第3話 夜の街で得た味方
第3話 夜の街で得た味方
月曜日の朝、幸子は財布の中身を食卓へ並べた。百円玉が二枚、五十円玉が一枚、十円玉が四枚、合計二百九十円しかない。冷蔵庫には昨夜のキャベツのみそ汁が茶碗一杯分残っていたが、米びつの底には一合にも満たない米しか残っていなかった。
幸子はみそ汁へ水を足し、冷凍庫の隅に残っていた刻みネギを入れて温めた。具の少ない汁を四つの椀へ分けると、鍋の底が見える。まなとはんなには薄く焼いた小麦粉を添え、自分は湯気の消えかけた汁だけを飲んだ。
「ママ、今日はパンじゃないの?」
「今日はお焼きだよ。昔、おばあちゃんが作ってくれたの」
「おばあちゃん、これに何を入れてた?」
「ネギとか、しらすとか。何もない日は、お砂糖を少し入れてくれたよ」
まなは小さくちぎったお焼きをみそ汁へ浸し、はんなの口へ運んだ。はんなは熱いと言いながら笑い、頬を膨らませて食べている。幸子は二人の姿を見ながら、家計簿の食費欄に「小麦粉、残り」と書き込んだ。
区役所から紹介された法律相談は、早くても二週間後だった。それまで食べ物も幼稚園の集金も待ってはくれない。幸子は迷った末、妊娠するまで勤めていたクラブ「花扇」のママへ電話をかけた。
「ご無沙汰しています。幸子です」
「あら、どうしたの。赤ちゃんは順調?」
「はい。双子とも元気です。あの、ママに相談したいことがあって……今日、お店へ伺ってもいいですか」
「声がおかしいわね。お金のこと?」
幸子は返事ができなかった。流しに置いたみそ汁の鍋から、煮詰まったみその匂いが上がっている。電話の向こうで氷をグラスへ入れる音がしたあと、ママは夕方五時に来るよう告げた。
「開店前なら、ゆっくり話せるわ。子どもたちはどうするの?」
「幼稚園の延長保育をお願いしてみます」
「お金がかかるでしょう。連れてきなさい。事務所でテレビでも見せておけばいいわよ」
「でも、お店に子どもを連れていくなんて」
「客が来る前なら問題ないわ。あなた一人で何でも片づけようとする癖、まだ直っていないのね」
夕方、幸子はまなとはんなを連れ、電車で繁華街へ向かった。交通費を払うと財布には百円玉一枚しか残らないため、帰りの分は改札を通る前に別のポケットへ移した。幸子は紺色のマタニティーワンピースに古いベージュのコートを重ね、娘たちには一番汚れの少ない花柄のワンピースを着せていた。
駅を出ると、焼き鳥屋の煙と香水の匂いが冷たい風に混じって流れてきた。幸子が働いていた頃と同じ場所に、赤いドレスの女性を描いた立て看板が置かれている。まなは輝き始めたネオンを見上げ、幸子の手を強く握った。
「ママ、ここで働いてたの?」
「そうだよ。お酒を出したり、お客さんとお話ししたりしてたの」
「夜なのに、お仕事するの?」
「夜に働く人もたくさんいるの。まなが眠っている時間に、ママは働いてたんだよ」
「じゃあ、朝はいつ寝てたの?」
「二人を保育園へ送ってから。だけど、はんなが赤ちゃんの頃は、なかなか寝てくれなかったな」
地下へ続く階段を下りると、クラブの重い扉が見えた。開店前の店内は天井の照明が半分しかついておらず、赤いソファの上にはクリーニングから戻ったおしぼりが積まれている。カウンターの中では黒服の青年がグラスを磨き、湿った布とレモン洗剤の匂いを漂わせていた。
「幸子、ずいぶん痩せたじゃない」
紫色の着物を着たママが奥から現れた。髪は高く結い上げられ、左手には値札のついたままの口紅を持っている。幸子の腹を見てから、まなとはんなへしゃがんで目線を合わせた。
「大きくなったわね。私のこと、覚えてる?」
「きれいなおばちゃん」
「まな、失礼でしょう」
「いいのよ。お姉さんと言わないところが正直でよろしい」
ママは声を上げて笑い、二人を事務所へ連れていった。古いテレビの前に座布団を敷き、冷蔵庫からオレンジジュースとサンドイッチを出す。まなは幸子を見上げ、食べてもいいかと目で尋ねた。
「いただきなさい。ちゃんとお礼を言ってね」
「ありがとうございます」
「卵とハムがあるから、好きな方を選んで。遠慮して残したら、私が怒るわよ」
