第3話
リジェは酷く波に怯え
決して波打ち際に近づこうとしなかった。
ありすに抱かれながら
小刻みに身体を震わせて
じっと海を見続けた。
震えがずっと止まらないことに気づいたありすが
もしかしてリジェは相当に
海が怖いのではないかと思い、
優しくリジェに声をかけ
家に帰ろうと海に背を向けたその時、
リジェはそれに激しく抵抗し
ありすへと威嚇の声をあげたのだ。
驚いたありすが強引に
リジェを押さえ込もうとしたその時
リジェはありすの腕に爪を立て
あっ・・と思ったありすに
確かに 確かに 次には
彼女の眸に向けて、その爪を向けたのだ。
寸でのところで、ありすがそれを躱さなければ
彼女の頬についた細い線は
間違いなく右の眸を傷つけていたことだろう。
「痛い!」
悲鳴と同時に
ありすの腕からこぼれ落ちるように
砂へと落ちたリジェは
ありすを振り返ることなく、ただ海へと向かい
彫刻のようにじっと 微動だにせず
寄せては返す波を いつまでも見つめ続けた。
闇があたりを少しずつ包み始め
波の音だけが規則的にありすの耳に運ばれるほかは
一切の音という音を断ち切ったかのように
不気味なほどの静寂が襲い来る。
ありすは何度もリジェに帰りを促したのだが
リジェはありすの言葉などまるで耳に入っていないようで
それでも抱き上げようとすれば
激しく威嚇をして、ありすを寄せ付けようとせず
そのくせ、ありすがわざとリジェを置き去りにして
海を立ち去ろうとすれば
にゃぉ・・ん にゃぉ・・んと
憐れな声で ひたすらにありすを引き止めるのだった。
ありすは、ほとほと途方に暮れてしまい
暗闇と空腹とで泣き出したい気持ちになった。
家を出て行ったまま、帰ってこないありすを心配して
父親が迎えに来てくれなかったら
ありすは恐らくいつまでも
海を後にすることができなかったことだろう。
すっかり冷え切った身体を温めるように
父親が自販機で買ってくれた
温かな缶コーヒーを掌で包み込むように持ち
一口、二口と啜るにつれ
ようやく人心地ついた助手席で
ありすは改めてリジェを見つめた。
後部座席。リジェは背を向けていた。
母親の手作りの
まぁるい苺の飾りが2つついた
ティッシュボックスケースに凭れかかるようにして。
すっかり陽の落ちた町。
家々の灯りがぽつぽつと灯り始め
オレンジ色の街灯がぼんやりと傘をつくり
細かな虫がその傘を
奪い合うように飛び交っている。
車は坂道をゆっくりと登っていく。
海は少しずつ遠くなり
いつか建物の陰にすっぽりと隠れ
見えなくなった。
それでもリジェは
見えない海へと向かい
いつまでも視線を逸らすことなく
背を向けてじっと座っている。
「お父さんも、引っ掻かれちゃったね。」
運転する父親の左腕に
3本の線が、細く紅く滲んでいる。
車に乗せようと強引に
父親がリジェを抱き上げた際
リジェが彼に向け放った一撃だ。
「おまえの頬の傷も、リジェかい?」
ありすの右頬にもくっきりと斜めに細く
紅い筋が走っていた。
街灯のオレンジ色が
ゆっくりとぼやけていくのを感じていた。
あの日、リジェは波に弄ばれる
小さな毛糸玉のようだった。
ほんの僅か時間が違えば
ありすはリジェを
恐らくは見つけ出すことができなかっただろう。
あの海で出逢ったリジェ。
小さなリジェ。
ありすの帰りをいつでも俟って
嬉しそうに足元に擦り寄っては、
温かく迎えてくれるリジェ。
柔らかなそのミスティオフホワイトの毛と
ネイビーグリーンの悪戯な眸で
ありすの顔を覗きこんでは
甘えたように にゃおんと啼く
可愛い 可愛い リジェ。
急にありすの心を
耐え難き寂寥が襲った。
ありすは缶コーヒーを握り締め
声を上げ 激しく泣いた。
それは多分
小さなリジェと 小さなありすの間にある
目に見えない確かな何かを
ありすが初めて感じ取った
悲しい瞬間だったのだろう。




