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XNUMX  作者: 一太
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47/51

xnumx(89)~(90)

(89)実際には一秒前も一秒後も見聞きする事は出来ない。


 実家の固い枕のせいで、俺は見たくもない夢を見た。それは明らかに哲学者ドナルド・デイヴィッドソンの「泥人間スワンプマンの思考実験」の影響下にある、奇妙な夢だった。森の中を一人で歩いていると木々の隙間に突然人影が現れた。俺は孤独と不安から声をかけようと近づいてみるが、よく見るとそれは人間ではなく人の形をした茶色く大きな泥人間だった。俺は怖くなって来た道を引き返そうとした。しかし後ろから慣れ親しんだ声が俺の名前を呼んだ。セーラの声だ。振り向くと泥人間はセーラの声で笑い、手を振りながら俺に近づいて来た。俺は逃げる事こそしないが、かといって好意的に駆け寄る事も出来ず、その場に立ち尽くした。泥人間は俺の目の前で足を止めて「久しぶりだね、元気にしてた?」と訊いてきた。俺は当然「キミはセーラなのか?」と問いかけた。泥人間は「もちろん」と笑った。確かに、よく見るとそれは背格好やシルエットがセーラその物で、まるで彼女をかたどった茶色いマネキンのようだった。泥人間は「前のワタシはさっき歩いていた時に沼地にハマって死んだの。でも丁度その時、タイミング良く沼地に雷が落ちてワタシの記憶も経験もカタチもそこにデータとして保存された。ワタシは死ぬ直前の沼にハマった記憶もあったから、必死に抜け出そうとそこから立ち上がった。そして何とか沼から抜け出したらこの体になってた。前の体はもう沼の底に沈んでいると思う」と言った。俺は「それは大変だったね」と、まるで傘を忘れて駅から少し濡れて帰って来た人にかけるような、軽い言葉をかけた。泥セーラはそれを無視して「ワタシは前と変わらずワタシなの。ただ素材が変わっただけ。前と同じようにアナタを愛していいかしら?」と言った。俺は即答できなかった。しばらく泥セーラと見つめ合った後、俺は「今のキミは本当にキミなのかな?」と言った。泥セーラは「アナタが本当にアナタだって、一体誰に証明出来るのよ」と言った。

 目が覚めると9時を少し回っていた。リビングに向かうと母親はいつものようにテレビにかじりついていた。猫は見当たらない。兄貴は昨晩の酒が残っているようで、どうやらまだ眠っているらしい。俺は兄貴と少し話したかったから、母親の横に座ってしばらく待ってみたが、朝飯が出てくるわけでもないので諦めて、実家のトイレで久しぶりに用を足し、荷物をまとめて家を出る事にした。まだしばらくこの町にいるのだから、折を見て立ち寄ればいい。

 

 馬鹿みたいに天気のいい朝だった。家の前の坂を下りて少し大きな道に出てから、俺は一つ大きく深呼吸をして体を伸ばし、マグリットが描いたようなスカイブルーの空を思い切り仰いだ。目の前に広がる木々は真冬にもかかわらず生きて呼吸をしている事がはっきりと分かる。そこから落ちたドングリをついばむツグミやカケスは生き生きとその生活を営み、自然をあるがままに循環させている。

 もし今目の前を9歳ぐらいの女の子が駆け抜けて行ったら、その子を主役にしたアニメーション映画が始まるのかと思ってしまうだろう。冬休み、親に連れられて来た田舎の村で、山に迷い込んだ少女が不思議な体験する物語。・・あれ?これはもうジブリあたりがやってるか?

 沢口明菜との待ち合わせ時間には十分余裕がある。ウリ坊おばさんの民宿はそれほど遠くはない。俺は都会では味わえない大自然の息吹をたっぷりと浴びながらそこまで歩いて向かう事にした。実家で朝食を食べそびれたから何か口にしたい・・あのラーメン屋が早めに開いてくれていると助かるのだけど・・・。


 それから10分後、十字路で俺は馬鹿みたいに立ち尽くし、通行人の目にも明らかなほど途方に暮れていた。・・ここにあったはずのものが・・・ない。あの、昨夜食べて感動した中華料理店が跡形も無くなくなっていたのだ。そんな馬鹿な、半日でつぶれて半日で解体?!こんな業者もいない田舎町で出来るはずがない。いや、確かに大地震や竜巻でも直撃したら吹き飛びそうなほど年季の入った建物ではあったが・・・。

 しかしそこには何かの破片も、建設跡もなく、一本の電信柱が立っているだけの見慣れた風景が広がっていた。そうだ・・これが本来のこの場所だ・・これで合っている・・俺が幼少の頃から慣れ親しんだ風景・・元々こんな場所にラーメン屋などなかったのだ・・・そうだ昨日は夜で、今とは景色が違う・・疲れていたし、どこか他の場所と見間違えたのかも知れない・・・いやまて、こんな視界の広い見慣れた地域で他と見間違えるか?・・俺はこれでもジャーナリストとして空間把握能力には自信がある。いくら八年振りだったとしても、それはありえない・・・じゃあ一体、俺は昨晩何を食べて腹を満たしたんだ?

