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第4話 家庭裁判所で笑った男

第4話 家庭裁判所で笑った男


婚姻費用分担調停の日、幸子は午前五時に目を覚ました。薄暗い台所で昨夜のご飯をおにぎりにし、しょうゆを塗ってフライパンで焼く。香ばしい匂いに気づいたまなが寝室から出てきて、毛玉のついたパジャマのまま食卓へ座った。


「ママ、今日は裁判するの?」


「裁判じゃなくて、調停という話し合いだよ」


「パパも来る?」


「来ることになってるよ。まなとはんなは、夕方までママのお友達と待っていてね」


「パパに、ちゃんとご飯を食べなさいって言って。ご飯を食べないから、怒ってるのかもしれないよ」


幸子は、焼きおにぎりを包むアルミホイルを強く握った。まなは透真が帰らない理由を、自分なりに探している。父親が家族を捨てたとは考えず、空腹で機嫌が悪くなったのだと思おうとしていた。


「うん。話せる時間があったら伝えるね」


「ママも食べてね。赤ちゃんが二人いるから、おにぎりも二つ食べないと駄目だよ」


「二つ食べたら、ママのお腹がもっと大きくなっちゃうな」


「もう大きいよ。はんなが昨日、枕にしてたもん」


親子で小さく笑うと、台所に張りつめていた空気が少し緩んだ。幸子は焼きおにぎりを一つ食べ、残りを昼食用の袋へ入れた。古い卵焼き器で甘い卵焼きも作ったが、焦げた端は自分の弁当に詰め、形の整った部分を娘たちの朝食にした。


身支度を終えた幸子は、黒いマタニティーワンピースに灰色のジャケットを重ねた。クラブで働いていた頃に買ったジャケットで、肩は少し窮屈だったが、ほかに裁判所へ着ていける服がない。鏡の前で髪を一つに束ねると、はんながピンク色の髪留めを持ってきた。


「ママ、これつけて」


「今日は、この黒いゴムだけにしようかな」


「お花があった方が、かわいいよ」


幸子がかがむと、はんなは前髪の横へプラスチックの花を留めた。黒い服には不釣り合いなほど明るい桃色だったが、幸子は外さなかった。一条から受け取った書類の袋を確かめ、娘たちをママの店へ預けてから家庭裁判所へ向かった。


裁判所の待合室には、冷たい消毒液と古い紙の匂いが漂っていた。壁の時計が刻む音と、廊下を通る職員の靴音だけが聞こえる。一条は紺色の背広を着て、膝の上に書類鞄を載せていた。


「よく眠れましたか?」


「ほとんど眠れませんでした。家計簿の金額を間違えていないか、夜中に何度も見直してしまって」


「一円の違いで結論が変わるわけではありません。家族が、実際にどのような生活をしていたかが大切です」


「透真は、本当に来るでしょうか」


「来なければ、来なかったという事実が残ります。幸子さんは、ご自分の話を落ち着いてしてください」


一条はそう言って、紙袋から小さな飴を二つ取り出した。梅味と黒糖味があり、幸子が黒糖味を選ぶと、一条は梅味を自分の背広のポケットへ戻す。朝から口が乾いていた幸子は、甘い飴をゆっくり舐めた。


やがて、廊下の奥から革靴の硬い音が近づいてきた。透真が美津子と並んで歩いてくる。透真は濃紺のスーツに銀色の腕時計を合わせ、新品の茶色い靴を履いていた。


腕時計は、結婚していた頃に透真が欲しがっていた百万円を超える品だった。生活費を五万円しか渡さなかった男の手首で、照明を反射している。美津子も毛皮の襟がついたコートを着て、金具の大きなバッグを腕にかけていた。


「ずいぶん元気そうですね、無職の方にしては」


一条が静かに言うと、透真は腕時計を袖の下へ隠した。美津子は一条を上から下まで眺め、鼻を鳴らす。幸子には目も合わせず、香水の匂いだけを残して別の待合室へ入っていった。


「相手方とは別々の部屋で話を聞かれます。廊下で言い争わないでください」


一条の言葉に、幸子はうなずいた。調停委員に呼ばれ、四角い机と灰色の椅子が置かれた部屋へ入る。窓の外には冬枯れの街路樹が並び、その枝で一羽のカラスが鳴いていた。


男女二人の調停委員は、まず別居までの経緯を尋ねた。幸子は家計簿を開き、透真から渡されていた生活費が月五万円だったと説明する。足りないと訴えたあとで透真が家を出て、婚姻費用を請求すると告げた当日に退職したことも話した。


