第10話 母親の人生は奪えない
第10話 母親の人生は奪えない
離婚から四年後の春、幸子は午前五時半に店の裏口を開けた。白いシャツの袖を肘までまくり、紺色のエプロンを腰へ巻く。前日の雨で湿った道路の匂いに、店内から漂うコーヒー豆と小麦粉の匂いが混じっていた。
店の名前は「四つ葉」にした。駅から十分ほど離れた商店街の外れにある、二十席だけの小さなカフェだった。入口の看板はクラブの黒服だった青年が作り、壁の淡い緑色は元同僚たちが休日に塗ってくれた。
豪華なシャンデリアも、磨き上げた大理石の床もない。少し高さの違う木の椅子が並び、窓際には近所の人から分けてもらった鉢植えが置いてある。奥には、子どもたちが宿題をするための大きな机と、ランドセルを四つ並べられる棚も作った。
「幸子、パンが焼けたわよ」
厨房から、クラブ「花扇」の元同僚だった千鶴が顔を出した。白い調理帽の下から赤く染めた髪が少しはみ出し、頬には小麦粉がついている。オーブンを開くと、丸パンの甘い匂いが店内へ一気に広がった。
「きれいに膨らんだね」
「昨日は塩と砂糖を間違えたから、今日は三回確認したもの」
「あれはあれで、お酒のおつまみにはなったよ」
「ここは昼のカフェです。朝から酒のつまみを作ってどうするの」
二人で笑いながら、焼き上がったパンを籠へ移した。幸子は一つだけ形の崩れたパンを半分に割り、千鶴と分ける。外側は香ばしく、中はまだ熱くて、指で押すと白い湯気が上がった。
開店準備が進む頃、二階の住居から子どもたちが下りてきた。九歳になったまなは水色のトレーナーにジーンズを合わせ、長い髪を自分で一つに結んでいる。七歳のはんなは靴下を片方だけ履き、四歳の湊と樹は同じ恐竜柄のパジャマで階段を競争していた。
「走ったら転ぶよ」
「湊が先に走った!」
「樹が押したんだよ!」
「どちらが先でも、階段では歩く。朝からけがをしたら、パンを食べる時間がなくなるよ」
その言葉で、双子は急に静かになった。二人は手すりを持って一段ずつ下り、最後の一段だけ同時に飛び降りる。幸子は注意しようとしたが、二人が得意そうに顔を見合わせているのを見て、口元を緩めた。
朝食は焼きたてのパン、スクランブルエッグ、昨夜の残りの野菜スープだった。はんなはパンへ苺ジャムを厚く塗り、湊は卵だけを先に食べる。樹はスープのニンジンをまなの皿へ移そうとして、すぐに見つかった。
「樹、ニンジンも食べなきゃ駄目だよ」
「まなちゃん、好きでしょう?」
「好きだけど、これは樹のニンジンです」
「半分なら食べる」
「じゃあ、お姉ちゃんも半分手伝う。次は一人で食べようね」
以前、食パン一枚を半分に割り、妹へ大きい方を渡していたまなは、今も弟たちの世話をよくした。しかし、自分のパンまで譲ることはなくなった。食べ物がなくなる心配をせず、好きなジャムをもう一度塗れるようになっていた。
「お母さん、今日のおやつは?」
はんなが牛乳の白いひげをつけたまま尋ねた。幸子は布巾で口元を拭き、ショーケースに並べる予定のプリンを指した。形が崩れたものが一つだけあるため、四人で分けると答える。
「一個を四人で分けるの?」
「残りはお店で売るものだからね」
「昔みたいだね。何でも半分にしてた」
「今は、お腹が空いたら丸パンを食べていいよ。ただし、何個食べたかは帳面に書いておいてね」
「湊、昨日三個食べたよ」
「樹も三個!」
「二人で六個もなくなった理由が、やっと分かりました」
店の壁には、子ども用の小さな帳面が吊るしてあった。パンやジュースを取ったときは、丸印を一つ書くことになっている。まだ字の書けない双子は、ときどき丸ではなく恐竜を描き、千鶴が数を数えられずに困っていた。
午前八時、幸子のスマートフォンへ銀行から入金通知が届いた。毎月同じ日に振り込まれる、四人分の養育費だった。幸子は金額を確認し、店の売上とは別の家計簿へ記入する。