 もし、今朝十年振りぐらいに実家のトイレで出した物を、それなりの設備のある研究機関に提出して詳しく調べて貰ったら、とんでもない世紀の大発見になったかも知れないが、それこそまさに水の泡、今となってはどうする事も出来ない。・・しかし思い出してみると、自分の人生において似たような事が何度か遭った気がする。確か小2の頃、同級生のたけ坊が夏休み中に引っ越す事が決まって、まだいると思って夏休みに入ってすぐ、友達とたけ坊を訪ねたのだが、その場所は家ごとごっそりなくなっていた。また東京に出てからも、普段と違うルートで近所の道を一本裏に入ってみると安い床屋を発見したので、これは良いと思って翌日足を運ぶと、なぜか見つける事が出来ずに記憶していた場所には建物自体がなかった。・・これらはきっと誰の身にも起きるタイプの出来事だろう。しかし、それをどう解釈するかはそれぞれに委ねられる。


 たけ坊の家も、安い床屋も、昨日のラーメン屋も本当にあったのかも知れない。いや、もっと言えば今もあるのかも知れない。これはもしかしたら受け取る側の、俺の問題なのかも知れない。人は誰もが「今」しか体感出来ないはずなのに、普段からあまりにも自分が見たと思っている物を信じ過ぎてる気がする。我々は三次元のルールで生きている限り、実際には一秒前も、一秒後も見聞きする事は出来ない。あの時ああだった、これからこうなるだろう、というのは全て記憶と推測という「目に見えないもの」を基準にして算出している。写真や記録があれば証明になる?はたしてそうだろうか。じゃあ写真を見ている時の自分と、次の瞬間の見ていない自分は?結局は写真を見たという記憶を頼りにしなければならない不確定な存在である事には変わりないのだ。だた全てが通り過ぎて行くとしても、体験はどこかに蓄積されているような気がする。これだって推測・・いや憶測なのだが、自分の中か、あるいは外部デバイスの中なのか、保存場所を正確に突き止める事は出来なくとも、俺には俺が体験した全てがどこかに存在している事が分かる。たけ坊の鼻水はいつも風に煽られてほっぺたに付いてカピカピになっていた。窓から覗いた床屋のオヤジのハサミ捌きは、まさに職人といった風情だった。そして昨日のラーメンは、とにかく安くて美味かった。それらのどこかに行ってしまったものたち。それを単に「今」の俺が感知、認識できなくなっただけなのかも知れない。そして、きっとそれでいいのだろう。俺達は多分、日めくりカレンダーのように一瞬一瞬を剥がしては捨て去りながら、それがあたかも連動した動画であるかのように現実を解釈してしまっているだけなのだ。

 俺はそんな事を考えながらとぼとぼとウリ坊おばさんの民宿へ向かっていた。そしていつの間にか、ワープでもしてたんじゃないかと思うほどすぐに到着した。予定より15分は早い。

 相変わらず、やっているのかいないのか分からない宿の敷地に入って行くと、裏の方から何やら笑い声のような物が聞こえた。俺は一旦引き戸を開けて、土間に荷物を置いてから玄関を出て裏口に回ってみた。すると縁側のような所で、驚く事に沢口明菜とウリ坊おばさんが横並びに腰かけて楽しそうに話をしていた。信じられない・・ウリ坊おばさんの笑っている顔を初めて見た。そんな驚愕している俺を見つけて沢口明菜は「おっ、意外と早いじゃん」と言った。



(90)別につかなくてもいい嘘をついた。


「キミの方こそ」と俺は言った。

 おばさんは俺の姿を見るなりいつもの険しい表情に戻って、ウリ坊を抱えたままそそくさと中に入って行った。

「あっ、ほらー、アキちゃん驚いて逃げちゃったじゃん!」と沢口明菜は言った。

「アキちゃん?」

「そうだよ、あの人の名前ノダアキコだからアキちゃん。アタシは芸名だけど明菜だから(二人共アキちゃんだねー)って言って盛り上がってたのに」

 もちろん俺は近所の人間だから苗字は知っていたが下の名前まではさすがに知らなかった。沢口明菜の人の懐に入り込む能力は先天的な物なのか、それとも(チェンジ)によって得たモノなのだろうか・・・。

