(104)夫婦は相手への気持ちが、好き寄りの普通ぐらい
「そういうジョーダンは今あまり聞きたくないな」俺はそう言って座布団に座るのを止め、風呂場に向かった。
・・・彼女が悪いわけではない。もしかしたら単純に元気づけようとしてくれたのかも知れない。それでも今の俺は沢口明菜の言葉を好意的に受け止められなかった。人は同じ言葉を聞いたとしても状況やタイミングによって、まるで別の意味に聞こえることがある。例えば誰かに「頑張って」と言われた時、それが甲子園の決勝戦の前だったら前向きに「ああ、頑張るよ!」と返事を返せるかもしれないが、大きな地震などに震災して壊れた自宅を片付けている最中だったら「ほっといてくれ!」と言ってしまうかも知れない。・・・要するにそういう事だ。
俺はあまり泡立たない備え付けのシャンプーで頭を洗いながらセーラについて考えた。
・・・実は彼女について俺は何も知らないのだろう・・その事がさっきの沢口明菜との会話でよく分かった。今まで当たり前のようにセーラは無実だと考えていたが、それは彼女を擁護したいという思い込みからきているものではないだろうか?・・実はセーラが警察に追われているのはモウリの殺人容疑だけではなく、もしかしたらウワガキの死にも何か関係しているからかもしれない・・その前には彼女のマネージャーであったマキムラも死んでいる。死因は自殺だったが遺書があったわけでもない・・要するに状況証拠による推測だ。・・元を辿れば全てはセーラの元婚約者であるマツシタの不審死から始まっている・・・そうなると、客観的に考えて彼女の恋人だったウワガキの死がただの交通事故によるものだと考える方が難しい。刑事達がセーラを捜査対象にしている理由も正にこういった事象の数々を元にしているからだろう。・・・俺はセーラに対して幼少の頃のイメージから、あまりにも純粋な聖人君主だと思い過ぎていたのではないか?・・彼女は芸能界という複雑な世界に長い間身を置いて、俺のような凡人には計り知れない大きな闇を抱えていたのかも知れない・・・もし俺がこの事件を全くの他人として取材していたら、最初からもう少し違う見解を持っていたのではないだろうか?・・・セーラは昔騙されてアダルトビデオに出演した事を人知れず苦悩していた。そして俺以外にも数年前から付き合っている恋人がいた。・・・俺は今まで、池上セーラという存在のキラキラと輝く上澄み部分だけを見て、それが彼女だと勘違いしていたのかも知れない。
頭に乗った泡をシャワーで洗い流し、俺は持ってきたタオルに石鹸を擦り付け、今度は体を丁寧に洗う事にした。石鹸も備え付けの物で、シャンプーもだったが沢口明菜が先に使ったと思われる形跡はなかった。彼女はきっと持参したどこかの高級なヘアサロンの物でも使っているのだろう。さっきパソコンの前ではそういう匂いがした。・・しかし石鹸という物を使ったのは随分久しぶりだ。子供の頃はうちにもこれと同じ石鹸が常備されていたっけ・・・。
そもそもセーラは今本当にこっちに戻って来ているのだろうか?それにしては彼女が帰省していると思われる痕跡があまりにも少ない。セーラほどの人物が隠れていられるほど、ここの土地は広くない。単純に170センチ近い女性だって珍しいのだ。・・・やはり新幹線の駅が近いシティ・ホテル・・沢口明菜が宿泊していた所しかないが、あそこに上手く身元を隠して泊まっているのだろうか?・・だがセーラを追って来ている刑事達が真っ先に調べる場所と言ったらやっぱりあそこだろう。新幹線から降りてその足でまずあのホテルに向かい、フロントで「背の高いショートカットの女性は宿泊していますか?こんな人物です」と写真を見せて、はい確保。それならもう彼らの仕事は終わっている・・・でもどうやらそう簡単にはいっていないようだ。