「現在の生活は、どのように維持していますか?」


「以前の勤務先の方から食べ物を借りています。区役所にも相談しました。幼稚園の費用は待っていただいています」


「申立人ご自身の収入はありますか?」


「ありません。双子を妊娠中で、医師から安静を指示されています」


「上のお子さん二人と、相手方との関係を確認させてください」


「透真とは養子縁組をしています。戸籍謄本も提出しました」


幸子は膝の上で両手を握った。調停委員は家計簿を一枚ずつ確認し、まなとはんなの幼稚園費、通院費、食費について質問した。一条は必要なときだけ補足し、透真の前年の源泉徴収票と退職前の給与明細を提出した。


幸子たちが待合室へ戻ると、今度は透真側が呼ばれた。扉が閉まっているため、向こうで何を話しているかは分からない。幸子は弁当の焼きおにぎりを半分だけ食べ、残りを包み直した。


「食べられませんか?」


「朝からお腹が張っていて。でも、子どもたちには二つ食べると約束しました」


「では、少しずつ食べましょう。約束を破ると、五歳の依頼人に叱られます」


一条の言い方に、幸子は口元を緩めた。卵焼きの焦げた端を一つ食べ、ぬるい水で流し込む。腹の中で双子が動き、張っていた場所が少しだけ柔らかくなった。


一時間ほどして、幸子たちは再び調停室へ呼ばれた。女性の調停委員は、透真が現在は無職で収入がないため、月一万円以上は払えないと主張していると説明した。美津子から生活費を援助されていることは認めたが、金額は月数万円程度だと述べているという。


「月一万円……四人分ではなく、家族全員でですか?」


「相手方は、上のお子さん二人については実子ではないとも話しています」


「養子縁組しています。透真が自分で望んだんです」


「その点については、戸籍で確認しています」


幸子は持参した透真の手紙を机へ置いた。まなとはんなを実の娘として一生守ると、透真自身の字で書かれている。女性の調停委員は最後まで読み、男性の調停委員へ渡した。


「一条先生、追加の資料があると伺っています」


「はい。相手方の申告には、実態と異なる部分があります」


一条は、透真の退職後の生活についてまとめた書面を提出した。透真が家を出る前、幸子は家計を管理するため、夫婦で使っていた口座の入出金記録を毎月保存していた。別居後もその口座には、美津子名義の口座から五十万円ずつ、二度の送金が行われていた。


送金の翌日には、高級車の販売会社へまとまった金額が支払われている。さらに透真は、退職後も神崎不動産の関連会社へ出入りしていた。取引先との会食に参加し、神崎不動産の担当者として送ったメールも残っていた。


「この写真は、どこから入手したものですか?」


「相手方が自分の交流サイトへ投稿した画像です。撮影日時と場所も表示されています。こちらは、取引先へ送ったメールを提出者の許可を得て写したものです」


「メールには、『神崎不動産の神崎透真』と署名がありますね」


「はい。退職した翌週の日付です。相手方は、収入を得ていないと主張しながら、以前と同じ仕事を続けていると考えられます」


調停委員は資料を持ち、もう一度透真側の部屋へ向かった。幸子は待合室で指先をこすり合わせた。美津子からの五十万円を援助だと言い張られれば、それで終わってしまうのではないかという考えが何度も浮かぶ。


しばらくすると、隣の廊下から透真の声が聞こえた。扉が完全には閉まっていなかったらしく、苛立った声が待合室まで漏れてくる。


「母からの援助は収入じゃありません。俺の金でもないので」


「ですが、毎月五十万円を受け取り、生活費として使用しているのですね」


「金持ちの親が息子に小遣いを渡すのは普通でしょう。それを妻に分ける義務なんかないですよ」


「退職後も会社の業務を行っているようですが、報酬は受け取っていないのですか?」


「母さんの会社を手伝っただけです。家族なんだから、ただで手伝うこともありますよ」


透真は最後に笑った。小さく鼻を鳴らすような笑い方は、家で幸子の家計簿を見たときと同じだった。幸子はバッグの中で両手を握り、調停室へ乗り込みたい気持ちを抑えた。


その日の調停では合意に至らなかった。透真は月一万円、美津子は離婚届へ署名するなら五十万円という条件を変えない。一条は金額だけの問題ではないとして、話し合いによる解決は困難だと告げた。