「別に驚かした覚えはないけどな」

「そうだけど、アキちゃんは繊細で恥ずかしがり屋なんだよ」

 だったら客商売などやらなければいいのに・・と言いそうになったが、俺は「随分仲がいいんだね」とセリフを変えた。

「まぁね、ちょっと最近おばあさんの相手をするのに慣れただけ」

「ん?」

「いいの、気にしないで」

「そうか」

「でも、エルビスには触らせてくれなかったよ」

「エルビス?」

「あの猪のこと。」

「えっ、あれエルビスって言うのか!」

 驚いた・・ウリ坊の名前は田吾作とか権瓶じゃなくエルビスだったのか・・意外と言うかなんと言うか・・・しかし、あのエルビスは何代目のエルビスなんだろう?

「あれなんて言っちゃだめだよ、アタシ触ろうとしたらブチ切れられたんだから」

「あはは、やっぱり気難しいな。ところで宿帳記入はまだだろう?」

「何それ?チェックインならもうしたよ、支払いは現金のみらしいからまだしてない、アタシカードしか持ってないから。」

「わかった」

「じゃあ部屋で待ってるね」

 そう言いながら明菜は縁側から中に入った。俺は馬鹿馬鹿しい気持ちになりながらもまた玄関の方へと引き返した。


 部屋に案内されると9畳ほどの一間だった。もちろん畳の和室だ。沢口明菜は低いテーブルの前で座布団に座り、携帯電話をいじっていた。「マジ?電波弱すぎんだけど」

 ここで彼女と二人か・・まいったな・・俺が頭を掻いていると、ノダさんがウリ坊を置いてお茶を持って来てくれた。

「宿代は出る時でええから現金でな。アンタらタヌキじゃろ?」

「えっ!ここタヌキ出んの?!」と沢口明菜は言った。

「違う、素泊まりの客の事だよ。」と俺は応えた。どうせ昨夜無理やり部屋を開けさせたんだ、食事だって大したものが出るわけがない。

「タヌキの3倍でええな」

「はい、それでいいです」

「トイレは廊下の突き当り、風呂はその右、左が台所。客はアンタらだけじゃから全部好きな時に使ったらええ。あとはワシとお手伝いがいるがそこのは使わん。」

 一応従業員は他に一人いるのか。

「アンタら東京から来たんじゃってな。土地勘ないじゃろうから言っておくが表の道を左に少し歩くと小さな個人商店が一軒あるが、それ以外この辺には何もない。それと景色がいいからと言って西の山の方には入らん方がええ。そっちは隣のW町の管轄で過疎化してる集落もあるでな、よそ者が嫌いなんじゃ。飯食いに行くんならK町の駅の方へ行きなされよ」

 そうか、ウリ坊おばさんは俺がこの土地の人間だとは気づいてないんだ。

「分かりました。」

「アキちゃんエルビスは?」と、沢口明菜が唐突に訊いた。

「その辺走っとるよ。そろそろ昼の散歩の時間じゃから」

「えっ!それアタシもついて行っていい?」

「別に構わんが・・触るなよ」

「うん。やったー、カズちょっと行ってくるね、イイコで待ってて」

 そう言って沢口明菜はウインクをすると、ウリ坊おばさんと一緒に元気に部屋を出て行った。俺は一人座布団に座ってお茶を飲みながら一緒に出された薄皮まんじゅうを食べてみたが、朝飯にしては余りに味気ないなと思った。


 荷物を解き、軽装に着替えるとバッグの中で携帯が鳴った。出てみると「ねぇー、ボクのこと完全に忘れてるでしょう?」と彼女のような口ぶりでアリスが言った。

「いや、そんな事はないよ、今もメッセージを打とうとしていたんだ」と、俺は別につかなくてもいい嘘をついた。

「ほんと?じゃあ以心伝心だね!」

 俺は特にそれには答えず「ご飯はちゃんと食べてるか?」とまるで父親のような事を言った。

 アリスも同じことを思ったようで「はい、お父さん」と答えた。「そっちは?」

「いや、それが今日は朝からまともな物を食べてないんだ」

「ダメだよ、ちゃんと食べないと。もうお昼だよ、元気出ないじゃん」と俺の方が叱られてしまった。

「そうだな、これからちょっと食料の調達にでも行ってくるよ。今泊まっているところには勝手に使える台所があるらしいから・・」そう言いながら俺は廊下を出て、水回りのある場所に行った。台所には一通り調理器具と食器が揃っていたが全て年期が入っていて、まるでいつからそこにあるのか分からない商店街の布団屋のようだった。これは使う前に煮沸した方が良さそうだ。

