第8話 百万円の土下座
第8話 百万円の土下座
土曜日の昼、幸子は台所で四人分のコロッケを揚げていた。差し押さえで回収できた婚姻費用から食材を買えるようになったが、子どもたちが好きなジャガイモ料理は今も食卓によく並ぶ。油の弾ける音に混じり、居間では湊と樹が積み木を奪い合って泣いていた。
「まな、赤ちゃんたちを見てくれる?」
「どっちが取ったの?」
「最初に持っていたのは湊。でも、同じ積み木がもう一つあるよ」
「樹、こっちも赤だよ。お兄ちゃんのを取ったら駄目」
まなが樹へ別の積み木を渡すと、二人の泣き声が止まった。はんなは食卓の椅子へ座り、コロッケが揚がるたびに数えている。水玉模様のエプロンには、先ほどつまみ食いしたキャベツの千切りが一本ついていた。
「ママ、今ので六個だよ」
「はんな、数えるのが上手になったね」
「はんなは二個食べる。まなも二個。ママは一個で、赤ちゃんが半分ずつ」
「ママも二個食べます。赤ちゃんたちは、つぶしたジャガイモを食べようね」
「じゃあ、足りないよ」
「まだ台所に四個あるよ。今日は、おかわりしても大丈夫」
はんなは安心して、ソースの瓶を食卓へ運んだ。以前は食べ物が残り何個あるかを数え、妹へ大きい方を渡していたまなも、今では自分の皿に二個載せられる。幸子は最後のコロッケを油から上げ、新聞紙を敷いた皿へ置いた。
呼び鈴が鳴ったのは、揚げ油の火を消した直後だった。宅配便だと思い、幸子は白い割烹着で手を拭きながら玄関へ向かう。覗き穴の向こうには、黒い帽子をかぶった美津子が立っていた。
幸子は扉を開けず、インターホン越しに用件を尋ねた。美津子は話がある、五分で済むと言う。手には大きな革のバッグを持ち、何度も廊下の左右を見回していた。
「お話は、一条先生を通してください」
「弁護士には聞かせられない話なの。あなたにとっても悪い条件ではないわ」
「直接の交渉には応じません。お帰りください」
「ここまで来た人間を、玄関先で追い返すつもり?」
「事前の連絡もなく来たのは、お義母さんです」
美津子は扉を強く叩いた。音に驚いた樹が泣き、まなとはんなが居間から顔を出す。幸子は二人を寝室へ戻し、テレビを見ているように告げた。
「おばあちゃん?」
まなが小声で尋ねた。幸子はうなずき、襖を閉める。すぐにスマートフォンの録音を開始し、一条へ美津子が訪ねてきたという短いメッセージを送った。
美津子は廊下で大声を出し始めた。近所の扉が開く音が聞こえ、このままでは子どもたちが怖がる。幸子は扉のチェーンをかけたまま少し開き、一条へ連絡したので勝手な話はできないと告げた。
「分かったわよ。弁護士に聞かれて困ることは何もないわ」
「では、一条先生の事務所で話しましょう」
「今ここで話すと言っているの!」
美津子は扉の隙間へ靴を差し込み、体を押し入れた。幸子が後ろへ下がると、チェーンが外れ、美津子は玄関へ入ってくる。濡れた黒いコートから冷たい雨と強い薔薇の香水の匂いが漂った。
「勝手に入らないでください」
「こんな狭い部屋で、子どもを四人も育てているの? これでは透真が帰りたくなくなるのも当然ね」
「帰らなくなったのは、部屋の広さが理由ではありません」
「あなたが裁判だの差し押さえだのと騒いだからでしょう」
美津子はパンプスを脱ぎ、来客用のスリッパを自分で出した。居間へ入ると、干してあった双子の肌着を邪魔そうに押しのける。幸子は子どもたちが寝室から出てこないよう襖を閉め直し、食卓の向かいへ座った。
揚げたてだったコロッケは少しずつ冷め、衣に油が染み始めていた。美津子は食卓の皿を見て、庶民的な食事ねと鼻を鳴らす。しかし以前のような余裕はなく、口紅は端が崩れ、真珠のネックレスもつけていなかった。
「それで、ご用件は何ですか」
「これを受け取りなさい」
