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第6話 母親の財布に隠れた無職

第6話 母親の財布に隠れた無職


双子が生まれて三か月が過ぎても、透真は婚姻費用を一円も払わなかった。幸子は朝五時に起き、泣いている湊へミルクを飲ませながら、樹のおむつを足で引き寄せた。台所では昨夜の白菜のみそ汁が冷え、表面に薄い膜を張っていた。


まなとはんなが起きる前に洗濯を終えようとしたが、洗濯機は脱水の途中で止まった。蓋を開けると、双子の肌着と娘たちの靴下が水を吸って重くなっている。幸子は一枚ずつ手で絞り、浴室と窓際へ干した。


「ママ、床がびしょびしょだよ」


黄色いパジャマを着たまなが、廊下にできた水滴を雑巾で拭いた。はんなは眠そうな顔で、左右の違う靴下を履いている。幸子は洗濯機が止まったと説明し、冷めたみそ汁を鍋へ戻した。


「洗濯機、壊れちゃったの?」


「たぶんね。今日は手で洗うしかないかな」


「パパに買ってもらえばいいよ」


「パパは、まだお金を払ってくれないの」


「裁判所の人に言われたのに?」


「そう。だから、今度は払ってもらうための手続きをするよ」


朝食は白菜のみそ汁と、半分に切った納豆を載せたご飯だった。まなとはんなには一膳ずつ盛り、幸子は娘たちが残した分を食べる。湊と樹が交互に泣き出すと、みそ汁はまた冷たくなった。


午前十時、一条から電話がかかってきた。透真の財産や収入について、新しい事実が見つかったという。幸子は双子を近所の一時保育へ預け、まなとはんなが幼稚園にいる間に法律事務所へ向かった。


一条の事務所には、暖房と古い書類の匂いが満ちていた。応接机には厚いファイルが三冊並び、付箋が何十枚も貼られている。事務員が出してくれたほうじ茶の横には、個包装の塩せんべいが二枚置かれていた。


「何か食べましたか?」


一条は幸子の顔を見るなり尋ねた。幸子が朝食を食べたと答えると、一条は塩せんべいを指で押す。朝から子どもの残りしか口にしていないことを見抜かれたようだった。


「白菜のみそ汁と納豆を食べました」


「量を聞いているのではありません。食べたのなら結構です。ただし、そのせんべいは資料を読む前に食べてください」


「先生は、私に食べ物を勧めてばかりですね」


「空腹の依頼人は、悪い条件でも早く終わらせようとします。私は、それを避けたいのです」


幸子は袋を開け、せんべいを半分に割った。固い音が部屋に響き、塩味が舌に広がる。残りの一枚は、まなとはんなへ持ち帰るためバッグへ入れた。


一条は最初のファイルを開いた。中には会社の登記事項証明書と不動産の登記記録が綴じられている。透真が退職した神崎不動産とは別に、美津子が代表を務める「神崎アセット管理」という関連会社があった。


「透真さんは、神崎不動産を退職した直後から、この会社へ出入りしています」


「調停に出した写真の会社ですか?」


「そうです。取引先へのメールでは、事業開発部長を名乗っています。名刺の画像も確認できました」


「でも、透真は無報酬で母親を手伝っているだけだと言っていました」


「無報酬の人に、会社が高級マンションと車を用意するでしょうか」


一条は賃貸借契約に関する資料と、車両の登録情報を示した。透真が暮らしているマンションの契約者は神崎アセット管理で、月額家賃は二十八万円だった。透真が乗っている外国製の車も会社名義で、駐車場代や保険料まで会社が負担している。


さらに、透真が使っている法人カードの支払い記録も提出されていた。高級レストラン、衣料品店、ゴルフ場、会員制ジムで、毎月数十万円を使っている。無職で収入がないと主張する人間の生活とは思えなかった。


「これは、誰が提出したんですか?」


「会社の会計処理に関わっていた人物です。架空の経費を計上するよう指示され、責任を負わされることを恐れて会社を辞めました」


「その人は、大丈夫なんでしょうか」


「本人の希望で身元の扱いには十分注意しています。必要な手続きを経たうえで、証拠として使える形を整えます」


一条が二冊目のファイルを開くと、毎月同じ日に五十万円が動いている表が現れた。神崎アセット管理から美津子名義の口座へ、業務委託料という名目で振り込まれている。その翌日、美津子から透真へ同額が送金されていた。


