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第7話 差し押さえられた王子様

第7話 差し押さえられた王子様


透真が婚姻費用の審判に従わないまま、未払いは五か月分に達した。幸子は毎月の支払日になると銀行口座を確認し、入金がない画面を印刷した。食卓の横に置いたファイルは厚くなり、表紙には湊がミルクを吐き戻した薄い染みが残っていた。


その朝も、透真からの入金はなかった。幸子は湊を背負い、樹を膝に載せたまま、前日の炊き込みご飯を小さなおにぎりにする。油揚げとニンジンしか入っていなかったが、しょうゆの焦げた匂いに気づき、まなとはんなが寝室から駆けてきた。


「今日は、おにぎりなの?」


「幼稚園から帰ったら食べられるように、小さいのも作っておくね」


「パパのお金は、今日も来なかった?」


「うん。でも、一条先生が手続きをしてくれているよ」


「裁判所の人に怒られないの?」


「約束を守らなければ、困ることになるって教えてもらうの」


まなは俵形のおにぎりへ海苔を巻き、はんなは自分の分だけ梅干しを載せた。幸子は二人の弁当箱を包み、冷めた大根のみそ汁を温め直す。透真が毎晩高級レストランへ通っている間も、この部屋では子どもたちが残った食材を分け合ってきた。


午前九時を過ぎた頃、一条から電話が入った。裁判所から債権差押命令が出され、透真が保有する銀行預金と、神崎アセット管理に対して持つ報酬債権が差し押さえられたという。未払いの婚姻費用を回収するための手続きが、ようやく動き始めていた。


「それで、透真から払ってもらえるんでしょうか?」


「銀行からは預金が存在するとの回答がありました。全額ではありませんが、未払いの一部を回収できる見込みです」


「会社から受け取っていた五十万円はどうなりますか?」


「会社にも命令が送達されています。名前が小遣いでも業務委託料でも、透真さんの仕事の対価なら、会社は事実に基づいて回答しなければなりません」


「お義母さんが、報酬ではないと答えたら?」


「虚偽の回答を重ねれば、会社側の立場が悪くなるだけです。こちらには、透真さんが実際に働いていた資料があります」


幸子は電話を切ったあと、温め直したみそ汁を椀へ注いだ。安心した途端に空腹を感じたが、樹が泣き始め、また箸を置く。透真から生活費が届くまで、普段の暮らしが急に楽になるわけではなかった。


その日の午後、神崎アセット管理へ債権差押命令が届いた。美津子は封筒を開くと、社長室の机へ書類を投げ出した。昼食に注文した鰻重は手つかずのまま冷え、甘いタレの表面に脂が白く固まっていた。


「どうして会社にこんなものが届くのよ!」


経理部長は書類を拾い、曲がった角を指で伸ばした。透真への報酬は存在しないと回答するよう命じられていたが、すでに外部の税理士から、事実に反する回答には応じないよう注意されている。経理部長は濃い灰色のスーツの襟を直し、美津子を見た。


「神崎透真さんは、現在も会社の業務を行っています。取引先との会議にも出席し、法人カードも使用しています」


「息子が母親の仕事を手伝っているだけよ」


「それでは、毎月五十万円が社長の口座を経由して支払われている理由を説明できません」


「私が息子へ小遣いを渡して、何が悪いの?」


「会社から社長へ支払われた業務委託料と、同じ日、同じ金額です。税務調査でも、説明を求められると思います」


美津子の指が止まった。数日前、税務署から調査に入るという連絡が届いていた。家族間の問題だと軽く考えていたが、確認の対象には透真の報酬だけでなく、複数の関連会社との取引も含まれていた。