美津子は革のバッグから、銀行の帯がついた札束を二つ取り出した。白い食卓の上へ置くと、紙とインクの乾いた匂いが油の匂いに混じる。幸子は札束に触れず、スマートフォンの録音画面を確認した。
「百万円あるわ。これで訴えを取り下げなさい」
「どの手続きのことですか」
「全部よ。差し押さえも、離婚の話も、会社の金について騒ぐのもやめなさい」
「税務調査は、私が始めたものではありません。私がやめてと言って、終わるものでもありません」
「あなたの弁護士が余計な資料を出したのでしょう。会社まで潰されたら困るのよ」
幸子は美津子の手を見た。淡い桃色のマニキュアはところどころ剥がれ、右手の人差し指には絆創膏が巻かれている。美津子は膝の上で指を組んだり離したりしながら、幸子の返事を待っていた。
「子ども四人を捨てろと言ったとき、あなたは五十万円を出しました。今度は自分の生活を守るために百万円ですか」
「五十万円では少なかったことは認めます。だから倍にしたのよ」
「金額の問題ではありません」
「だったら、いくら欲しいの! 二百万? 三百万?」
「あなたから欲しいものはありません」
「欲がないふりをしないで。元はお金のために男へ酒をついでいた女でしょう」
寝室で何かが落ちる音がした。幸子は襖の方を見たが、子どもたちは出てこない。美津子の声が聞こえていると分かり、幸子はさらに低い声で話した。
「私は働いて、お客様からお給料をいただいていました。子どもの生活費を隠した人に、お金のことで侮辱される理由はありません」
「私は、透真を守ろうとしただけよ」
「妻と四人の子どもから逃げる方法を教えることが、守ることですか」
「あの子は、あなたと結婚してからおかしくなったの」
「透真さんは二十九歳です。退職届へ署名したのも、婚姻費用を払わなかったのも、会社のお金を使ったのも本人です」
「母親なら、息子を助けるのは当然でしょう!」
「私も母親です。だから、四人の子どもの権利を守ります」
美津子は札束を幸子の前へ押し出した。帯がコロッケの皿へ当たり、細かな衣が食卓へ落ちる。幸子は札束ではなく皿を引き寄せ、油染みを布巾で拭いた。
「百万円を受け取り、離婚届へ署名しなさい。そうすれば、あなたも楽になるでしょう」
「百万円を四人で分ければ、一人二十五万円です。子ども一人の二十年近い生活を、二十五万円で終わらせるつもりですか」
「今後のことは、あなたが働いて何とかすればいいでしょう」
「透真さんにも、父親として決められた責任を果たしてもらいます」
「透真には、もうお金がないのよ!」
「働ける体があります。あなたの会社で仕事をしていた実績もあります」
「給料を差し押さえられたら、あの子が暮らせないでしょう!」
「差し押さえにも、生活を守るための範囲があります。透真さんは、子どもに何も残さず、毎月五十万円を使っていました」
美津子は唇を震わせ、両手で食卓を叩いた。寝室から樹の泣き声が聞こえ、続いて湊も泣き始める。まなが二人をあやし、はんなが覚えたばかりの子守歌を歌っていた。
「子どもたちが怖がっています。もうお帰りください」
「まだ話は終わっていないわ」
「一条先生を通さない交渉には応じません。お金も持ち帰ってください」
「私を追い返せば、後悔するわよ」
「最初に同じ言葉を言われたときも、私は離婚届へ署名しませんでした。今も後悔していません」
幸子は立ち上がり、玄関の扉を開けた。外から湿った冷気が入り、食卓の上に置かれたレシートを揺らす。美津子は札束を見たまま動かなかった。
「お願いよ」
先ほどまでの強い声が急に小さくなった。美津子は椅子を離れ、幸子の前まで歩く。そして、玄関の床へ膝をついた。
「私が悪かったわ。だから、会社を助けてちょうだい」