「それなら、審判で判断していただきましょう」


廊下へ出ると、美津子が透真へ何かを耳打ちしていた。幸子の姿を見るなり、透真は新品の革靴を鳴らして近づいてくる。一条が二人の間へ入り、裁判所内で直接話しかけないよう注意した。


「俺をこんなところへ呼び出して、ただで済むと思うなよ」


「呼び出したのは裁判所です。幸子さんではありません」


「無職の人間から金を取ろうなんて、そっちの方がおかしいだろ」


「その主張は、書面でお願いします」


透真は舌打ちし、美津子と一緒にエレベーターへ向かった。幸子たちは同じエレベーターを避け、少し時間を置いてから建物を出た。外では冷たい雨が降り始め、歩道に黒い水玉を作っていた。


それから一か月後、裁判所から審判書が届いた。裁判所は、透真が婚姻費用の請求を受けた直後に自ら退職したこと、退職後も同種の仕事を続けていること、従前の年収が約七百万円あったことを重く見た。表面上の無収入だけでなく、透真の就労能力と生活実態を踏まえ、相応の婚姻費用を毎月支払うよう命じた。


支払いは、幸子が明確に請求した時点まで遡った。すでに数か月分の未払いが積み上がっており、透真が最初に提示した一万円では到底足りない額になっている。幸子は審判書を読み終えると、食卓の端に置き、冷めた大根の煮物を温め直した。


「これで、終わりですか?」


電話の向こうで、一条はすぐには答えなかった。紙をめくる音が聞こえたあと、落ち着いた声で説明する。審判が出ても、透真が素直に払うとは限らなかった。


「まずは大きな一歩です。ただし、支払われなければ強制執行を検討します。審判書は、なくさないように保管してください」


「はい。子どもたちの母子手帳と一緒にしまいます」


「それから、相手方が異議を申し立てる可能性もあります。まだ気を抜かないでください」


数日後、幸子は追加の書類を受け取るため、一条と再び家庭裁判所を訪れた。手続きを終えて廊下へ出たところで、向こうの階段から透真と美津子の言い争う声が聞こえた。二人は幸子たちに気づかず、踊り場で足を止めていた。


「どうするんだよ、この金額! 月一万円で済むって言ったじゃないか!」


「声を落としなさい。ここがどこだと思っているの」


「母さんが、無職になれば払わなくていいと言ったんだろ! だから俺は会社を辞めたんだぞ!」


「私のせいにしないで。あなたが勝手に退職したのでしょう」


「母さんが退職届まで用意したんじゃないか!」


幸子は反射的にスマートフォンを取り出した。画面を見ずに録音を開始し、コートのポケットへ入れる。一条は何も言わず、幸子と透真たちの間に立った。


「それに、会社を手伝えば毎月五十万円を渡すって言っただろ。裁判所にばれたのも、母さんの振り込み方が悪かったからだ!」


「黙りなさい!」


美津子が透真の頬を打った。乾いた音が廊下へ響き、近くの部屋から職員が顔を出す。そこでようやく二人は幸子と一条に気づいた。


透真の顔から血の気が引いた。美津子はバッグを胸元へ引き寄せ、何も言わずに階段を下りていく。透真も幸子のポケットを見ながら、美津子のあとを追った。


「今の録音は、使えますか?」


「音声の内容や録音された状況を確認する必要があります。ただ、消さずに保存してください」


「透真は、自分で全部言いました。お義母さんに言われて退職したことも、会社を手伝って五十万円を受け取っていることも」


「ええ。自分は無職だという仮面を、自分の手で外しましたね」


帰宅すると、まなとはんなが玄関まで走ってきた。食卓には、クラブのママが持たせてくれたアジの開きと、まなが丸めた不格好なおにぎりが並んでいる。幸子は娘たちを両腕で抱きしめ、桃色の髪留めがまだ髪についていることに気づいた。


「ママ、パパとお話しできた?」


「うん。パパが言ったことを、ちゃんと聞いてきたよ」


「ご飯を食べなさいって言った?」


「それは言えなかった。でも、自分で働いて、自分の子どもを守りなさいって、裁判所が代わりに言ってくれた」


幸子は録音した音声を複製し、一条へ送った。透真が笑いながら作った「無職」という逃げ道には、自分で残した足跡がいくつも続いている。その先に何が隠されているのか、幸子はもう、目をそらすつもりはなかった。


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