「実家にいるんじゃないの?カズさんの料理、久しぶりに食べたくなっちゃったな」とアリスが言った。

「ああ、今は訳あって古い民宿に泊まってる。帰ったらまたカレーでも何でも作ってあげるよ」

「ホント?!やったー・・・あ、でも訳あってって、なんかお家に居づらい理由でもあるの?家族喧嘩とか兄弟喧嘩とかしたんじゃないといいけど・・・」

 俺の周りには勘のいい人間が多すぎる。迂闊な事を口走るとすぐに無駄な心配をかけてしまうのだ。

「あ、いやいやそういうわけじゃないんだ、ただちょっと実家よりも動きやすい場所に移動しただけでね。まぁ元々兄貴とはそんなに話すわけじゃないから喧嘩もしない。心配はいらないよ」

「そっか・・・ボクには兄弟も家族もいないからさ・・施設の人が家族といえば家族だけど・・・まぁそれはカズさんが知ってるとおりだし・・久しぶりに会った家族とカズさんがギクシャクしてないといいな」

「大丈夫」ギクシャクはしているんだが。

「喧嘩できる兄弟がいるのは羨ましいけどやっぱり仲良くしてね」

「ああ、なるべくそうするよ」

「でもボクはカズさんの事をお兄ちゃんだと思ってるよ」

「光栄だけど、叔父さんだろ?」

「まだオジサンじゃないよ」

 そうか、音だけで聴けば叔父さんもオジサンも同じなのか・・・。

「ちょっとデリカシーのない質問をしてもいいかな?」

「うん、何でもどうぞ、お兄ちゃん」

「キミには俺以外に気の置けない人間はいるか?施設内でも学校でも・・あんまり良くない職業の・・例えば組の関係者でもいい、仲が良いとは言えなくても緊急の時に連絡が取れるような信じられる相手だ」

 実際的に距離がある今は、もしアリスに何かあっても俺にはどうする事も出来ない。もしものケースの対応を今のうちに考えておきたかった。

「・・・いないよ・・そんな相手・・」

「じゃあ俺が帰るまでに何かあった場合、最悪警察に連絡するしか・・・」

 しかし警察にアリスが保護されれば施設に戻される事は目に見えている。それでも命の保証が出来ればそれでいいのか?・・・。

「警察に助けて貰ったら、ボクは施設に帰らされるよ。それは死ぬよりつらいかも知れない」

「?」

「カズさんは知らないだろうけど、脱走を試みた子たちがどんな目に遭わされるか・・ましてやボクみたいに面会に来る親族もいない天涯孤独の身で、施設の裏の仕事にも関わっていたような子供には酷い懲罰が待っているんだ・・ボクはラッキーな事にまだその体験はしていないけど、良くない事を外にバラされたりでもしたら施設の人が困るからね、一回でも逃げた人間には二度とそんな気が起きなくなるほど酷い事をされるんだよ・・・」

「そうか・・・」

 きっとアリスと似た境遇の子供たちがそれまでにも何人かいたのだろう。

「・・・あっ!・・でも、もしかしたら一人いるかも!」

「えっ?!」

「友達!・・いや、友達って言うのはおこがましいんだけど・・連絡できる人?」

「どういういう事だい?」

「雲の上の人って感じだから・・・でも、いいのかな、これ言って」

「もったいぶるなよ」

 俺は和室に戻り、さっきと同じ場所に座った。

「実は去年ね、知り合い・・というかお金持ちのお客さんなんだけど・・に紹介されて、あるアーティストのミュージックビデオに出たんだ」

「なんだって?!」

「ほら、ボクこんな見た目でしょ?やっぱり何て言うか、自分で言うのも変だけどアルビノを芸術的に捉える人もいるんだよね。だからもっと前にもファッションモデルみたいな事もしたことがあって・・」

「そうなのか・・」

「それでロックシンガーのジョニー・あおいっていう人の曲のビデオに出たんだ。知ってる?」

「ああ、名前ぐらいは。日本人で初めてのグラミー賞を獲った歌手だろう?まさか、そのジョニー・蒼と友達なのか?」

「まさか、違うよ!でも、同じぐらいスゴイかも。・・そのMVで共演した人でね・・知ってるかな、最近はドラマとか映画とかにも出てる、沢口明菜っていうアイドルの子なんだけど・・・ボク、今もメールのやり取りをして時々電話もしてるんだ。明菜ちゃんはボクの事を友達だって言ってくれたんだよ」

 東大、その日暮らし・・じゃない、灯台下暗しとはこの事か。地球は丸いが広さは四畳半ぐらいなのかも知れない。

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