刑事達はわざわざ遠い俺達の母校にまで足を運んで捜査を続けている。・・その中で、もしかしたら彼らが(俺達が書いた最後の新聞)を掘り返したかも知れないのだ・・・しかしなぜ?。ここがどうも分からない。それはただ単に小学生の思い出作りであり、彼らはその出来事も新聞を埋めた場所も知るはずがないし、掘り返す理由がないのだ。・・やはり偶然?・・だとすると掘り返したのはやっぱりセーラか・・はたまたシタウケか?・・・いや、もしかして二人で??・・・バカな!シタウケは恋人だったウワガキじゃない、シタウケは今やジョニー蒼として世界を股に掛ける大人気シンガーなのだ。この一番忙しい年末にこんなド田舎に帰って来ているはずがない・・第一、店の親父さんだって息子の行方を知らないんだ、過去を切り捨てたような人間がわざわざ地元で年越しをするはずがない。・・・だが、シタウケが地元を捨て去った気持ちは理解出来なくもない。・・こんな狭い土地出身の人間が世界中に名を轟かすほど成功したら、それこそ町をあげての大騒ぎだ。地元にいた頃のそれまでの自分を知ってる人間や、知らない人間がある事ない事吹聴して回る事は目に見えている。幼年期、地味に静かに過ごしていたシタウケのような人間ほど、成功後のイメージと違う過去をほじくり返されるような事は嫌がるだろう。・・・それで過去を捨てたか・・それともこの町の存在自体を、世間に広めたくなかったか・・・。
考えても無駄だと分かっているのに俺の思考はどんどん深い困惑の袋小路へと突き進んで行った。考えれば考えるほど答えの出ない質問が湯水のように湧き出してきて、その水量で溺死しそうになった。
熟考してしまったせいでヒリヒリするほど擦ってしまった体を素早く流して、どこからか湧き出ている、まるで俺の無意味な質問のような白濁した湯船に浸かり、とにかく今は少しでも体を休めて国民的アイドル女優と同じ部屋でも気にせずぐっすりと眠れるようにと、俺は力を抜いてお湯の浮力に身体を預けた。
頭にタオルを乗せたまま窓の外を眺めると、まるでかまぼこのように丁度円が真ん中で切断された半月が銀色に鈍く光っていた。・・・銀色・・・あの着物・・灰烏・・・俺はそのまま湯船の中でウトウトと居眠りをしてしまった。
・・気が付くとそこは、あの古びた遊園地だった。右手には錆び付いた小さな観覧車、左手には色褪せたメリーゴーラウンド、相変わらず人気がなく静かなのは現実と同じ。何度も訪れた場所でもないのに、どうしてここがよく夢に出てくるのだろう?俺はこれが夢だと半ば理解しながら、とぼとぼと園内を歩き出した。耳を澄ますと園内放送では珍しく歌詞のある曲が聞こえる・・・どうやら下田逸郎が作詞した「時代遅れの恋心」のようだ。ー 少し錆び付いた観覧車に乗って、ガクンと揺れたらアナタに会いたい ー この曲が発売されたのは1989年だったっけ?・・俺はまだ小学生だった・・・ふと気づくと俺の横を並走するように白く大きな馬・・例のユニコーンが傍を歩いていた。ユニコーンは俺の顔を混じりっ気のない黒真珠のような瞳で覗き込むように見ると、一度瞬きをしてから少しスピードを上げて先を進んで行った。取り残された俺は行く当てもないので、何となくユニコーンが進んだ道を追うように歩いて行った。すると清掃バイトの時に休憩していた裏通りのベンチ前に出た。またここかと思いながらそのまま進むと、二脚あるベンチの左側にあの時と同じようにガネちゃんの着ぐるみが座っていた。ユニコーンもその傍らにいる。ガネちゃんは隣へ座れと言わんばかりに左手を上げた。いつもの場所、いつものユニコーン、いつもの友人が現れたのを見て俺は、その特異な状況にもかかわらず久しぶりに心からの安堵感を覚え、にこやかに奇妙な象のぬいぐるみに手を振り返した・・・。
ぶわっ!!!
