第9話 根こそぎ失った特権
第9話 根こそぎ失った特権
離婚訴訟の期日を翌日に控えた夜、幸子は食卓いっぱいに書類を広げていた。月五万円しか渡されなかった頃の家計簿、透真が退職を知らせてきたメッセージ、双子のDNA鑑定書、美津子の発言を聞いた人たちの陳述書が、日付順に並んでいる。端が茶色く汚れた最初の家計簿を開くと、冷蔵庫に卵が二つしかなかった日の記録も残っていた。
台所では、翌朝のために作った豚汁が弱火にかかっていた。ゴボウとみその匂いが部屋へ広がり、干したばかりの双子の肌着が暖房の風に揺れている。まなとはんなは隣の部屋で折り紙をしていたが、襖の向こうから何度も幸子の様子を見ていた。
「ママ、明日も裁判所へ行くの?」
まなが青い折り紙を持ったまま、食卓の横へ来た。はんなも後ろからついてきて、幸子の膝へ顎を載せる。幸子は書類を閉じ、二人の顔を見た。
「うん。明日で、大切なことが決まるかもしれないの」
「パパと離婚すること?」
「それもあるよ。それから、みんなが暮らすためのお金を、パパがどのように払うかも決めてもらうの」
「離婚したら、パパはもうパパじゃないの?」
「ママと夫婦ではなくなるけど、まなとはんな、湊と樹のお父さんであることは変わらないよ」
「じゃあ、逃げちゃ駄目だね」
「そうだね。大人は、自分で決めたことに責任を持たないといけないからね」
幸子は子どもたちを寝かせたあと、豚汁の火を止めた。一条から電話が入り、明日は提出した証拠の確認に加え、裁判所から和解の可能性について話があると告げられる。透真側は、判決で詳細な事実を認定されることを恐れ、条件を受け入れる姿勢を見せ始めていた。
「急に和解したいと言い出したのは、なぜですか?」
「財産隠しや養育放棄について、裁判所から厳しい指摘を受けたからでしょう。判決まで進めば、透真さんに不利な事実が明確に記載される可能性があります」
「謝るつもりになったわけではないんですね」
「今の段階では、損失を小さくしたいという考えが強いように見えます。ただ、理由が何であれ、子どもたちの生活を守れる条件でなければ応じる必要はありません」
「お金だけ払って、また逃げられるのが怖いです」
「支払いが滞った場合に、改めて一から裁判をしなくても強制執行へ進める内容にします。透真さんの勤務先と収入も明らかにさせます」
翌朝、幸子は紺色のワンピースに白いジャケットを重ねた。はんなが選んだ桃色の髪留めをつけ、朝食には昨夜の豚汁と焼きおにぎりを食べる。以前と違い、幸子の皿にも大きなおにぎりが二つ載っていた。
「ママ、今日は全部食べたね」
「今日は長くなるかもしれないからね」
「帰ったら、プリン食べよう」
「冷蔵庫に四つしかないよ」
「赤ちゃんは半分ずつだから、足りるよ」
幸子は子どもたちをクラブのママへ預け、家庭裁判所へ向かった。玄関を出ると、昨夜の雨で空気が湿り、植え込みの土から濃い匂いが上がっていた。書類を入れた鞄は重かったが、以前のように足元が揺れることはなかった。
裁判所の待合室には、一条が先に来ていた。紺色の背広の膝へ書類鞄を置き、売店で買った小さなあんパンを二つ持っている。幸子が朝食を食べてきたと話すと、一条は一つを自分のポケットへ入れ、もう一つを昼食用に渡した。
「先方は、こちらの主な条件を受け入れると言っています」
「主な条件というのは?」
「未払い婚姻費用の残額、慰謝料、離婚後の養育費です。まなさんとはんなさんとの養子縁組も継続し、四人全員について父親としての責任を負うことを確認します」
「透真は、また二人を連れ子だと言っていませんか?」
「当初は言っていました。しかし、戸籍と自分で書いた手紙を前にして、その主張は維持できませんでした」
「財産を隠したことは?」
「解決金の算定や支払方法を決める際に考慮されています。移された預金や不動産持分についても、内容を明らかにさせました」
法廷へ入った透真は、以前より一回り小さく見えた。量販店で買ったような黒いスーツを着て、左手首には時計がない。新品のブランド靴ではなく、かかとのすり減った黒い革靴を履いていた。
