エピローグ 五つ目の椅子
エピローグ 五つ目の椅子
カフェ「四つ葉」が開店してから一年が過ぎた。店の入口には、まなが描いた四枚の葉の絵が飾られ、窓際の鉢では白い花が咲いている。幸子は白いブラウスに緑色のエプロンをつけ、朝からタマネギを刻んでいた。
鍋の中では、店の人気メニューになった野菜スープが湯気を上げている。千鶴は丸パンへ照り卵を塗りながら、今日の予約表を確認していた。日曜日の午前十一時、窓際の五人席だけが「貸し切り」と書かれている。
「本当に、今日会わせるの?」
千鶴はオーブンの温度を確かめながら尋ねた。幸子は切ったタマネギを鍋へ入れ、木べらで炒める。甘い匂いが立ち始めるまで、返事を急がなかった。
「まなが会いたいと言ったの。はんなも、お姉ちゃんと一緒なら会ってみたいって」
「双子は?」
「二人には、手紙をくれるお父さんが来ると説明したよ。嫌になったら、すぐ二階へ戻っていいとも言ってある」
「幸子は大丈夫?」
「私は、お店の人として同じ部屋にいる。一条先生が紹介してくれた支援員さんも来てくれるから」
店の奥では、子どもたちが五人席を整えていた。十歳になったまなは、白いシャツに紺色のスカートを合わせ、自分で髪を編んでいる。八歳のはんなは黄色いカーディガンを着て、紙ナプキンを何度も折り直していた。
五歳になった湊と樹は、同じ赤い靴下を履いていた。湊はスプーンを右へ置き、樹は左へ置く。まなが直しても、目を離すとまた反対になっていた。
「スプーンは、どっちでも食べられるよ」
樹が言うと、湊も大きくうなずいた。まなは口元を押さえて笑い、二人のスプーンを皿の上へ置く。はんなは五つ目の椅子を見たまま、エプロンの端を指へ巻きつけていた。
「お姉ちゃん、パパは怖い人?」
「前は、怒った声を出してた」
「今日も怒ったらどうする?」
「支援員さんが帰ってもらうって。それに、ママもいるよ」
「はんな、会わない方がよかったかな」
「今からやめてもいいんだよ。会うって言ったから、絶対に会わないと駄目なわけじゃないって、ママが言ってた」
はんなは少し考え、紙ナプキンを五つ目の皿の横へ置いた。帰りたくなったら途中で帰ると決める。自分で決めたことで肩の力が抜けたのか、巻きつけていたエプロンの端を離した。
十一時の五分前、店の扉が開いた。透真は紺色の作業服ではなく、白いシャツと黒いズボンを着ていた。手には小さな紙袋を提げ、支援員の女性と一緒に入口で立ち止まった。
「いらっしゃいませ」
幸子は、ほかの客へ向けるのと同じ声で言った。透真は頭を下げ、靴底についた雨水を入口のマットで拭く。高価な腕時計も指輪もつけていなかった。
「今日は、時間を作ってくれてありがとう」
「お礼は、子どもたちへ言ってください。会うと決めたのは、あの子たちです」
「分かってる」
「紙袋は何ですか?」
「四人に本を一冊ずつ買ってきた。支援員さんに確認してもらっている」
幸子は支援員がうなずくのを見てから、透真を五人席へ案内した。透真は子どもたちの前に立ったが、すぐには座らなかった。まなとはんなは黙って見上げ、双子は二人そろって首をかしげている。
「久しぶり。まな、はんな」
「お久しぶりです」
まなが答え、はんなも小さく頭を下げた。透真は双子へ目を向ける。二人の顔を交互に見たあと、どちらが湊か分からず、名前を呼べなかった。
「こっちが湊で、僕が樹」
樹が自分から名乗った。湊は、今日は同じ服ではないのに分からないのかと尋ねる。透真は困ったように眉を下げた。
「ごめん。二人が生まれたときに会いに行かなかったから、まだ分からないんだ」
「どうして来なかったの?」
「自分のことばかり考えて、逃げたからだよ」
「お仕事だったんじゃないの?」
「違う。行こうと思えば行けた。でも、行かなかった。お父さんが悪かった」
透真は椅子へ座る前に、四人へ頭を下げた。母親に言われたからとも、仕事が大変だったからとも言わなかった。子どもたちはすぐに返事をせず、下げられた頭を見ていた。
幸子は厨房から、野菜スープと丸パンを運んだ。透真の前にも同じものを置く。湯気の向こうでニンジン、ジャガイモ、キャベツが柔らかく煮え、焼きたてのパンからバターの匂いがした。