「会社から直接、透真さんへ払えば報酬と分かります。そこで、いったん美津子さんの口座を通したのでしょう」


「お義母さんからの小遣いに見せるためですか?」


「その可能性があります。美津子さんは会社から受け取った金を、そのまま透真さんへ移しています。透真さんも以前と同じ仕事をし、役職まで名乗っています」


「無職ではなかったんですね」


「少なくとも、一般に言う無職の生活ではありません。給料という名前を使わず、母親の財布から受け取っていただけです」


幸子は透真のカード利用明細を見た。双子が生まれた日には、会員制レストランで六万八千円を使っている。幸子が病院のベッドで冷めた白身魚を食べていた夜、透真は誰かと高価な食事をしていた。


「この日は、双子が生まれた日です」


「出産を知らせるメッセージを送った日ですね」


「はい。既読がついたのは次の日でした。でも、食事へ行く時間はあったんですね」


「この記録も、日付が分かるように整理しましょう。感情の問題と、法的な問題は分けます。ただし、生活実態を示す資料にはなります」


一条は三冊目のファイルを開いた。そこには、透真が所有していた預金と不動産持分の移動がまとめられている。婚姻費用を請求された直後、透真名義の定期預金八百万円が解約され、同じ銀行の美津子名義の口座へ送金されていた。


透真は、神崎家が所有する賃貸ビルの持分も持っていた。しかし調停を申し立てた翌週、美津子が代表を務める会社へ売却した形になっている。登記上の売買価格は、周辺の相場と比べて極端に低かった。


「こんな財産があったなんて、知りませんでした」


「結婚後に取得したものか、結婚前から持っていたものかによって扱いは変わります。しかし、婚姻費用の支払いを求められた直後に財産を移している点は見過ごせません」


「お義母さんのものだと言われたら、終わりですか?」


「いいえ。いつ、誰から誰へ、どのような理由で移されたかを確認します。代金が本当に支払われたのかも重要です」


幸子が売買契約書の写しを見ると、透真の署名の横に美津子の署名があった。契約日は、透真が《無職になれば差し押さえられない》と送ってきた二日後だった。二人が偶然同じ時期に財産整理をしたとは考えにくい。


「財産の名義を移せば、存在しなかったことになると思ったのでしょう」


一条はそう言い、透真と美津子の間で動いた財産を時系列に並べた。婚姻費用の請求、透真の退職、預金の移動、不動産持分の譲渡が、一週間の中に集中している。さらに、透真が母親の会社で仕事を始めた時期も重なっていた。


「これから、どうするんですか?」


「まず、確定している婚姻費用の未払いについて、透真さんの預金や会社に対する報酬請求権を調べます。財産をさらに移される危険があれば、保全のための手続きも検討します」


「お義母さんの口座からも取れるんでしょうか」


「美津子さんの財産だからという理由だけでは取れません。ただし、透真さんの報酬を隠すために預かっているだけなら、実態を明らかにする必要があります。不動産の移転についても、債権者を害する目的の処分だったかを精査します」


「全部、子どもたちの生活費を払わないためにしたことです」


「その意図を、証拠で示します。幸子さんは、推測で話を広げず、記録を続けてください」


幸子は家計簿と通帳の写しを一条へ渡した。透真からの入金欄は、今月も空白だった。代わりに、粉ミルク、おむつ、幼稚園費、壊れた洗濯機の修理見積もりが赤い字で並んでいる。


「洗濯機が壊れたんですか?」


「脱水できなくなりました。今は手で絞っています」


「修理代も生活費として記録してください。それから、今日はこれを使ってください」


一条は事務所の隅に置かれた小さな洗濯機の箱を指した。事務員が一人暮らしを始める際に買ったものの、部屋に備えつけの洗濯機があり、未使用のまま置かれていたという。幸子はすぐに首を振った。


「いただけません。相談料まで立て替えていただいているのに」


「差し上げるのではなく、お貸しします。双子の洗濯物を手で絞っていては、手続きをする時間もなくなるでしょう」


「必ず返します」


「お子さんたちが汚しても構いません。洗濯機は、服を洗うための道具ですから」


事務員が洗濯機を届けてくれることになり、幸子は何度も頭を下げた。事務所を出る前、一条は会社の不自然な会計処理についても説明した。裁判手続きで明らかになった資料は、必要に応じて適切な機関へ提出される可能性がある。


