま俺は、手を握ったり開いたりをくり返して感覚を確かめた。まだ握力はあまりない。全体的な倦怠感もあって身体の芯が熱を持っているようだ。
「まぁ仕方ない、キミも何かに乗っ取られていたようだから。・・一応聞くけど、俺を絞め殺そうとした事は覚えてるかな?」
「うん。それはアタシがやった事だから。」
「えっ?」
「カズに馬乗りになって首を絞めたのは自分の意志だからね。・・まぁ、力はいつもよりも大分強くなってた気がするけど」
「・・どういう事だ?」
「その前にアタシなんか変な事を言ってたでしょ?光がどうたらとか、二つが三つとか。あれはアタシの意志じゃなくて、なんか言葉が勝手に口から出てた。腹話術みたいに誰かに喋らされてた感じ?」
「そ・・そうなのか?」
「うん、その時も全く無意識ってわけじゃなくて、アタシ以外に誰かこの身体の中にいるって感じだったんだけどね。それだけ。それ以外はアタシがやろうと思ってやった事だよ。やかんに薬入れといて、カズにそれを飲ませて、首を絞めて・・」
「俺を殺す気だったのか?」
「違う違う!ちょうど今カズにやられたみたいに気絶させようとしただけなの。なんか力加減がうまくいかなかったんだよね」
・・意識は自分で、潜在能力を引き上げられたという感じなのか?・・・確かに、悪魔が憑いているかのように突然布団から飛び上がって立ったが、彼女は以前から椅子等から飛び上がるようにして立つクセがあった・・元々身体能力は高かったが・・・。
「でも、なぜだ?」
「ん?」
「そもそも今から眠ろうとしている人間を気絶させたって仕方ないだろ?」
「いやー・・」と言いながら沢口明菜は頭を掻いた。エルビスは空気を読んだのか、するっと彼女の手から離れて部屋を出て行った。そして律儀に廊下を出てから鼻で戸を閉めた。ノダさんのしつけが行き届いているようだ。
「何ていうか、カズを襲っちゃおっかなーって・・・」
「襲う?・・男の俺を?ジョーダンだろ!!」と、急に大声を上げてしまった事で俺は、強烈な喉の痛みに苦悶した。
「あははっ、ごめんごめん!いや、やっぱ無理だよねー、アタシもどうかしてたわ、マジで乗っ取られていたのかも!あははは」
「い、いい加減にしてくれよ・・・」実際には危うく俺は男のプライドをズタズタにされる所だった。
「わかってるのか?無理やり薬を飲ませて暴行未遂なんて・・けっこうな重犯罪なんだぞ?」
「いや、マジごめん。どうしたらいいのかホントに分からなくなって・・」
「まだ手が痺れて呼吸をするのも苦しいんだ。・・しかし一体なんの薬を飲ませたんだ」
「うーん・・バイアグラ的なやつ?」
「なんだって!?」
「ほら、テッちゃんて性的不能者だったじゃん?だから二人で色々試したんだよ。海外から色んな薬取り寄せてさ、日本で売ってないすっごい強いやつとか・・でもまぁ全然ダメだったけどね。その時の余り。」
「マジか・・」とあまりの事に俺も沢口明菜の口調が少しうつってしまった。
「あ、そういえばテッちゃんが飲む前に英語で書いてある用法を読んでて、確か健康な人には一時的な動悸とか軽い呼吸不全とか手足の痺れとかの副作用が出るって言ってたかも」
「なるほど・・・しっかり副作用が出てるよ」
「いや、マジごめん!!アタシやっぱバカかも!あ、でも副作用はすぐ治まると思う、テッちゃんにも出てたから」そう言って彼女は両手を拝むように合わせて俺に謝罪した。けれどこれほど突飛な行動を起こしてしまうぐらい、彼女は追い込まれていたという事か・・・。
「二度とこういうおかしな行動はやめてくれ。薬だけでも場合によっては死に至るから」
「そうだよね!いや、マジごめん、もう絶対しない」
「ちゃんと話してくれればきっと何か解決策はあるはずだよ。まず、キミの言う俺達が(一つになる)という事はそれほど重要な事なのかな。」
「・・・うん、それはマジ。お互いの為に必要な事なの。さっきアタシの中に何かが入ってきて、言わされた言葉だけじゃなくてイメージって言うか、ヴィジョンみたいなのが見えて、その事が余計に重要だってわかった。白い半月と黒い半月みたいな形が現れて、その二つがくっ付いて回転して、まん丸い灰色に光る銀の満月みたいになった。それでアタシ達はそれぞれ本当の自分に戻れるみたい。人間だけじゃなくて、その仕組みはこの世界の基本的なルールみたいな物だって」
「誰かが言ってたのか?」
「ううん。さっきカズの上に乗ってる時、強制的に映像を見せられて理解したの。ビデオ教育みたいな感じ。」
「なるほど。・・一応確認だけど、キミ自身はおかしなクスリとかやってないよな」
「今はやってないよ!」
「今は?・・・」
「昔の話ね。他にアタシが見せられた映像から教えられた事は、白も黒も、男も女も、正義も悪も、本当は同じ目的の為に存在してるからどっちが良いも悪いもないんだって。二つのモノが作用しあって上昇する為のエネルギーを作り出そうとしてるから。」
「そうなのか」
「だけど、そのやり方を続けていたら極端な悪も永遠に存在しちゃうから、その先は新たな3つ目の要素が必要になるって・・・」
俺は何とか彼女の話を理解しようと努力したが、元々大した学歴もない頭脳の上に、薬の副作用で思考が鈍っている今の状態では、まさにユニコーンの耳に念仏だった。
「俺もビデオ教育をして貰わないといけないな。」
「ねぇ」と沢口明菜は上目遣いで言った。
「やっぱ・・セーラちゃんみたいな超いい女と付き合ってたからアタシみたいな小娘は抱けないって感じ?」
「いや、そんな事は断じてない。前にも言ったけど、キミは元々(チェンジ)しなくても魅力的な人間だったと思う。でも今のキミは、健康に問題がなくて女性が好きな男なら、学生から墓場にスネ辺りまで埋まっている爺さんまで、誰でも抱きたいと思うはずだよ」
「・・そうかな?アタシあんまりモテないんだけど。」
「国民的アイドルが何を言ってるんだ・・・まぁ確かに(数をこなすのとモテてる事とは同じじゃないんだぜ)って氷室京介も歌ってたけど」
「何それ」
「昔ボウイっていうバンドがいたんだ。」
「ふーん、今度聴いてみる」
「別に聴かなくてもいいよ。キミ達の世代にはキミ達の音楽がある。キミ達のファッションやキミ達のランゲージがね。今ジョニー蒼が人気なら彼の歌を聴けばいい。・・同級生に印税が入るなら俺も嬉しいしね」
「ああそっか、シタウケくん」
「そう、いつかシタウケにも会わないといけないだろう」
「それはアタシが何とかするよ。同じ芸能界・・と言っても勘単に会える人じゃないけど、さっきのお詫びに何とかしてみる。」
「ああ、東京に戻ったらよろしく頼む・・・」
お互い喋るのを止めた途端、部屋の中を一吹きの隙間風が通った。だが不思議と寒さは感じられず、むしろ心地よい清涼感を感じた。八畳程度の和室で薄い煎餅のような布団の上で向かい合わせにあぐらを掻いたまま、俺達はどちらからともなく近づいて行って唇を重ねた。