「お父さん、ニンジン食べられる?」
湊が尋ねた。透真は何でも食べられると答え、スープのニンジンを一つ口へ入れる。樹は自分の皿に入っていた大きなニンジンを、透真の皿へ移した。
「じゃあ、これもあげる」
「樹、自分で食べなさい」
幸子が注意すると、透真は笑いそうになった。しかし子どもたちがまだ緊張していると気づき、口元を引き締める。ニンジンを半分に切り、樹の皿へ戻した。
「半分ずつ食べよう」
「お父さんも、ニンジン嫌いなの?」
「子どもの頃は嫌いだった。今は食べられるよ」
「じゃあ、樹も五歳だから食べられる」
樹は半分のニンジンを口へ入れ、何度も噛んだ。湊も負けないように自分の分を食べる。食卓から少しだけ力が抜け、スプーンが皿へ触れる音が続いた。
食事の途中、まなが透真へ尋ねた。
「養育費は、これからも払いますか?」
「払う。仕事が変わっても、必ず連絡する」
「お母さんに怒られるから?」
「違う。四人が受け取るお金だから」
「前は、払わなくていいと思ってたでしょう」
「思ってた。無職になれば逃げられると思ってた」
「今は?」
「仕事を辞めても、父親を辞めたことにはならないって分かった」
まなは透真の顔を見てから、パンを一口食べた。すぐに許すとも、次も会うとも言わない。けれど、以前のように自分のせいで父親が消えたのかとは尋ねなかった。
一時間の面会が終わると、透真は持参した本を一冊ずつ渡した。まなには料理の本、はんなには植物の図鑑、双子には恐竜の絵本を別々に選んでいた。二人に同じ本を渡すとけんかになると、以前の手紙で幸子から知らされていたからだった。
「次も来ていい?」
透真は子どもたちへ尋ねた。まなは支援員の女性を見て、今日のように決められた場所なら考えると答える。はんなは、次までに手紙を書いてほしいと言った。
「何を書けばいい?」
「今日食べたニンジンのこと。忘れたら、もう会わない」
「分かった。忘れないように、帰ったら書く」
湊と樹は、透真よりもらった恐竜の絵本に夢中だった。帰る透真へ手を振ったのは、はんなだけだった。透真はそれでも呼び止めず、店の入口で一度頭を下げて外へ出た。
扉が閉まると、まなは長く息を吐いた。はんなは五つ目の椅子を元の場所へ戻し、双子は本を持って奥の机へ走る。幸子は透真が使った皿を重ね、残ったスープを確認した。
「お母さん、会ってよかったと思う?」
まなが尋ねた。幸子は皿を持ったまま、すぐには答えなかった。透真の椀には、ニンジンもキャベツも残っていなかった。
「お母さんが決めることじゃないよ。まなは、どうだった?」
「まだ分からない。でも、私が悪かったんじゃないって、本人の口から聞けた」
「うん」
「次に会うかは、手紙を読んでから決める」
「それでいいよ」
幸子は皿を流しへ運び、ぬるくなった湯で洗った。窓際には子どもたちの水筒が四本並び、奥の机には途中まで解いた宿題が広がっている。以前の暮らしが消えたわけではないが、もう誰かの言葉に家族の価値を決めさせる必要はなかった。
夕方、店を閉めると、幸子は売れ残った丸パンを六つ袋へ入れた。二つは明日の朝食にし、四つは子どもたちが一つずつ持つ。はんなは自分のパンを半分に割ろうとしたが、幸子が一人一個あると教えると、そのまま大きくかじった。
「お母さんのパンもある?」
「あるよ。今日は千鶴さんが、七個残してくれたから」
「一個余るね」
「それは明日のスープに入れようか」
「もったいないから、今食べてもいい?」
「晩ご飯が入らなくなるよ」
四人が順番に話す声を聞きながら、幸子は店の看板を中へ入れた。外では雨が上がり、濡れた商店街に夕方の光が反射している。幸子は四人の子どもと二階へ上がり、鶏肉と大根を煮た鍋の火をつけた。
透真を許すためでも、美津子を見返すためでもなく、幸子は明日のパンを焼き、子どもたちの服を洗い、家計簿をつけて暮らしていく。奪われかけた日々は戻らないが、その先の人生まで渡す必要はなかった。食卓には六つの椀が並び、今夜も四人の子どもが、どの椅子に座るかで騒いでいた。