「神崎家の会社まで調べられるんですか?」


「私たちが会社を罰するわけではありません。しかし、手続きの中で不正の疑いが明らかになれば、それを隠す理由もありません」


「お義母さんは、会社なら自分の思いどおりにできると言っていました」


「会社は、美津子さん個人の財布ではありません。その区別を守っていたかどうかが、これから問われます」


同じ日の夕方、美津子は神崎アセット管理の社長室で、顧問税理士から報告を受けていた。白いジャケットの胸元には真珠のブローチをつけ、机の上には食べかけのフルーツサンドが置かれている。生クリームが乾き始めていたが、美津子は一度も手を伸ばさなかった。


「どういうことなの? 家庭の問題でしょう」


「会社が神崎透真さんの家賃やカード代を負担している資料について、説明を求められる可能性があります」


「役員待遇で使わせているだけよ」


「透真さんは、役員として登記されていません。雇用契約も業務委託契約もなく、報酬の支払い記録もありません」


「家族なんだから、細かい契約など必要ないでしょう」


「会社と家族は別です。それに、美津子社長への業務委託料が、そのまま透真さんへ送金されています。税務上の説明も必要になるかもしれません」


美津子は机の引き出しから香水を出し、手首へ吹きつけた。強い薔薇の匂いが部屋に広がる。いつもなら香りを確かめて落ち着くはずだったが、その日は指先が震え、瓶を机へぶつけた。


「書類を作り直せばいいでしょう。透真を去年から雇っていたことにすれば済む話よ」


「過去の日付で虚偽の契約書を作ることには協力できません」


「あなた、誰から報酬をもらっていると思っているの?」


「会社からです。社長個人からではありません」


顧問税理士は書類を鞄へ戻し、今後は事実に基づいた資料だけを提出するよう求めた。美津子は呼び止めたが、税理士は頭を下げて部屋を出ていく。閉まった扉の向こうで、社員たちの低い話し声が聞こえた。


美津子はすぐに透真へ電話をかけた。三度目でようやくつながると、背後から音楽とグラスの触れ合う音が聞こえる。透真は友人と食事中らしく、面倒そうな声を出した。


「今どこにいるの?」


「レストラン。何だよ」


「会社のカードを使っていないでしょうね」


「使ってるよ。母さんが好きに使えって渡したんだろ」


「今日から使うのをやめなさい。マンションの契約も見直します」


「急に何だよ。あの女に何か言われたのか?」


「あの弁護士が、会社の金の流れまで調べているのよ」


「母さんが全部うまくやるって言っただろ。俺には関係ないよ」


「あなたを守るためにやったことでしょう!」


「勝手にやったのは母さんだろ。俺は知らないからな」


電話は一方的に切れた。美津子は暗くなった画面を見つめ、もう一度かけ直したが、透真は出なかった。フルーツサンドの苺から水分が染み出し、白い皿に赤い汁が広がっていた。


一方、幸子の部屋には借りた洗濯機の回る音が響いていた。まなとはんなは透明な蓋の向こうで回る靴下を眺め、どちらの服が先に見えるかを競っている。幸子は湊を背負い、樹を膝に抱きながら、温かいミルクを作った。


「ママ、洗濯機、元気になったね」


「これは一条先生の事務所から借りたんだよ。前の洗濯機は、あとで修理してもらおうね」


「パパのお金、見つかったの?」


「隠していた場所が、少しずつ分かってきたよ」


「かくれんぼしてたの?」


「そう。でも、見つけてもらいたくない、悪いかくれんぼだね」


幸子は洗い上がった肌着を取り出し、柔らかな洗剤の匂いを吸い込んだ。透真は無職ではなく、母親の財布の中へ収入を隠していただけだった。けれど、その財布を開けば、会社の金まで一緒に出てくる。


幸子は透真から届いたメッセージ、会社の資料、財産移転の記録を日付順にファイルへ綴じた。表紙には「子どもたちの生活費」と書く。透真を守るためについた嘘は、もう一つの家庭だけでは収まらず、神崎家の会社全体へ広がり始めていた。


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