幸子は美津子を見下ろした。高価な黒いスカートの裾が、子どもたちの濡れた靴で汚れた床へ触れている。美津子は額を下げたが、口から出るのは会社と自分を助けてほしいという言葉だけだった。
「子どもたちへしたことを謝っているのではないんですね」
「謝っているでしょう。こうして頭まで下げているじゃない!」
「何について謝っているんですか」
「だから、会社に迷惑をかけたことで……違うわ、あなたに嫌な思いをさせたことでよ」
「湊と樹の父親が分からないと、取引先へ言いふらしたことは?」
「あれは、私も透真から聞いただけで……」
「まなとはんなを連れ子と呼び、家から追い出そうとしたことは?」
「あなたが素直に離婚していれば、そんな言い方はしなかったわ」
「婚姻費用から逃げるため、透真さんを退職させたことは?」
「それは、あの子も納得していたのよ」
幸子はそれ以上尋ねなかった。美津子が床へ膝をついても、考え方は何一つ変わっていない。頭を下げれば、相手が折れ、都合の悪い結果を消してくれると思っているだけだった。
「立ってください。私は、土下座をしてほしいわけではありません」
「では、許してくれるの?」
「許す、許さないの話ではありません。したことの責任を取ってください」
「これ以上、私に何をしろというの!」
「透真さんの収入を隠さず、会社の帳簿を正しく出してください。虚偽の噂を広めた相手には、自分の言葉で訂正してください。法律で決められた手続きに従ってください」
「そんなことをしたら、私は全部失うわ」
「私たちから全部奪おうとしたとき、同じことを考えましたか?」
美津子は顔を上げた。化粧の崩れた頬へ、短い髪が張りついている。幸子が手を差し出さないと分かると、自分で壁につかまり、ゆっくり立ち上がった。
札束をバッグへ戻す手は震えていた。美津子は片方のスリッパを脱ぎ忘れたまま玄関へ下り、幸子に指摘されてから足元を見る。高価なパンプスを履き直し、最後に振り返った。
「あなた、本当に恐ろしい女ね」
「私は、子どもたちの生活を守っているだけです」
「いつか必ず後悔するわ」
「その言葉は、録音されています。今後は、一条先生を通してください」
美津子は目を見開き、何か言いかけた。しかし廊下で近所の女性と目が合うと、黒い帽子を深くかぶり、足早に階段を下りていった。幸子は扉の鍵をかけ、チェーンも二度確認した。
寝室を開けると、まなが泣いている樹を抱き、はんなが湊へ絵本を読んでいた。二人とも昼食には手をつけていない。幸子は双子を受け取り、娘たちと一緒に食卓へ戻った。
「おばあちゃん、ママにごめんなさいしたの?」
「言葉では謝ったよ。でも、自分が何を悪かったと思っているのか、まだ分かっていなかったみたい」
「土下座したら、許さないと駄目なの?」
まなの問いに、幸子は冷めたコロッケを皿へ載せ直した。オーブントースターで温めると、油とジャガイモの匂いが部屋へ戻ってくる。幸子はまなの皿へ二個、はんなの皿へ二個、自分の皿にも二個置いた。
「頭を下げたからって、何でもなかったことにはならないよ。本当に悪かったと思うなら、まず壊したものを直さないとね」
「おもちゃを壊したときと同じ?」
「そう。ごめんなさいと言って、直せるなら直す。もうしないようにする。それが大事なの」
「おばあちゃん、直してくれるかな」
「それは、おばあちゃんが決めること。私たちは、私たちの暮らしを守ろうね」
幸子は一条へ録音を送り、美津子が現金を持参して手続きの取り下げを求めたことを報告した。札束には触れず、受け取らなかったことも伝える。電話を終える頃には、コロッケがまた少し冷めていた。
幸子はソースをかけ、一口食べた。衣は揚げたてほど軽くなかったが、中のジャガイモにはまだ温かさが残っている。玄関の床には美津子が膝をついた跡が残っていたが、幸子は雑巾で拭き取り、子どもたちの小さな靴を元の場所へ並べた。




