幸せの香り(下)
◆ 水無瀬紗弥 ◆
「はーい」
私が玄関の扉を開けると、キャリーケースと全身黒のゴスロリチックな服を身に纏った少女が立っていた。身長的に中学生? いや小学生……かも?
「えーと……」
「どちら様ですか!」
いきなり威嚇するように投げられた言葉に私は思わずたじろぐ。
それ私のセリフなんですけど! これ尋ねられた側じゃなくて尋ねてきた側が言うことあるの? 浮気現場なの!? 誰よその女!
「私はこの家のメイドなんですけど……」
「メイド? なにそれ聞いてないんだけど!」
「えーと、それより用件は……」
ワーワー、ギャーギャー騒ぎ立てる童女に困り果てていると、リビングの扉がかたりと開く音がする。
「どうしたの水無瀬さん」
私がその声に振り返ると途端に童女が静かになった。瞬間、私の横を黒い影が素早くすり抜けた。
「ただいま! 帰ってきたよ——兄さん」
童女は天海くんに飛びつくと、嬉しそうに頭を胸にぐりぐり擦り付ける。ていうか、兄さん!?
私は目を見開いて説明を求める視線を天海くんに送る。けれどそれは虚しくも届かず、天海くんの視線は懐の童女に釘付けだ。
「おま……若菜、帰ってきてたのか」
「はい、昨晩こっちに着きました。家へは始発で。というより、兄さん今お前って言おうとしましたね。お仕置のぎゅーです」
そういうと若菜と呼ばれる童女はさらにがっしり体に抱きつき、ぎゅーぅとあざとく声を出しながら上目遣いで天海くんの瞳を見つめる。
天海くんは苦笑しながらも優しい表情で「おかえり」と軽く頭を撫でると、思い出したように私に向き直る。
「ごめん水無瀬さん、紹介するね。こいつ妹の若菜」
フリルのスカートを翻し、たたっと振り返ると若菜ちゃんは上品に微笑みながら左手を差し出してきた。
「天海若菜です。兄がお世話になってます」
「み、水無瀬紗弥です。よろしく」
差し出された手に応じ軽く握手を交わすと、若菜ちゃんはもう一度ニコリと笑う。
最初はびっくりしたけど、案外普通の礼儀正しいいい子なのかも。ちょっとブラコンかもだけど。
私はくすくすと漏れ出た笑いを隠すように握られた手に視線を向ける。小さくてすべすべで思わず頬擦りしたくなってしまう。
なんてことを考えていると、なにか冷たいもので刺されたような。悪寒が走りパッと顔を上げると、そこにはさっきまでと変わらないニコニコと笑顔を浮かべた若菜ちゃんが不思議そうに首をかしげる。
「2人は先に中入ってて、僕はこのキャリーケース片してから行くからさ」
若菜ちゃんは「兄さんありがとう」と先んじてリビングへ入っていく。私もその後に続きリビングへと足を向けた。
フレンチトーストの甘い香りの余韻がまだ残るリビングで、テーブルを囲う私たち3人。廊下側の面に私、向かいに天海くん。そしてその隣に若菜ちゃんが座る。
「改めまして、妹の天海若菜です。今年15歳です」
15歳……ってことは中学3年生か。天海くんとは2つ違いなんだ。
「水無瀬紗弥です、よろしくね。私のことは紗弥って気軽に呼んでくれていいから」
お互い改めて自己紹介を終えると、天海くんがさらに補足を入れてくれる。
「水無瀬さんとはクラスメイトでもあるんだけど、住み込みのメイドのアルバイトもしてて、僕の身の回りの面倒を見てくれてるんだ」
若菜ちゃんはへぇと感嘆の声を漏らすと少し照れくさそうにはにかむ。
「なーんだ、てっきり兄さんの彼女さんかと思っちゃった」
っ……彼女だなんて……。なんて可愛くていい子なの!? 妹にしたい!