透真は幸子を見たが、すぐに顔をそらした。隣には別の弁護士が座り、何度も書面の内容を確認させている。透真は読まずに署名しようとして、弁護士から最後まで読むよう止められた。
「毎月の養育費、本当にこの額を払い続けるんですか?」
「あなたの収入と四人のお子さんの生活を考慮した金額です」
「俺の家賃もあるんですけど」
「子どもたちにも家賃と食費があります。現在の勤務先から得ている収入も確認されています」
「もっと安い金額になりませんか」
透真の弁護士が小声で注意した。これ以上争えば、婚姻費用を逃れるための退職、関連会社を利用した報酬隠し、財産移転について、判決で厳しい判断を受ける可能性がある。透真は何度も唇を舐め、最後に署名欄へ名前を書いた。
成立した和解には、離婚のほか、未払い婚姻費用、慰謝料、解決金、四人分の養育費が明記された。毎月の支払日と振込先も決まり、勤務先が変わった場合には速やかに知らせることになった。支払いが滞れば、幸子が強制執行を申し立てられる形も整えられた。
面会については、透真が長期間子どもたちと接しておらず、まなとはんなが父親を怖がっていることも考慮された。すぐに二人きりで会わせるのではなく、まず第三者機関を通じて手紙を送り、子どもたちの様子を見ながら段階的に検討する。湊と樹についても、子どもの負担を最優先にすることが確認された。
「俺は父親なのに、会うのに他人の許可がいるんですか?」
透真は納得できない様子で尋ねた。裁判所から、面会は親の都合を満たすためではなく、子どもの利益を守るために行うものだと説明される。透真は椅子へ深く座り、返事をしなかった。
別に進められていた美津子との争いも、解決へ向かった。美津子が親族や取引先へ事実と異なる噂を広めたこと、透真の財産移転へ関与したことについて、複数の証拠がそろっていた。美津子は公開の場で詳しい経緯を争うことを避け、謝罪文の提出と解決金の支払いを受け入れた。
謝罪文には、双子の父親が分からないと発言したことは事実に反しており、幸子と子どもたちの名誉を傷つけたと書かれていた。美津子は同じ文書を、噂を伝えた親族と取引先にも送る。二度と同様の発言をしないことも約束した。
「この謝罪文で、許さなければいけませんか?」
手続きが終わったあと、幸子は一条へ尋ねた。一条は眼鏡を外し、レンズについた小さな埃を布で拭く。廊下の自動販売機から、誰かが缶コーヒーを買う音が聞こえた。
「許すかどうかは、和解条項にはありません。美津子さんには、自分の発言が事実ではなかったと訂正する義務があります」
「土下座されたときも、許してほしいとは言われました。でも、何を悪かったと思っているのか分かりませんでした」
「謝罪は、受け取る側に忘れる義務を負わせるものではありません。幸子さんは、今後同じことをされないための約束が守られるかを見てください」
神崎家の会社では、さらに大きな処分が進んでいた。税務調査の結果、不適切な経費処理と申告漏れが指摘され、追徴分を納めることになった。取引銀行は新規融資を縮小し、複数の取引先も契約の見直しを求めた。
隆一は会社を立て直すため、美津子に協力した役員を解任した。実体の薄い関連会社は整理され、採算の悪い不動産も売却される。透真が使っていた高級車や、美津子が会社の応接用として購入した宝飾品も処分された。
美津子が暮らしていた屋敷も売却の対象になった。広い庭には専門の庭師が入り、玄関には季節ごとに新しい花が飾られていたが、維持費だけでも毎月大きな金額がかかる。会社の資金を確保するため、隆一は売却を決めた。
引っ越しの日、美津子は使用人のいなくなった食堂で、一人で朝食を食べていた。白い皿には焦げたトーストと、黄身の崩れた目玉焼きが載っている。自分で入れた紅茶は薄く、いつも使っていた薔薇のティーカップにも茶葉が浮いていた。
「この家まで売るなんて、私にどこで暮らせというの」
隆一は新聞を畳み、テーブルの端へ置いた。美津子のために、二部屋あるマンションが用意されている。生活に困る広さではなかったが、屋敷の十分の一にも満たなかった。