「税務調査は、幸子が頼んだの?」


「誰が情報を提供したかは分かりません。それに、税務署は必要があると判断したから調査するのです」


「書類を整えなさい。透真は無給の手伝いで、五十万円は私個人からの贈与。それで統一します」


「事実と異なる帳簿や契約書は作れません」


「あなたまで私に逆らうの?」


「会社を守るために申し上げています」


経理部長は頭を下げ、社長室を出ていった。美津子は冷めた鰻重の蓋を閉じ、透真へ電話をかける。透真は外国製の高級車を運転中で、軽い音楽が電話の向こうから流れていた。


「今すぐ会社へ来なさい」


「今日は友達とゴルフだよ」


「差し押さえの命令が会社へ届いたの。あなたの口座も調べられているわ」


「母さんが、俺の金は残らないようにしたんだろ?」


「別の口座に移しておいた分が見つかったのよ。あなた、勝手にカードを使っていないでしょうね」


「使ってるよ。今月の支払いも会社でよろしく」


「冗談ではありません。車も返しなさい」


「これは俺が使っていい車だろ。今さら返せって、どういうことだよ」


「税務署に、あなたの私的利用まで調べられるかもしれないの!」


美津子の声が大きくなると、透真は面倒そうに息を吐いた。自分は会社の経理に関わっていないため、すべて母親の責任だと言う。美津子が言い返す前に、電話は切られた。


数日後、神崎不動産と関連会社へ税務調査が入った。会議室には帳簿、請求書、契約書、法人カードの明細が積み上げられる。調査の担当者は、同じ住所にある会社同士で繰り返されていた業務委託費や、実体の分からない広告宣伝費について説明を求めた。


透真が利用した高級レストランやゴルフ場の代金も、取引先との会議費として処理されていた。しかし、参加者の記録はなく、同席していたのは透真の友人ばかりだった。美津子は取引先の名前を挙げたが、確認すると、その会社の担当者は誰も参加していなかった。


「息子が将来の取引先を開拓していたのです。若い人同士の付き合いも必要でしょう」


「神崎透真さんは、無職だと裁判所で説明していると伺っています。会社では、どのような立場だったのですか?」


「正式な社員ではありません。勉強のために、少し手伝わせていただけです」


「それでは、事業開発部長という名刺を持たせた理由は何ですか?」


「形だけです。相手に信用していただくためで……」


「報酬を支払わず、毎月五十万円を社長の口座から渡していたのですね?」


質問を重ねられるたび、美津子の説明は変わった。無職だったはずの透真は会社の仕事をし、報酬ではないはずの五十万円は仕事を始めた時期から支払われている。私用ではないという法人カードで、服や時計まで購入していた。


税務調査が始まったという話は、すぐに取引銀行へ伝わった。銀行は融資の継続条件を見直すため、神崎家の会社へ詳しい説明を求めた。新しく計画していたマンション事業の融資も、調査結果が出るまで保留になった。


それまで会社経営を長男と役員に任せ、表舞台から退いていた義父の隆一が本社へ戻ってきた。隆一は七十歳を過ぎていたが、背筋を伸ばし、古い茶色の鞄を自分で持っている。社長室へ入ると、窓際に置かれた胡蝶蘭の枯れた葉を一枚むしり、応接机へ座った。


「美津子、全部説明しろ」


「大した話ではありません。幸子という女が、透真からお金を取るために騒いでいるだけです」


「その女のせいで、会社が架空経費を計上したのか?」


「架空ではありません。必要な交際費です」


「友人と飲み食いした金が、なぜ会社の経費になる」


隆一は法人カードの明細を机へ置いた。透真が買った腕時計、ブランド靴、ゴルフ用品まで記録されている。時計は会社の備品として処理されていたが、透真が毎日身につけていた。


「透真には、神崎家を継ぐ立場にふさわしい物が必要なのです」


「会社の金で飾りつけなければ、ふさわしく見えない息子なのか」


「あなたは、透真に冷たすぎます。あの子はまだ若いのよ」


「二十九歳で、四人の父親だ。母親の財布に隠れてよい年齢ではない」


そこへ呼び出された透真が、青いジャケットと白いパンツ姿で入ってきた。左手には高価な腕時計をつけ、車の鍵を指で回している。税務調査中だと聞いても、自分は経理を知らないと繰り返した。


「俺は母さんに言われた仕事をしただけだよ。カードも車も、使っていいと言われた」


「妻子の生活費を払わなかった理由は何だ?」


「無職だったから、払えなかった」


「会社の仕事をして、毎月五十万円を受け取っていたのだろう」


「あれは母さんからの小遣いだよ。俺の給料じゃない」


「呼び名を変えれば、責任も消えると思っているのか」


隆一は車の鍵を出すよう手を伸ばした。透真が拒むと、会社名義の車であるため返却しなければ警察へ相談すると告げる。透真は舌打ちし、鍵を机へ放った。


「こんな古い会社、俺が継いでやろうと思ってたのに」


「頼んだ覚えはない」


「俺がいなくなったら困るだろ」


「取引先との会議より、ゴルフへ行く人間がいなくなっても困らん」


隆一は臨時の役員会を開き、美津子を代表取締役から解任する議案を提出した。美津子に協力していた役員も職務を外され、透真には会社や関連会社の業務へ今後一切関わらせないことが決まった。法人カード、高級車、社宅扱いのマンションも返還させることになった。