突然熱いお湯が口と鼻に入ってきて、俺は慌てて浴槽の端を掴んだ。
「ゴホッ!ゴホッゴホッ・・・」
あぶなかった・・どうやらほんの数分だが眠ってしまっていたようだ。気管に入った温水を吐き出すように噎せ返りながら、俺はなんとか湯船から上がった。頭が熱く少しのぼせたのか、何か夢を見ていたような気もするが全く覚えていない。フラつきながら脱衣所に向かい、身体を拭いて部屋着に着替え、手拭いを冷たい水に濡らしキツく絞って、それを額に当てながら俺は部屋へ戻った。
明かりは点いていたが、沢口明菜は置いてあった浴衣に着替えていて布団の中で携帯電話を弄っていた。
彼女は背中を向けたまま「おそくね?」と言った。
「ああ・・ちょっと湯船で居眠りしてしまってね・・少しのぼせたようだ」
「お茶飲めば?」
「そうだな」
俺はテーブルの脇に座ってやかんからお茶を湯飲みに注いだ。真冬で室温が低いせいかお茶はとっくに冷めていて、それが風呂上がりの火照った体に心地よかった。俺はそのまま掛け布団の上に横になり、手拭いを目元に当てて体の余熱を取った。
「さっきはすまなかった。きっとキミは俺を元気づけようとしてジョーダンを言ったんだろうけど大人げない態度で出て行ってしまって。」
沢口明菜は何も返事をしなかった。俺は顔に乗せた手拭いを取らず、彼女の気配だけを感じていた。・・・携帯を触る音が止んだ。
「ジョーダンじゃねーし。」
「ん?」
「結婚してって言ったのはジョーダンじゃない」と沢口明菜が言った。
俺は目を閉じたまま「どうしてそんな事を言うんだ?同情なら勘弁してほしい。俺は元々一人が好きな性分なんだ、しばらくパートナーは必要ないと思ってる。第一、キミは別に俺の事が好きなわけじゃないだろう?」と言った。
すると沢口明菜はすかさず「うん、好きじゃない」と答えた。
「・・でも嫌いでもない」
「そうか、嫌われてないだけ良かったよ」
「好き寄りの普通」
「あはは・・結婚なら、大好き寄りの好きな人とした方がいいよ」
「そうかな」
「そうだよ」・・・と言ったものの、その答えには自信がなかった。俺は結婚した事もないし、もしかしたら世間一般の夫婦は相手への気持ちが、好き寄りの普通ぐらいが多いのかも知れない。
「どうして俺なんだ?俺とキミはこの世界の対極にいる人間だろう?」
「だからだよ」
沢口明菜が体を起こしてこっちに向き直ったような気配がしたが、俺はあえて確認しなかった。
「言うとおりカズとアタシは真逆の人間だよ。アタシは若くて色白で可愛くて有名でお金持ちで気が強い」
「気が強い事はわかってるんだね」
「うっさい。・・んで、カズはオジサンで一般人で日焼けしてて貧乏で一般人で優しい」
「一般人が二回入ってたぞ。しかしボロクソだな・・でも優しいのか?」
「うん、すごく優しい。テッちゃんもセーラちゃんもすごく優しかったけど、同じぐらい」
「みんな中年なだけだよ」
「そんな事ない。今までアタシが会った大人はみんな全然優しくなかった。お母さんも学校の先生も・・事務所の人とか・・・大人になってもずっと自分の事が一番で他人よりも自分を優先する人っていっぱいいるよ、誰かが困ってても助けない、まるで自分の方が被害者のようにいつまでも振舞ってる下品な人達。」
「ああ・・確かにいるね」
「弱い物いじめって大人でもやってるんだから」
「そうだな、言いやすい相手に強く言って調子に乗ってるヤツなんて、ろくなもんじゃない。そういうヤツらが回り回って戦争を引き起こすんだ」
「そうなの?」
「分からない。続けて」
「だからね、アタシとカズはまるで正反対の生き物だと思うの」
「ああ」
「お互いにどうしょうもなく欠けてる部分がある。」
「俺にはあるが、キミは欠けてなんかいないよ」
「ほら、優しい。でもアタシにも大きな欠けがある。それを埋める必要があるの」
「ん?」
「欠けた者同士のアタシ達は、一つになって完全な円になる。さっきお風呂場から見えた満月みたいに」
・・満月?俺がさっき見た月は、横浜のホテルみたいな形をした半月だったが?・・・。