透真は配送会社で正社員として働いていた。養育費は勤務先を通じて決められた金額が確実に支払われる形になっている。実家からの小遣いに頼っていた頃とは違い、自分で働いた給与から四人の子どもの生活を支えていた。
「パパからのお金?」
まなが幸子の隣に立ち、画面を見た。以前なら大人の顔色をうかがうように尋ねていたが、今は普通の口調だった。幸子は家計簿を閉じ、まなへうなずいた。
「今月も、約束どおり入っていたよ」
「それで、私の給食費も払うの?」
「給食費も、洋服も、病院も、これから学校で必要になるものも払うよ。みんなのためのお金だからね」
「お母さんが裁判に勝った賞金じゃないの?」
「違うよ。お父さんが子どもを育てるために払う、当たり前のお金。復讐でも賞金でもないよ」
「じゃあ、お礼を言わないと駄目?」
「約束を守ったことは大切だけど、生活に必要なお金を受け取るのに、まなが頭を下げる必要はないよ」
まなは少し考え、店の奥にある自分の机へ向かった。ランドセルから連絡帳を出し、忘れていた宿題を始める。鉛筆を削る音の横で、はんなは双子の髪を順番にとかしていた。
同じ朝、透真は配送センターの休憩室で、コンビニのおにぎりを食べていた。紺色の作業服には洗濯で薄くなった会社名が入り、靴の先には泥がついている。以前のような腕時計はなく、壁の時計で出発時間を確認した。
給与明細には、養育費に充てられる金額が記載されていた。手元へ残る金は多くなかったが、家賃と食費を払えない額ではない。透真はおにぎりの包装を畳み、ごみ箱へ捨てた。
「神崎さん、今日の午後便、二件追加になったけど大丈夫?」
「はい。昨日みたいに住所を間違えないよう、先に地図を見ておきます」
「子ども四人いるんだって?」
同僚に尋ねられ、透真は一度口を閉じた。以前なら、別れた妻の連れ子だと言っていたかもしれない。しかし今は、胸ポケットに四人の名前を書いた紙を入れている。
「はい。娘が二人と、双子の息子がいます」
「にぎやかでいいな」
「今は、一緒には暮らしていません」
透真はそれ以上話さず、配送先の住所を確認した。昼食代を節約するため、保温ボトルには自分で作った麦茶を入れている。母親が差し出す五十万円も法人カードもなかったが、今月の養育費は遅れずに払えた。
透真から子どもたちへは、第三者機関を通じて、三か月に一度手紙が届いていた。最初の手紙には「会いたい」「父親だから会う権利がある」とばかり書かれ、子どもたちは返事をしなかった。幸子も、返事をするよう勧めなかった。
二年目になると、透真の手紙から要求する言葉が減った。まなとはんなへ、突然いなくなったことで二人が自分を責めたと知り、それは違うと書いてきた。双子には、生まれたときに会いに行かなかったことを謝り、自分のしたことを言葉で理解できる年齢になったら説明すると約束した。
まなは一度だけ、短い返事を書いた。
《お金を払うだけじゃなくて、逃げない人になってください》
透真から届いた次の手紙には、言い訳が書かれていなかった。《分かりました》という一文と、仕事を一年続けたことだけが記されていた。まなはその手紙を自分の机の引き出しへ入れたが、会いたいとはまだ言わなかった。
美津子も、以前とはまったく違う暮らしをしていた。屋敷を手放したあと、駅から離れた二部屋のマンションへ移った。会社への立ち入りは許されず、役員報酬もなくなり、隆一から受け取る決められた生活費の範囲で暮らしている。
朝食は、自分で焼いた食パンとインスタントコーヒーだった。慣れないトースターで端を黒く焦がし、バターを塗ったときにパンへ穴を開ける。流しには昨夜の皿が二枚残り、洗濯物はソファの背へかけたままだった。
「どうして私が、こんな暮らしをしなければならないのよ」
口にしても、答える使用人はいない。薔薇の香水を手首へつけようとしたが、瓶は空になっていた。以前と同じ品を買うには、今月の食費を削らなければならなかった。
美津子は何度か、幸子へ直接手紙を送ろうとした。しかし和解で決められた連絡方法に反するため、すべて一条の事務所から返送された。孫に会わせてほしいという要求も、子どもたちの生活へ干渉しないことが先だと伝えられた。
