(101)やっぱ東京とは空の色が違うなぁって思ってた
民宿に戻って玄関に入った途端、俺と沢口明菜は顔を見合わせた。なぜなら奥から驚くほど美味そうな匂いが漂って来たからだ。俺達が急ぎ足で廊下を進むと、台所でノダさんが何かを鍋で煮込んでいる最中だった。
俺達に気づいたノダさんは一度振り向いて「遅かったでねぇか」と一言だけ言った。その姿はまるでこれから俺達を食べようとしている絵本の中の魔女そのものだった。そんな様子も気にせず沢口明菜はすかさず「アキちゃん、もしかして夕ご飯作ってくれてんの!?」と訊いた。
「んや?おめぇら食って来たんでねぇのか?」とノダさんは鍋に向かったまま返事をした。
「違うのー、お昼も食べてないし、アタシ達餓死しちゃうよー」と沢口明菜は近くの椅子に倒れ込むように座って言った。
「・・これは年越し蕎麦の出汁だ。・・・おめぇ達も食うか?」
「マジ!?食べる―、アキちゃん、マジ最高!!」そう言って沢口明菜は後ろからノダさんに抱きついたが、ノダさんは微動だにせず鍋をかき混ぜ続けた。俺はエルビスの姿が見えない事に少々不安を覚えた。
ノダさんはすぐに俺達の分の蕎麦と山菜の天ぷらを出してくれた。天ぷらは手伝いの女中が作ったから美味くないかも知れないと言った。今日は大晦日だからその人はそれだけ作らせて早めに帰らせたらしい。そしてノダさんは「これは自分の分として作ったもんじゃから金はいらん。ワシは紅白を見ながら食うからまだ蕎麦は茹でん」と言って、一人の分の出汁を持ってさっさと離れの自室に帰って行った。
俺と沢口明菜はそのまま食堂(この規模なら食卓か)のようになっている台所横のテーブルで、早めの年越し蕎麦を食べた。聞いていたように蕎麦は美味かったが、天ぷらはあまり出来が良いとは言えなかった。多分、油の温度が低かったのだろう、それが冬のせいなのか作り手の腕のせいなのかは分からないが単純に揚げ具合がイマイチだった。蕎麦の汁に豚肉のような物が入っていて俺達は「まさか?」と一瞬疑ったが、口にするとその柔らかさと奥深い味わいに、肉の出どころを考える余裕などなくなってしまった。それほど俺達は空腹であり、疲弊していたのだ。なにせ2時間程度物を食べていないと思っていたはずが、どういうわけか8時間近く何も口にしていない状態になっていたのだから。
あっという間にそれらを食べ終え、俺達はまるで仲睦まじい親子のように台所で横並びに食器を洗い、やかんにお茶を入れて部屋に戻った。
廊下から襖を開けると俺は驚いて、沢口明菜は爆笑した。部屋の中央に布団がぴっちり隙間なく二枚並べて敷かれていたからだ。
俺が「まいったな、ノダさんは新婚旅行か何かと勘違いしてるのか?」と言うと、沢口明菜は「一個でも良かったのにねー」と、お得意の大人をからかうジョーダンを言った。
彼女はとりあえず先にお風呂に入りたいと言って、着替えを持って浴室に向かった。俺はお茶の入ったやかんを脇に置いて敷いてある布団の間隔を離してから、実家からかすめてきた缶ビールと外出先で仕事をする為に持ち歩いている小さめのノートパソコンをリュックから出し、さっきまでの出来事を簡単にまとめる事にした。
ー 2010 12/31 晴れ ー
正午近く、沢口明菜に絆されて母校に行く。しかしセーラが来たと思われる痕跡はなし。だが、20年以上前に埋めた新聞を掘り起こした人物がいるようだ。それは多分、俺達を追ってきたあの刑事達だろう。問題は警察がなぜその出来事を知っていたかだ。あの新聞がセーラの(モウリ殺しの)容疑に繋がる証拠品とは思えない。だが何も知らずに偶然あそこを掘り起こす事はないはずだ。推測だが、いわゆる警察の初歩的な捜査、現場検証のように単純に気になる個所を調べていただけなのではないだろうか?例えば、不自然に土が盛り上がっていたとか・・・。
そう考えると先にセーラが学校を訪れていた線も完全に消えたわけではない。窓から入った足跡は複数の男性の物だったが、足跡などすぐに消えるだろうし、別の所から校舎内に入った可能性もある。けれどセーラがあの新聞を今更掘り起こす理由が見つからない。ただ単に久しぶりに地元に帰って来てセンチメンタルになっただけだろうか?・・しかしわざわざ人里離れたあそこまで足を運んで手を汚すほどの物でもないはずだ。実際俺はと言えば、埋めた事すら忘れていた。それだけでなく、シタウケの事も、顔見知りの雑貨屋の店主の名前すらも俺は思い出せなかった。・・まぁこれらは実家に帰れば分かる事だ。母親ならあの店主の事も知っているだろうし、卒業アルバムも押し入れを探せば見つかるはずだ。それでシタウケの顔も名前も分かる。