「あなた、妻を役員から追い出すつもり?」


「妻だからこそ、会社を私物にした責任を取らせる」


「透真はあなたの息子ですよ」


「息子だから、何をしても許すと思うな」


「私たちは、家族を守ろうとしただけです!」


「守ったのは家族ではない。自分たちのぜいたくと嘘だ」


隆一は二人へ、実家からも出ていくよう告げた。美津子は一度も使っていない客間がいくつもあると反論したが、隆一は表情を変えない。会社の帳簿が整理され、責任の所在が明らかになるまで、神崎家の資産を自由に使わせるつもりはなかった。


「会社を私物にしたうえ、子どもの生活費まで隠したのか。今日中に出ていけ」


透真は美津子の方を見た。美津子は助けを求める視線を無視し、真珠のネックレスを外してバッグへ入れる。会社の車が使えなくなったため、二人はタクシーを呼び、別々の場所へ向かった。


その頃、幸子の口座には、差し押さえられた預金から未払い婚姻費用の一部が振り込まれていた。画面に表示された金額を見ても、すぐには信じられない。幸子は一条へ電話し、使っても問題がないかを確認した。


「子どもたちの生活のためのお金です。必要なものに使ってください」


「洗濯機を買ってもいいでしょうか」


「もちろんです。食費や医療費、滞納している幼稚園費も支払ってください」


「全部使わず、少しは残しておきます」


「それができる金額か、家計簿を見てから考えましょう。これまで立て替えてもらったものも返す必要があります」


幸子は最初に米を十キロ、牛乳、卵、鶏肉、豆腐を買った。まなとはんなには、新しい靴下と一足ずつ運動靴を選ばせる。はんなは赤い靴を欲しがったが、値札を見て何度も棚へ戻した。


「はんな、その靴が好きなんでしょう?」


「こっちの白い方が安いよ」


「今日は、好きな方を選んでいいよ」


「赤いの、本当にいいの?」


「うん。いっぱい歩ける靴を選ぼうね」


まなは水色の運動靴を抱え、幸子へ何度も礼を言った。子どもが靴を買ってもらうだけで頭を下げることに、幸子は奥歯を噛んだ。帰宅すると、鶏肉を大きめに切ってカレーを作り、炊きたてのご飯を一人ずつ皿へ盛った。


「今日のお肉、大きいね」


「まなのお皿に三つも入ってる」


「はんなの方は四つだよ」


「数えなくても、まだ鍋にあるよ。足りなかったら、おかわりしてね」


四人の子どもが食べる姿を見ながら、幸子も温かいカレーを口へ運んだ。何か月ぶりかで、子どもの残りではなく、自分のために盛った一皿だった。湊と樹には、柔らかく煮たニンジンを潰して食べさせた。


一方、透真が新しく借りた部屋は、古い木造アパートの二階にあった。家賃は四万円で、六畳の和室には小さな流し台と、黄ばんだ照明しかない。高級マンションから持ち出したのは、二着のスーツと数枚の下着だけだった。


透真はコンビニで買ったカップ麺へ湯を注ぎ、床へ座った。三分待つ間に習慣で左手首を見たが、会社の金で購入した腕時計は返還させられている。高級車も法人カードもなく、銀行口座の預金まで差し押さえられた。


美津子へ電話をかけると、すぐに切られた。もう一度かけると、今度は電源が入っていないという音声が流れる。透真は紙の薄いカップを握り、麺のスープを畳へこぼした。


「母さんが、全部うまくいくって言ったんだろ……」


返事をする人はいなかった。窓の隙間から冷たい風が入り、脱いだ靴下が床の上で転がった。家賃、食費、携帯料金を払うには、透真自身が働くしかなかった。


翌朝、透真は求人情報を開いた。希望条件には、管理職、年収七百万円以上、社用車ありと入力する。しかし職歴を確認した会社から、直近の退職理由と関連会社での立場を尋ねられると、答えることができなかった。


スマートフォンには、一条の事務所から新しい通知が届いていた。今後得る給与についても、未払い分と毎月の婚姻費用を支払わなければ、強制執行の対象になり得ると記されている。透真は画面を閉じたが、通知そのものを消すことはできなかった。


母親の財布へ隠れた王子様は、財布ごと会社から追い出された。もう差し出される車の鍵も、高級時計も、五十万円の小遣いもない。残されたのは、積み上がった支払いと、自分で仕事を探さなければ食べられない暮らしだけだった。


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