「自分の収入で維持できる家に住め」
「私は神崎家の妻ですよ」
「その名前を使って、会社の金を自由にしたのは誰だ」
「私は、透真の将来を守りたかっただけです」
「そのために、四人の子どもの食費を奪ったのか」
美津子は答えず、冷めたトーストへバターを塗った。力を入れすぎてパンに穴が開き、皿の上へ細かな屑が落ちる。以前なら使用人を呼んで取り替えさせていたが、もう呼んでも誰も来なかった。
離婚成立後、幸子が裁判所の玄関を出ると、透真が後ろから追いかけてきた。曇った空から弱い雨が降り、透真の黒いスーツへ小さな水滴がつく。一条が間へ入ろうとしたが、幸子は少し離れた場所で話を聞くと答えた。
「待ってくれ。少しだけ話したい」
「書類に書かれたことなら、一条先生を通してください」
「そうじゃない。子どもたちのことだよ」
「何ですか」
「俺が悪かった。子どもたちに会わせてくれ」
透真は頭を下げた。しかし、なぜ悪かったと思うのかも、子どもたちへ何を伝えたいのかも口にしない。幸子は鞄の持ち手を握り、すぐには答えなかった。
「まなは今でも、あなたが帰らなかったのは自分が悪い子だったからかと聞きます」
「そんなこと、俺は言ってない」
「何も言わずにいなくなったから、あの子は自分で理由を探したんです」
「俺だって、いろいろあったんだ。母さんに言われて……」
「また、お義母さんのせいにするんですか」
透真は顔を上げた。何か言い返そうとしたが、幸子の後ろに一条が立っていることに気づき、口を閉じる。幸子は首を横に振った。
「謝る相手は私ではありません。あなたが捨てた四人の子どもです」
「だから、会って謝りたいんだよ」
「会えば自分が楽になるからではありませんか。子どもたちが安心して会えるかを考えましたか」
「父親が子どもに会いたいと思うのは普通だろ」
「父親なら、まず決められた責任を果たしてください。手紙も、第三者機関を通すと決まりました」
「いつになったら、普通に会えるんだよ」
「会う資格があるかどうかは、これからの行動で示してください。私が決めるのではなく、子どもたちが安心できるかどうかです」
幸子は一条と並び、透真から離れた。透真は追ってこなかった。振り返ると、裁判所の玄関前で一人立ち、濡れた革靴の先を見ていた。
帰宅すると、部屋には甘いカラメルの匂いが広がっていた。クラブのママがプリンを皿へ出し、湊と樹には柔らかい部分を小さなスプーンで食べさせている。まなとはんなは玄関まで走り、幸子の両腕へしがみついた。
「ママ、決まった?」
「うん。離婚が決まったよ」
「もう、お金がなくならない?」
「パパが毎月払うことになったよ。もし払わなかったら、今度はすぐに手続きができるようにしてもらったの」
「パパ、何か言ってた?」
幸子はジャケットを脱ぎ、桃色の髪留めを外した。食卓には五つのプリンが並び、一つだけスプーンの跡がついている。はんなが味見をしたと白状し、ママが一番小さいものを選んだのだと笑った。
「みんなに会いたいって言ってたよ」
「会うの?」
「すぐには会わないよ。まなたちが怖くない方法を、一条先生たちと考えてからね」
「会いたくないって言ってもいい?」
「いいよ。会ってみたいと思ったときも、ちゃんと言っていい。大人のために我慢しなくていいんだよ」
まなはうなずき、冷蔵庫から幸子のプリンを出した。幸子が一口食べるまで、四人の子どもたちは待っていた。甘く少し焦げたカラメルが舌へ広がると、はんなが今日のプリンは何点かと尋ねた。
「百点。みんなで食べられたから、百点だよ」
その夜、幸子は離婚成立の書類を、家計簿や鑑定書と一緒に新しいファイルへ綴じた。透真と美津子は、金があれば責任から逃げられると信じ、家族も会社も自分たちの都合で動かしてきた。その特権は失われ、残ったのは、支払うべき金額と自分たちが残した記録だった。
幸子はファイルを戸棚へしまい、床に落ちていた子どもの靴下を拾った。四人の寝息を一人ずつ確かめ、明日の朝食用に米を研ぐ。離婚は人生の終わりではなく、子どもたちと安心して朝を迎えるための、最初の片づけだった。