はんながすぐに卵サンドへ手を伸ばし、まなは一つだけ残ったハムサンドを幸子へ差し出した。ママはその様子を黙って見たあと、別の皿からサンドイッチを二つ持ってくる。幸子の前へ置き、食べ終わるまでは話を聞かないと言った。
幸子は冷たい卵サンドを口へ運んだ。柔らかいパンからマヨネーズが押し出され、指先につく。朝のみそ汁以来、何も食べていなかった胃が動き出し、一口飲み込むたびに腹の中の双子も動いた。
「それで、あの御曹司は何をしたの?」
ママに尋ねられ、幸子は透真が家を出た経緯を話した。月五万円しか渡されなかったこと、美津子から離婚届を突きつけられたこと、婚姻費用を請求すると告げた直後に透真が退職したことも伝える。最後にスマートフォンを出し、保存していたメッセージを見せた。
「無職になったから払わないですって? あの坊や、頭の中まで母親に着替えさせてもらっているのね」
「私、夜の仕事に戻れないでしょうか。接客はできなくても、開店前の掃除や洗い物なら……」
「妊娠五か月で、それも双子でしょう。階段で転んだらどうするの」
「でも、今夜のお米も買えないんです」
ママは口を閉じ、指につけていた大きな指輪を回した。昔から、考え事をするときに出る癖だった。何かを言いかけたところで、店の扉が開いた。
「まだ開店前でしたか。失礼しました」
入ってきたのは、焦げ茶色の背広を着た六十代の男性だった。白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけている。手には法律事務所の名前が印刷された紙袋を提げていた。
「一条先生、今日はずいぶん早いですね」
「近くで仕事が終わったので、頼まれていた書類を届けに来ました。おや、そちらは……幸子さんではありませんか」
幸子は慌てて立ち上がったが、腹が椅子の縁に当たり、テーブルの水を揺らした。一条宗一郎は、幸子がクラブで働いていた頃の常連客だった。高い酒を注文しても女性に無理に飲ませず、帰るときには必ずグラスを片づけてから席を立つ人だった。
「ご無沙汰しております。先生こそ、お変わりなく」
「お腹が大きいですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。双子なんです」
「それは楽しみですね。後ろにいるのは、まなちゃんとはんなちゃんですか。以前、写真を見せてもらいました」
まなとはんなは、事務所の入口から一条を見ていた。はんなの口元には卵サンドの欠片がついている。一条は胸のポケットから白いハンカチを出そうとしたが、まなが自分の袖ではんなの口を拭いた。
「先生、ちょうどいいところに来たわ。少し時間をいただけません?」
ママは一条を赤いソファへ案内し、幸子へスマートフォンを持ってくるよう促した。幸子は家庭の話を客に知られることをためらったが、一条が弁護士であることを思い出す。ママは黒服に温かいほうじ茶を頼み、テーブルの上のおしぼりを端へ寄せた。
「ここは法律相談所ではありませんが、聞くだけなら構いません。どうされました?」
幸子は同じ話を初めから説明した。話している間、一条は口を挟まず、手帳へ日付と金額を書き込んでいく。透真から届いたメッセージを見せると、一条は何度も画面を拡大し、送信日時まで確認した。
「この画像は、ほかの場所にも保存していますか?」
「スマートフォンの中だけです」
「念のため、別の場所にも保存しましょう。機種が壊れたり、誤って消したりすると困ります。メールでご自分宛てに送り、印刷したものも保管してください」
「これが証拠になるんですか?」
「なります。少なくとも、ご主人が婚姻費用の請求を知った直後、自分の意思で退職したと述べている資料です」
一条はスマートフォンをテーブルへ置き、ゆっくり眼鏡を外した。レンズを白い布で拭きながら、透真の文章をもう一度見る。店内では黒服が氷を割っており、硬い音が一定の間隔で響いていた。
「退職すれば義務まで消えると思ったのですか。ずいぶん、ご自分に都合のいい法律を作ったものですね」
「でも、本当に無職なら、払ってもらえないんでしょうか」
