第四話 藤士朗①
今日は月が明るい。
夜半過ぎ、ほとんど獣道に近い山路を歩きながら、藤士朗〈トウシロウ〉は空を見上げた。
春の訪れを聞いて久しいが、今夜は随分と冷え込む。正に〈花冷え〉、時折生えている夜の山桜は、しんと冷たい空気の中で昼日中以上に凛と咲き、音も無く花弁を散らしていた。
その真上に浮かぶ月が、今日は一際明るかった。明日に満月を控えた小望月とはいえ、今夜の光は格別だ。枝を掻き分ける自身の手の皺すら、はっきりと見える。
殆ど家出同然で実家を出てきた身の上としては、何とも居心地が悪かった。
藤士朗の実家は和ノ花国・創設神である花弥神〈ハナミノカミ〉を祀る藤ノ家〈トウノケ〉、所謂〈神社〉であり、国内でも指折りの名家として知られていた。当然祈祷やお祓いを生業としているわけだが、藤士朗にはそれらがどうにも肌に合わなかった。
例えば他国では医術が日々進歩し、解剖学やら外科手術やらと聞こえてくるのに、我が国で治療といえばまず祈祷だ。もう死を待つしかないくらい手の施しようがなければ、神に救いを求めるのも大いにわかる。だがそうではないならば、まず策を講じるべきは治療だろう。
我が国では神職の力が強すぎる。ゆえに人々は神に縋り医術を軽視し、結果学問として発展しないのだ。そう常日頃から藤士朗は思い、一族と対立していた。
そして遂に今日、20年間溜まりに溜まった鬱憤が彼の中で爆発し、出奔するに至ったわけだ。
「しかし流石に……疲れた」
家を出てからもう半日以上たつ。ここまで来たらもう追ってはこないと思いたいが、一族をあげて捜索でもしていたら厄介だ。優秀な兄が三人もいるのだから、家業に反抗的な四男坊など放っておいてほしいものだが。
と、視線の先が急に開けてきた。少し歩いた先が、木々のない平地になっているようだ。
ここ数時間はずっと登りの山道だったため、そろそろ脚が限界だった。今日はそこで休むことにしよう……そう考えて坂を登り切り、平地に足を踏み出した。
瞬間、息が止まった。
平原の真ん中に、一人の少女が佇んでいた。
見たことのない淡い金色の髪が、何に遮られることもなく、月明かりを一身に浴びて燦々と輝いている。透き通りそうなほど白い肌も、深い青が散った濃紺の瞳も、ぞくりとするほど妖しく美しかった。
だが、藤士朗が息を呑んだのは、それらが理由ではない。
彼女の小さな右手に握られた、不釣り合いなほど長く鋭い太刀が、深紅の鮮血にじっとりと濡れていたからだ。
鋒から滴る鮮血は彼女の足元にどろりと溜まり、彼女はまるで紅の池に浮かんでいるかのようだった。
薄若芽色の着物まで赤く染まっているものだから、酷い怪我を負っているのかとも考えたが、恐ろしいほど静かな彼女の表情を見るに、どうやら何者かの返り血のようだ。
つまり。彼女が〈何か〉を切り倒したのか。
声をあげるのも忘れて見入っていた藤士朗だったが、無意識に後退りしたのか、着物の裾が草木にあたり、かさりと音をたてた。
その音で、ぼんやりと空を漂っていた彼女の瞳が、真っ直ぐと藤士朗を捉える。
瞬間、二人の間に〈風〉が吹き抜けた。
周囲の桜が音も無く、一斉に花弁を舞い上がらせる。それらは彼女の金色の髪をもすり抜け、やがて赤い血の池に吸い込まれていった。
見入っていたのではない、〈魅入っていた〉のだ。
そう気付いた時には、彼女がゆっくりとこちらに近づいてきていた。
心の臓が激しく高鳴り、耳を揺らす。
何か、何か言わなければ。
そう繰り返すほど何の言葉も浮かばなくなっていく藤士朗の心を読んだのか、彼女が薄く微笑む。
「貴方は、どなた?」