美津子が失ったのは、食べ物や住む場所ではなかった。神崎家の名前を出せば誰もが従い、金を置けば人の決意まで買えるという特権だった。小さなマンションでも生活はできたが、そこでは自分で汚した皿を、自分の手で洗わなければならなかった。
午前十時になると、「四つ葉」の開店時間が近づいた。千鶴はスープの塩加減を確かめ、元黒服の青年は店の前を掃く。クラブのママは開店祝いにもらったエプロンをつけ、レジの釣り銭を数えていた。
「ママは夜の店があるでしょう。毎日来なくても大丈夫ですよ」
幸子が言うと、ママは一万円札を千円札へ両替しながら鼻を鳴らした。自分は客としてコーヒーを飲みに来ているだけで、手伝ってはいないと言い張る。けれど、腰には店の名前が刺繍されたエプロンを巻いていた。
「客なら、レジのお金を触らないでください」
「小銭が足りなかったのよ」
「それを手伝うと言うんです」
「では、コーヒー一杯で釣り銭を数える権利を買います」
「そんな権利は、メニューにありません」
二人が言い合っている横で、まなは店の看板を持ち上げた。白いシャツの上に緑色の子ども用エプロンを着ていたが、肩ひもがねじれ、胸元が斜めになっている。幸子は入口まで行き、曲がったひもを直した。
「お母さん、聞いてもいい?」
「どうしたの?」
「学校で、家族のことを書いたの。お父さんと一緒に住んでいないって書いたら、友達に捨てられたのって聞かれた」
まなは看板の脚を何度も開いたり閉じたりした。道路ではパン屋の配達車が止まり、金属のケースを運ぶ音が響いている。幸子は看板を一緒に持ち、まなの顔を見た。
「まなは、何て答えたの?」
「分からないって言った。お父さんは家からいなくなったから、やっぱり私たちが捨てられたのかなって」
「違うよ」
幸子は、まなのエプロンの結び目を固く直した。昔のように、足りない牛乳や短くなった袖を心配しながら暮らす必要はない。後ろを振り返ると、はんなが弟たちへ開店前のパンを配っていた。
「捨てられたのは、家族を大切にできなかった人のほう。私たちは、自分たちの暮らしを取り戻したの」
「お父さんは、私たちを大切にできなかったの?」
「あのときは、できなかった。今は、その責任を果たそうとしている途中だよ」
「いつか会ってもいい?」
「まなが会いたいと思ったときは、安全な方法で会えるよ。会いたくない間は、無理に会わなくていい」
「お母さんは、会ってほしい?」
「まなに決めてほしい。お母さんのために、どちらかを選ばなくていいんだよ」
まなはしばらく考え、看板を店の前へ置いた。少し傾いたため、下に薄い木片を挟んで真っすぐにする。店名の下には、まなが考えた「おなかと心が温かくなる店」という文字が書かれていた。
「今日は、お店を手伝う。お父さんのことは、また考える」
「うん。急いで答えを出さなくていいよ」
「でも、お給料はください」
「では、看板とテーブル拭きで百円です」
「パンも一個つけて」
「交渉が上手になったね」
入口の扉を開けると、春の柔らかな風が店内へ入った。焼きたてのパン、野菜スープ、挽いたコーヒーの匂いが外へ流れる。近所の老夫婦と、ベビーカーを押した母親が、開店を待って立っていた。
「いらっしゃいませ」
まなとはんなが声をそろえた。湊と樹もまねをしたが、片方は「いらっしゃいました」と言い、もう片方は頭を下げすぎて床へ手をついた。店内に笑い声が広がった。
幸子は四人の子どもを見てから、白い扉を大きく開いた。透真も美津子も、幸子たちから時間を奪い、食べ物を削り、家族としての安心まで壊そうとした。それでも、母親の人生も、子どもたちの未来も、最後まで奪うことはできなかった。
食卓のパンは、もう誰か一人が我慢しなくても足りていた。冷蔵庫には牛乳が入り、四人分の靴は玄関へ並び、奥の机にはそれぞれの居場所がある。幸子はエプロンの紐を結び直し、子どもたちと一緒に新しい一日の仕事を始めた。