「現在の収入だけですべてが決まるわけではありません。働ける人が支払いを逃れる目的で退職した場合、以前の収入や年齢、職歴、就労能力などが考慮される可能性があります」
「透真は、神崎不動産で七年働いていました。去年の年収は、たしか七百万円くらいです」
「源泉徴収票や給与明細は残っていますか?」
「家にあるかもしれません。通帳も印鑑も持ち出されましたが、書類の箱までは持っていません」
一条は、婚姻費用分担調停を早急に申し立てると説明した。透真へ生活費を求めたメッセージが残っているため、請求した時期を明確にできる。離婚については、美津子に急かされて署名せず、慰謝料、財産分与、子どもたちの養育費を整理してから進めるべきだと話した。
「まなとはんなは、透真と養子縁組をしています。それでも、連れ子だから関係ないと言われるんでしょうか」
「戸籍を確認しなければ断定できませんが、養子縁組が成立しているなら、二人は法律上もご主人の子です。実の親子と同じように、扶養義務があります」
「透真は、母親に勧められたわけではなく、自分から養子にしたいと言ったんです。三人で家族になろうって……」
「そのときの手紙やメッセージは残っていますか?」
「結婚式の日にくれた手紙があります。まなとはんなを一生守ると書いてありました」
幸子の膝の上へ、一滴落ちた。紺色のワンピースの生地が丸く濃くなり、続けてもう一滴落ちる。幸子が手の甲で目元を拭うと、一条は何も言わず、未使用のおしぼりを差し出した。
「四人とも、あの男が自分の意思で家族にした子です。都合が悪くなったから捨てるなど認めさせません」
「先生、お願いします。私一人では、何をしたらいいのか分かりません」
「分からないことは、私に聞いてください。ただし、手続きの主人公は幸子さんです。私は代わりに戦う人間ではなく、あなたが戦うための道具をそろえる人間です」
「はい。私がやります」
一条は明日の午前中に法律事務所へ来るよう告げた。必要なものは戸籍謄本、住民票、透真の源泉徴収票、給与明細、家計簿、通帳の記録、メッセージの画像だった。費用については法テラスの制度を利用できる可能性があるため、所持金を理由に諦めなくていいとも説明した。
「先生、今日の相談料は……」
「まだ正式な法律相談を始めていません。私は、昔の知り合いからサンドイッチを食べながら事情を聞いただけです」
「でも、こんなに教えていただいて」
「では、今度お子さんたちが元気に生まれたら、写真を一枚見せてください。それを今日の代金にしましょう」
ママは話が終わると、米、卵、牛乳、冷凍のハンバーグを大きな紙袋へ詰めた。賞味期限が近い店の余り物だと言い張ったが、牛乳には今日の日付の値札が貼られている。幸子が受け取れないと言うと、ママは細い眉をつり上げた。
「これは貸しよ。あなたが働けるようになったら返しなさい」
「いつになるか分かりません」
「十年後でも構わないわ。その代わり、子どもに食べさせるものまで遠慮しないこと」
「ありがとうございます。必ず返します」
帰りの電車で、まなとはんなは紙袋から漂うハンバーグの匂いを何度も嗅いだ。まなは今夜食べてもいいかと尋ね、はんなは卵焼きも欲しいと言った。幸子は二人の手を握り、今夜は白いご飯とハンバーグと卵焼きにしようと答えた。
家へ戻ると、幸子は子どもたちを寝かせたあと、押し入れの書類箱を開けた。透真の給与明細、源泉徴収票、養子縁組後の戸籍謄本、結婚式でもらった手紙が出てくる。手紙には、透真の字で「まなとはんなを、実の娘として一生守ります」と書かれていた。
幸子は破れかけた家計簿、残高が分かる通帳の写し、透真の手紙を食卓へ並べた。窓際では、昼間に乾かなかった子どもたちの靴下が洗濯ばさみに挟まれ、暖房の風に揺れている。幸子は一条から渡された封筒へ、書類を一枚ずつ入れた。
「明日から、逃げるのは終わりにするからね」
腹を撫でると、双子が交互に動いた。透真が逃げるために残した言葉は、もう幸子を傷つけるだけのものではない。四人の子どもの権利を取り戻すための、最初の証拠になっていた。