「それに……」
若菜ちゃんは体をくねくねくねらせ、手で両頬を包むようにしながらちらっと上目遣いで言う。
「そのメイド服もそういう……プレイなのかなって」
プレイ……。
ぼっと火がついたかのように顔が熱くなる。プレイだなんてそんな、えっ……ち。
見れば天海くんも一目でわかるほど顔を真っ赤にしている。
「わか、お前、一体どこでそんな言葉を……!」
「わたしだってもう15ですよ。プレイボーイとチェリーボーイの区別だってつきます」
最近の子はませてるな、なんて。一応私も今をときめく女子高生のばすなんだけど。そんなババくさいことを思ってしまった。
こほんとわざとらしい咳払いをした天海くんがてかと話を別の方向へ向ける。
「帰ってくるの言ってくれたら迎えにぐらい行ったのに」
「兄さんを驚かそうと思って。大成功でしょ」
にししとイタズラな笑みを浮かべる若菜ちゃん。可愛い。
「まあそれはいいとして、いつまでこっちにいるんだ」
「ずっと」
「「ずっと?」」
私たちの声が揃う。ずっとって……ずっと?
「あたし一応向こうで中学卒業したし、いい節目だと思って。それに向こうの生活はつまんなかったしね。兄さんがいないから」
ばちこんとあざといウインクを天海くんにかます若菜ちゃん。っていうか中学卒業って? まだ7月も終わってないんですけど。あと向こうって?
私が混乱しているのに気づいた天海くんがこれまた補足を入れてくれる。
「実はこう見えて若菜はめちゃくちゃ頭良くて、中1の冬から向こう——アメリカに留学してたんだ」
「アメリカ……」
中学生で海外留学なんてすごい。なんか私とは別世界のお話みたい。
感心している私にまあと若菜ちゃんが付け加える。
「留学とは名ばかりでほとんど研究室に籠って論文読んでただけですけどね」
「というと?」
「あー若菜は学びに行くための留学じゃなくて、研究をするための留学というか……」
「研究?」
「なんか小学生の頃から度々賞を取っていたら、アメリカの偉い大学からぜひうちの研究室に来ないかって招待されたみたいな」
天海くんもあんまりわかっていない様子だったけど、若菜ちゃんがまあそんな感じですっていうからそうなんだろう。うん。
「てか話を戻すけど、ずっとってここに住むってことか」
「そだよ。だってわたしの家だもん」
「それはそうだけど……。学校はどうするんだ? 中学に戻るにしても手続きとか」
「あーその辺は大丈夫」
若菜ちゃんはとっておきとばかりにまだ未発達な胸元を漁るとそこから一通の封筒を取り出す。
「わたし2学期から兄さんと同じ高校に1年生として編入するから。はいこれ推薦状」
編入って。ここに住むってことはつまり——私と天海くんの二人っきりの生活が終わるってこと。終わりは突然——それこそ私たちが別れた時のように何の前触れもなく訪れるというけれど、まさか始まった瞬間に終わるなんて。まるで本を開いた瞬間に休み時間が終わったような。そんなやるせないきもちが胸の中を埋め尽くす。
そんな私を他所に若菜ちゃんは日本のコーヒーも案外いけますねと優雅にカップに口をつける。
ちょっとごめんと私に断りを入れ席を立った天海くんがスマホを片手に自室へと続く階段を駆け上がっていくのを見送り、私と若菜ちゃん二人だけの空間に沈黙が訪れた。
カチャとコーヒーカップが置かれた音に顔を上げるとふぅと息を吐いた若菜ちゃんが私に向きなおる。
「さて、水無瀬紗弥さん——」
その雰囲気はさっきまでの年相応の幼さなどみじんも感じさせないほど静かで、そして暗い。私はカラカラの喉からなんとか言葉を絞り出す。
「わ、若菜ちゃん……?」
「気安くファーストネームで呼ばないでくれますか」
そのとげとげしい物言いに思わず口を噤む。
「水無瀬紗弥さん。今後兄さんには近づかないでいただけますか」
「え……」
それはどういう……。
けれどその言葉を投げるよりも先に若菜ちゃんが嘆息混じりに冷たく鋭い視線で私を刺す。
「最後まで言わないとわかりませんか?」
ごくりと自分の生唾を飲む音がいやに響く。まるで今から裁判の判決でも下るかのような、そんな緊張感。けれど、そんな空気などこれっぽっちも感じていない若菜ちゃんは軽く、けれど今までで一番あざとい笑顔を浮かべると私にとっての死刑宣告を告げる。
「あなたを解雇します」
「解……雇」
その言葉に私は心の中で膝から崩れた。
夏休み初日。たくさんのたのしみと約束とそして淡い期待が詰まった私たちの生活は突如あっけなく終わりを迎えたのだ。
気づけばさっきまでリビングに漂っていたフレンチトーストの甘い香りはいつの間にか消えていた。