そして突然現れた灰烏の子供。あの子と同じような灰色の着物を着ていた老人にサイゴウは会ったと言っていた。・・・しかし・・その物語がどうしても思い出せない・・・サイゴウと灰烏家の接点が何か重要な意味を持っていたはずなのに・・・。シタウケの顔が思い出せないのは子供の頃の記憶だから仕方がないとして、サイゴウにインタビューしたのはつい最近の事だ・・・俺も母親のように加齢によって記憶力が衰えているのだろうか?・・いや、さすがにまだ早いだろう。・・そうだ、家のパソコンにインタビューのデータが残っているはずだ。アパートに戻ってからそのファイルを確認すればいい。ー
俺は液晶の画面に打ち込んだ文字を読み返しながら缶ビールを一口飲んだ。
取り急ぎ、メモとしてはこれぐらいでいいだろう。別に仕事で記事を書いているわけではないのだから。・・・そう思いながら俺は画面を閉じようとしたが、その手を止めてもう一度キーボードを短く叩いた。
ー 追記 沢口明菜の言動が、今朝からおかしい。妙に元気でよそよそしく、まるで別れ話を切り出そうとしている恋人のようだ。・・・彼女は何かを隠している。ー
明菜は一面タイルの小さな浴室で身体を温めていた。東京よりも暖かいとは言え、真冬には違いない。昼間の服装で外に出て、夜の時間帯に戻って来たせいで足先などの末端がじんわりと冷えていた。
・・アキちゃんのお蕎麦のお陰で中は少し温かくなったけど、こんなに肌が乾燥してるのを見たら事務所の人に怒られちゃうな・・・帰ったらきっとすぐに映画の撮影が始まる・・まぁアタシが止めてるんだから仕方ないんだけど・・・。結局テッちゃんが死んじゃったから原作の漫画<グレープフルーツ・マン>は完結してないんだし、どうせなら実写映画も制作中止になればいいのに。・・・でもやっぱりカズ、色んな事忘れてるみたい・・・アキちゃんが言ってたとおりだ。
どこから湯を引いてきているのか分からない、白濁した温泉のような湯船に浸かり、明菜は朝の散歩時にノダ・アキコと交わした会話を思い出していた。
雲一つない碧空。師走で人気もない午前中の静かな時間帯。長閑で勾配の少ない古里らしい林道を、五十も離れた年齢の女二人は、真ん中に小さなウリ坊を挟んで嫋やかに歩いていた。そして明菜は空を見上げながら、少し前からずっと気になっていた疑問をノダ・アキコにぶつけた。
「ねぇアキちゃん・・なんか空の色が変じゃない?曇ってるっていうか、灰色っぽいっていうか・・晴れてるのに何か変だよ」
「んん?」
「なんかさ、膜が張ってるみたい。青空の内側に一枚薄い膜があるように見えるの。・・アタシの目がおかしいのかなぁ?」
「ほう・・・」
「J市に来てから、やっぱ東京とは空の色が違うなぁって思ってたんだけど、K町の空は特に変だよ。アタシが昨日泊まってた駅前の方とも違うし・・アレはオーロラとかの一種なの?」
「そうか、おまえさんにはアレが見えるのか・・・よそ者だとは思っとったが(本当の余所者)なんじゃな。・・お主の連れにはアレは見えんぞ」
「え?!そうなの?」
「連れの男は、地元のもんじゃろ?さっき思い出したが顔に見覚えがある。地元のもんにはアレは見えん。」
「どういう事?・・アキちゃんには見えてるんだよね?」
「ああ・・大分薄うなったが、まだ見える。ワシの母は隣のW町の出身でな、ワシも小さい頃はW町に住んどった。ここの生まれじゃないから見えるんじゃよ・・そう言うても旅行程度で他県から来た(ただのよそ者)には見えんがな」
「何それ?・・っていうか、一体アレはなんなの?自然現象じゃないの?」
「アレはな・・結界じゃ。」
「結界・・?」
「ああ、70年ほど前からこの辺り一帯に張られてる、結界なんじゃよ」
「あの膜がバリアみたいなもの?・・結界って目に見えるの?」
「それがお主の(余所者)たる所以じゃが、理由はワシにも分からん・・・ただアレがある限り誰もあの、70年前に起きた悪しき所業に関わる事など思い出せまいて。」




